朗読松姉さん3・4
3
暑い夕陽を避けるように、山王町商店街の日陰の隅で、松が段ボール紙を何枚も重ねて座り込んでいた。空が薄暗くなると、次第に人通りが増えてきた。松はゆっくりと首をあげ、歩いている二人連れの男に声をかけた。
「兄ちゃん、百円……」
「なんや!」
男は驚いた。
「兄ちゃん、百円頂戴………」
「なんじゃい、女の乞食か。わしら急いどんのや」
松は両手を伸ばした。
「兄ちゃん、百円………」
男はポケットから百円玉を取り出すと路上に投げた。そして走るように去った。
遠くからその様子を見ていた英之がやってきた。茜みどりの後援会の会員の黄色いハッピを着ている。そして、松の手から遠く離れた百円玉を取りあげ小箱に入れた。
「ああ……」
英之は松の横に座り込んだ。
「えげつないな、ちゃんと入れてやったらええのに。おばあちゃん、病院へ行ったほうがええんとちゃうか……。わし連絡しよか?」
「ええ……、ああ……」
英之は会うたびに入院を勧めていたが、松は今日も手を振って断った。松の顔に目やにがべったりとついている。眼を患っているかもしれなかった。松が英之の来ている黄色いハッピを指さした。
「このハッピか? これは茜みどりの後援会が着るハッピや。格好ええやろ」
松が笑ったようにも思えた。
「暖かいもん食べるんやで。ビールなんか飲んでお腹冷やしたらあかんで」
英之は千円札を財布から取り出し、松に握らせて去った。松は皺だらけの自分の手の中にある千円札を見つめた。
すでに亡くなった人が多く、生きている人もその記憶が曖昧だったが、松について英之が聞いた話は次のようなことだった。
松は、飛田では戦前、戦後は一番の売れっ子だと言われていた。女達から松姉さんと慕われていた。松は一九二三年年、泉南地方の部落で生まれた。父母に定職は無く、小作農家の手伝いや、皮革作業で生計をたてていたらしい。松が、芸能の世界に染まるきっかけになったのは十歳の時だった。その年、五人目の子供が生まれた。両親はいよいよ生計が成り立たなくなるのを案じ、松を奉公に出そうと考えたが、泉南の貧しい部落が出自の松に奉公先は見つからず、大道芸人に預けられることになった。花街の辻に立って、唄や踊りをみせる商売である。
4
松の小さな可愛い黒い手が、父親の五助のごつい手に握られていた。
「今日から、定やんとこで修行するんや。松は唄も踊りも好きやからすぐに上手になれるわ」
「松、松……」
母は松を抱いて離さなかった。小さな四人の兄弟も家の隅で泣いていた。松は働き通しの母親にかわり兄弟の世話をしてきた。
「もう、泣くな。松がこの家離れられんようになるやないか」
松は母の目をしっかり見て言った。
「お母ちゃん、心配せんといて。うち早う、お金稼げるようになって帰ってくるから」
家を出て行く松と五助を母親と弟と妹達は泣きながら見送ったという。傾きかけたあばら屋が続いていた。芸事に才能を見せた松は、厳しい修行のなかにそれなりに楽しさを見いだして過ごした。街頭では、芸の師匠でもある定吉の三味線の音に乗り、松は唄いそして踊った。
通行人が立ち止まり、小さな松の唄と踊りに聞き入る。
「うまいな、この子の踊り」
「それに、ほんま可愛いこと」
「ありがとうございます。まことにこの松はけなげな娘でございます。父親は、満州で戦死、それを悲しんだ母は病死したのであります。残された松でございますが、幼い弟・妹を食べさせるため、今はこうして大道芸で身を立てております」
「お父ちゃん、満州で死んだんか。可哀想にな。少ないけど」
年配の婦人がお札を松に握らせる。遠くからも声がかかる。
「がんばりや」
「ありがとうございます」
小銭が投げ入れられた。いくつも、いくつも投げ入れられた。
「ありがたいな、ここの方はほんま、人情の溢れた人ばかりや。松、お礼言うんやで」
「ありがとうございます」
しかし、年齢を重ね、松に幼さが消えると、客の投げ銭はみるみる少なくなった。幼子を抱え、定職を持たない父の五助には金づるは松しかなかった。久しぶりに松を尋ねてきた五助が定に話していた。
「そらひどいわ、約束は七年やで」
「わかってるがな、そやさかい金をわたすんやないか」
五助は定に金を握らせた。金をみて定は喜んでうなずいたらしい。松は父に飛田に売られた。十五歳になっていた。
