(掌編小説)釜のブルース02
亡くなった彼のことをもう少し書きます。
釜のブルース02
第一章 三角公園の「百円」
萩之茶屋南公園——通称「三角公園」は、この街の心臓のような場所だ。 炊き出しの日になると、広い公園はあっという間に人で埋まる。ボランティアや地元の人間が作る大鍋から立ち上る湯気が、灰色の空へ吸い込まれていく。無償で配られる温かい食事や衣服を求めて長蛇の列ができる中、私はギターケースを背負って自転車を漕いでいた。バンドの練習場へ向かう途中のことだ。
公園の頂点にあたる場所、古びた公衆トイレの前を通ろうとした瞬間、視線の端にあの男が映った。
(まずい……)
胸の中で呟き、意識して顔をそむけた。目を合わせずに通り過ぎようとペダルを強めに踏み込む。 だが、遅かった。
彼もこちらに気づいていた。 パッと顔を輝かせ、嬉しそうな目を私に向ける。
そして、使い古された作業着の袖から出した右手の掌を上に向け、ひょこひょこと足取りも軽やかに自転車の進行方向へ近づいてきた。
「ない!」
先手を打って言い放つ。
「……百円」
吃音のある独特の口調で、彼は掌を差し出したまま言った。
「ない!」
私はもう一度、強めの声で突っぱねた。毎度のこととはいえ、毎回こうして当然のように手を差し出されると、さすがにすこし腹が立つ。
「……つ、つめたいな……」
彼は顔を歪め、恨めしそうに私を見つめた。 私はそれ以上何も言わず、ただペダルに体重を乗せてその場を走り去った。振り返ると彼の姿は、すぐに炊き出しの行列の熱気の中に紛れて見えなくなった。
第二章 街の風と、男の影
彼は当時、五十歳を超えていたはずだ。 後から耳にした話によれば、先天性の知的障害があり、日常のちょっとした買い物や会話はできるものの、物事を深く整理するのは苦手だったらしい。東京近郊の生まれで、十八歳で一度は仕事に就いたものの、職場に馴染めずすぐに辞めてしまったという。その後はアルバイトをしながら実家で暮らしていたが、やがて家族との折り合いが悪くなり、二十歳になる頃には家を飛び出した。
そうしてホームレス生活を続けながら、流れ流れてこの大阪西成にたどり着いたのだった。
いまは生活保護を受け、一間で暮らしている。酒が好きで、缶チューハイや安い酒をいつも手にしていた。街で見かけると、吃音混じりに人懐っこく話しかけてくる。 しかし、少し前から彼の姿を見かけなくなっていた時期があった。腸をだいぶ悪くして、入院していたのだと近所の居酒屋で聞いた。
釜ヶ崎という街では、人が突然消える。 病院に入院する者、借金から逃れて別の都市へ姿をくらます者。そして、人知れず亡くなっていく者。それらはこの街では日常茶飯事で、誰もいちいち理由を深追いしようとはしない。
ただ、ひとつだけ違っていたのは、彼が完全に孤立していたわけではないということだった。家族と口論になって家を飛び出したものの、母親とだけは細々と連絡を取り続けていたらしい。街の片隅で荒れた暮らしをしながらも、彼の中にはたったひとつ、故郷とつながる細い糸が残っていたのだ。
第三章 消えた影
季節がひとつ巡り、再び三角公園で大規模な炊き出しが行われる日だった。 アンプのシールドやエフェクターをカゴに詰め、自転車で公衆トイレの前を通りかかる。いつもなら、あの公衆トイレの陰からひょっこりと顔を出し、嬉しそうに近寄ってくるはずだった。
だが、そこに彼の姿はなかった。
(また入院でもしたんかな……)
そう思いながらペダルを漕ぎ抜ける。
「ない!」と言わずに済んだことに安堵するはずだった。いつも鬱陶しいと思っていたのだから、邪魔が入らない方がいいに決まっている。 だが、会場に入ってアンプにコードを差し込んでいるとき、ふと自分のポケットの中に手を入れると、指先に硬い金属の感触があった。百円玉だった。
(・・・つめたいな。)
彼のあの声が、頭の中で低くリフレインした。 公園を通るたび、私は彼を遠ざけようとした。だが、彼は私に金を求めていたのと同時に、ただ「自分に気づいてくれた人間」に声をかけたかっただけなのではないか。そんな思いが、遅すぎて意味のない後悔のように胸をかすめた。
第四章 母の背中
彼が姿を消してから、それほど長い時間はかからなかった。一年も経たないうちに、彼が亡くなったという報せを聞いた。五十三歳だった。死因は大腸の病気だった。酒の飲み過ぎも身体を蝕んでいたのだろう。
釜ヶ崎で身寄りのない人間が亡くなると、市によって簡易的な葬儀が行われ、無縁仏として処理されることが多い。彼の場合も市の対応によって執り行われたのだが、ひとつだけ違った光景があった。
葬儀の場に、一人の年老いた女性が参列していたのだ。 遠く東京から駆けつけた、彼の母親だった。
私は遠巻きにその様子を眺めていた。小さく丸まった背中を深々と折り、息子の棺に向かって静かに手を合わせる母親の姿があった。 二十歳で家を飛び出し、三十年以上もこの西成で泥のように生きてきた男。街の人々からは「百円のおじさん」のように扱われ、私にも煙たがられていた男。だが、あの小さなお母さんにとっては、いつまでも手元から離れてしまった大切な「息子」だったのだ。
母親が何を思い、どんな言葉を棺の中にかけたのかはわからない。ただ、母親の背中はあまりにも静かで、そして悲しかった。
第五章 釜のブルース
夕暮れ時、三角公園の空が薄紫から濃い紺色へと染まっていく。 練習会場帰りの自転車で、私はいつものように公衆トイレの前を通りかかった。
もちろん、もう誰も立ち塞がってはこない。手を上に向けて近寄ってくる男も、「百円」と吃音混じりにねだる男もいない。公園のベンチでは、見知らぬ男たちが缶チューハイを交わし、何事もなかったかのように夜の闇が街を包み込んでいく。
私は自転車を止め、ポケットから一枚の百円玉を取り出した。 冷たい硬貨の感触を掌で確かめる。
「渡しておけばよかったんかな……」
呟いた声は、街の雑音の中に消えた。 たった百円を出さなかった自分の冷たさへの後悔か、それともこの街で命をすり減らして消えていった男への手向けか。どちらにしても、もう二度と本人に届くことはない。
練習場に戻り、誰もいない部屋でベースのシールドをアンプにつなぐ。ボリュームのつまみを上げ、太い低音をひとつ鳴らした。 ズンと腹に響く音が、静かなスタジオ内に広がる。
それは、この街の埃っぽさ、酒の匂い、冷たさと温かさが入り混じった空気、そしてあの男が最後に残していった泥臭いブルースのコードだ。
(了)
動物園前一番通り 歌詞 与三郎 曲天満の哲 唄 釜凹バンド
6時32分 街は西日に 輝いて
照り返す 向かいの看板 路地に伸びる 長い人影
今も続く のぼるさんの話 これから 何人 行き交うのだろう
動物園前一番通り 今日も明かりが 灯り出す
あなたは 電車の窓で 走り抜ける 街をみている
煌めく 光の中に 小さな家が見えるでしょう
そこに暮らすたくさんの人達 あなたはきっと 私たちを思い出す
動物園前一番通り 釜が崎の 小さな通り
銭がないんや、酒がのまれへん、 仕事がないんや!
道で男が 叫んでいるよ 仕事にあぶれた 男がいるよ
タバコをせがむ 女がいるよ 歩く男に 声をかける
兄ちゃん、煙草ちょうだい。なあ、兄ちゃん
きょうも酔ってる 北さん 猫くん
それでも 少しは 控えているのさ
動物園前一番通り あなたが過ごした 古びた通り
小さな部屋に 集まって あなたが撮った ビデオをみてる
笑い転げる人もいる いなくなった人もいる
やがて 誰かが 尋ねてくるのさ
自分を知りたくて やってくるのさ
動物園前 一番通り あなたを待ってる 不思議な通り
動物園前 一番通り あなたを待ってる 不思議な通り
