緋の残像 (掌編小説)AIと遊ぶ高齢者

緋の残像
七十五歳の英之(ひでゆき)は、もう何十年もこの古い木版画を、西成の小さなアパートの壁に飾っている。
それは、ただの風景画ではない。英之(ひでゆき)にとって、それは痛みを伴う記憶の扉そのものだ。
今日も、夕暮れ時になると、彼はその絵の前に立つ。かつて彼の手で、一彫り一彫り刻まれた、鮮烈な緋色の夕焼けと、波立つ紅海。そして、海へ伸びるあの石畳の桟橋。
「もう五十年か……」
英之(ひでゆき)の呟きは、掠れていた。視線は、絵の中の、桟橋から少し離れて波に洗われている二つの黒い岩に注がれる。あの岩は、あの時の、二人の沈黙を表しているように見えてならない。
半世紀前。英之(ひでゆき)はまだ若く、将来に焦りを感じていた画家志望だった。彼には、美子(よしこ)という、海のように深く澄んだ瞳を持つ恋人がいた。
二人は、絵にあるような小さな漁村で、ささやかだが幸せな時間を共有していた。夕暮れ時になると、いつもあの桟橋まで散歩し、沈む夕陽を見て、未来を語り合った。英之(ひでゆき)にとって、美子(よしこ)は創作の源であり、生きる意味そのものだった。
しかし、あの日、美子(よしこ)は突然姿を消した。
理由も告げず。手紙一通残さず。ただ、彼女の私物だけが、アパートから綺麗に消えていた。
英之(ひでゆき)は混乱し、彼女を探し回った。彼女の実家、友人、彼女が好きだった場所……すべて回ったが、手がかりは何もなかった。村の人々も、突然のことに口を閉ざした。
残されたのは、彼が彼女のために描いていた未完成の絵と、あの日二人で見続けた、この「緋色の夕暮れ」の記憶だけだった。
「なぜ……? なぜ、何も言わずに?」
五十年経った今でも、その問いは英之(ひでゆき)の心を締め付ける。怒り、悲しみ、後悔。さまざまな感情が、絵の中の、燃えるような緋色と渦巻く波の模様となって、彼の内側で蘇る。
彼は、彼女の不在を埋めるように、ひたすら絵を描き続けた。そして、彼は徐々に、創作から遠ざかっていった。
今は、一人の老人として、ただこの絵を眺めることだけが、彼の日常となっている。
絵の中の、桟橋。それは、彼女へと続く道であり、同時に、彼女を二度と戻らない場所へと連れ去った道でもある。石畳の一つ一つが、彼が彼女を探し回った日々の記憶のように、冷たく、硬く、不規則に並んでいる。
「美子(よしこ)……」
英之(ひでゆき)は、絵の中の、最も明るく燃えている紅色の雲の塊に、彼女の笑顔の残像を見る。あの笑顔は、あの日、この夕暮れの中で、何を考えていたのだろうか。
「私はまだ、ここにいるよ」
英之(ひでゆき)は、誰に言うでもなく呟いた。
海は、今日も緋色に染まり、渦を巻きながら、静かにすべてを受け入れている。彼の後悔も、彼女の秘密も、そして、あの日のまま時が止まった、二人の沈黙も。
英之(ひでゆき)は、もう一度だけ、絵の中の二つの黒い岩を見つめた。それは、二人の記憶が、いつまでもこの海に留まり続けることを、静かに示しているように思えた。
彼は、ゆっくりと目を閉じ、あの日の、緋色の潮風を、頬に感じた。
嘆きの海 yosaburou
あなたは しろいくもに乗って あなたは 風にはこばれていく
あなたが愛した うみべのまちは いまは ゆうひに 赤くかがやく
二人で この海を 見ることはなかった
二人で このはまべを 歩くことはなかった
とおい雲よ とおいかこよ 誰も おまえに ふれることはない
私は 叫ぶ あなたのなまえを 私は歩く はまべの先へ
私に きこえる あなたの声が まるで かこのように ささやく
静かに 波が すなはまをけずる
私が ゆめ見た 時がくずれる
くらい 空よ かがやく 波よ やがて すべてが やみのなかへ
海よ おまえの なげきの声よ 海よ おまえの 悲しみはみちて
海よ おまえは 波を走らせ そして 私を 抱き寄せる
ららら ららら ららら ららら ららら ららら らららららら
とおい雲よ とおいかこよ 誰も おまえに ふれることはない
くらい 空よ かがやく 波よ やがて すべてが やみのなかへ
ららら ららら ららら ららら ららら ららら らららららら
