地質観察旅行記:秦野盆地と丹沢山地と大磯丘陵
2024年11月23日に神奈川県生命の星・地球博物館が主催する地形観察会に参加し、秦野盆地を観察したので、ここにその記録を残します。
なお、本記事の内容に誤りがある場合、それは学芸員さんの説明を理解できていない私の責任であり、博物館の見解ではないことにご注意ください
秦野盆地周辺の地質
以下の地図を見れば分かるように、秦野盆地は丹沢山地と大磯丘陵、松田山、弘法山に囲まれています。
秦野盆地は、丹沢山地と大磯丘陵が隆起したことで作られた構造性盆地になります。

次に秦野盆地とその周辺の地質のイメージ図を以下に示します。
ただし地質を明確に分けるのは難しく、資料によって分類も異なるので、以下は「かながわの自然図鑑1」などを参照して推測したものになります。
学問的な正確性に欠けるので、飽くまでも説明の補助資料に過ぎないとお考え下さい。

秦野盆地の北部にある丹沢山地の地質は、大山亜層群、塔ヶ岳亜層群、煤ヶ谷亜層群などです。これらの地質は丹沢層群に属しています。
丹沢層群は1700万年前から1100万年前の火山活動に由来し、深成岩のトーナル岩、および枕状溶岩や凝灰岩から成ります。
秦野盆地の南部には砂礫層とローム層が厚く堆積しており、その分厚い層の下には先述した丹沢層群が埋もれています。
このローム層は箱根火山に由来します。
箱根火山は40万年前から活動を始め、周囲に火砕流をもたらし、その外縁に軽石を飛ばし、そして遠くへは火山灰などの火山砕屑物(テフラ)を降らせました。テラフは風に乗って広範囲に堆積し、厚いローム層を作りました。
特に13万年前から8万年前には大量の軽石質砕屑物(テフラ)を噴出して、箱根火山周辺や大磯丘陵だけではなく、東京にまで堆積しています。
フィリピン海プレートが作った丹沢山地
丹沢山地は東西40キロ、南北20キロに広がる山地です。観察会の日は好天で、丹沢の山々を明瞭に見渡すことができました。

最初にも書いたように、秦野盆地は丹沢山地と大磯丘陵が隆起したことで作られました。
では、丹沢山地と大磯丘陵は、どうして隆起したのでしょうか?
まずは歴史の古い丹沢山地の成り立ちから見てみます。
丹沢山地の歴史
丹沢山地のできた経緯を以下で簡単に説明します。
まず、1700万年前から800万年前、日本から遠く離れた亜熱帯の海底火山の噴火で、枕状溶岩や水中テフラが堆積して丹沢地塊を作りました。
丹沢層群からサンゴやオウムガイなどの南方の生物の化石が見つかるのは、この地塊が亜熱帯においてできたからです。
700万年前から500万年前、丹沢地塊がフィリピン海プレートに運ばれて日本の本州に衝突しました。
500万年前から400万年前、玄武岩質マグマが地殻を溶かして丹沢地塊に貫入し、それが冷えて固まることでトーナル岩を作りました。
そして250万年前、現在の伊豆半島である伊豆地塊もフィリピン海プレートに運ばれて本州に衝突しました。それにより本州と伊豆地塊に挟まれた丹沢地塊が押し上げられて丹沢山地になりました。
また、現在の酒匂川(さかわがわ)はこの衝突時にできました。
川の浸食がなければ、丹沢地塊は標高5,000メートル以上、富士山よりも高く隆起したと言われています。
現在の丹沢山地の最高峰は1,673メートルの蛭ヶ岳ですから、3,000メートル以上の山腹が浸食で削れたことになります。
それらの削られた大量の土砂は川によって丹沢の南方へと運ばれていきました。当時はまだ大磯丘陵が隆起していないので、遮る物もなく、土砂は下流である現在の秦野盆地に堆積していきました。
現在の秦野盆地の地下、分厚いローム層の下には、これらの土砂による地層があります。
また、115万年前には石英閃緑岩が丹沢地塊に貫入しました。
なお、丹沢地塊と伊豆地塊の間の海に堆積した泥、砂、礫は現在の足柄層群になりました。
その後、フィリピン海プレートの移動により、丹沢地塊、トーナル岩、石英閃緑岩が隆起して丹沢山地となり、足柄層群が隆起して足柄山地ができました。
露出したトーナル岩
標高1,491メートルの同角ノ頭の山頂はトーナル岩です。丹沢山地に貫入したトーナル岩が隆起によって押し上げられて露出したのが、この山頂です

箱根火山が作った軽石層とローム層
後述する震生湖へ向かう坂道ではローム層の露頭が確認できます

箱根火山は40万年前から何度も噴火していますが、今から13万年前から8万年前の噴火では特に大量の軽石質テフラが噴出しました。
このテフラが堆積したのが、このローム層です。
とても分厚い層となっており、秦野盆地中央部では300メートルを超えています。
このテフラは箱根東京テフラや東京軽石と呼ばれています。
箱根火山に由来する軽石なのに「東京軽石」という名前なのを不思議に思う人もいるかもしれません。
東京軽石は最初に東京の地層で発見され、当時はどこから来た軽石なのか不明でした。
その後の研究で東京軽石は箱根火山に由来する事が分かりましたが、名前は「東京軽石」のまま定着しました。
また、これらの火山灰の地層は、地層同士の境界面が曖昧なのが分かります。
地上においてテラフは風でかく乱されるので、綺麗に堆積しないからです。海底で堆積した砂や泥の地層が、かく乱されることなく明確な境界を作っているのと正反対です。
活断層が作った大磯丘陵
次は大磯丘陵の成り立ちを説明します。
大磯丘陵の地が丘陵になる前の地形は、北に丹沢山地が隆起し、丹沢山地を削った土砂の上に厚いローム層が堆積した平坦な大地だったと思われます。
活断層
以下の地図上の赤い線は活断層を示しています。
活断層とは数十万年前以降に繰り返し活動し、今後も活動すると予想される断層で、地震の原因になります。

大磯丘陵を囲むように3つの断層、国府津-松田断層、渋沢断層、生沢断層があります。数十万年前からこれらの断層に押し上げられて大磯丘陵ができました。
国府津-松田断層はフィリピン海プレートが陸側プレートに沈み込んで分断した分岐断層で、1000年あたり約2~3メートルの速度でずれています。
この断層は単独で震源になることはないので、活断層としては扱いません。
渋沢断層は国府津-松田断層と連動して動く可能性がある活断層で、1000年あたり0.3~1.5メートルの速度でずれています。
活断層の詳細については神奈川県のHPをご参照ください。
渋沢断層の段丘面
渋沢断層上の段丘の地形断面には70メートルの高低差があります。段丘は風で運ばれたテフラが堆積した平地で、元々は同じ高さの水平な面でした。
ですが、隆起したことでそのような高低差が生じたのです。
関東大震災が作った震生湖

大磯丘陵北部にある震生湖は、関東大震災によって斜面が幅約250メートルにわたって地すべりを起こし、その土砂で市木沢の谷が埋まり、河川が堰き止められてできた堰止湖です

今昔マップで1894年から1915年と現在の震生湖付近の地図を比較してみます。

震災以前には湖がなかったことが分かります。また、谷地形の辺りが崩れたことや、谷の近くに川の跡があるのが地図から読み取れます。
この地すべりした場所の地層は、火砕流堆積物の上に東京軽石層が堆積しています。
下の図は「1923年関東地震による震生湖地すべりの地質構造とその意義」から引用した震生湖の地質断面図で、オレンジ色の部分が東京軽石層で、SSK-1の辺りから崩れました。

東京軽石層は風化してもろくなっており、更に地震前日には雨が降っていたことで崩れやすくなっていたようです。そんな複合的な要因が重なって地面が支持力を失っていたところに大地震が来て、東京軽石層が崩れたと推測されています。
当時の地すべりを起こした斜面のあたりにはソーラーパネルが並んでいます。
「中山間地農業と土砂災害」で解説されているように、昔は地すべり地には田や畑が作られることが多かったのですが、現代ではそういう場所にはソーラーパネルが設置されるようです。

また、震生湖の南側にはくねくねと丸い曲線の地形が多く、これらは過去に地滑りを何度も起こした跡だと思われます。

大震災埋没者供養塔
関東大震災において渋沢岳稜の北斜面は崩壊し、下校中の女子児童2名が亡くなられています。
震生湖の近くには彼女らを慰霊する大震災埋没者供養塔が建てられており、私は黙とうを捧げました。

同場所には他にも2つの石碑が建てられています。
1つは東京帝国大学地震研究所の寺田寅彦氏の句碑で、「そば 陸稲 ( おかぼ ) 丸う山越す 秋の風」と刻まれています。

この石碑は、南地区の地域団体「南はだの村七福神と鶴亀めぐりの会」によって、令和4年(2022)9月に震災の教訓を後世に伝えるためのシンボルとして建てられました。
寺田寅彦は夏目漱石とも親交があり、俳句や随筆、科学エッセイで有名な文人でもありました。氏の随筆は現代の私達が読んでも学ぶところの多い名作ばかりです。
なお、この付近には他にも寺田寅彦の句碑が2か所にあるのですが、この観察日には見に行けませんでした。
これらの3つの句は、寺田寅彦が震生湖を訪れた際に詠んだものです。
もう1つの石碑である自然災害碑は傾いて倒れそうになっており、接近禁止の警告が貼られていました。安全の為に撤去される可能性もありそうです。
震災の記憶や痕跡は時と共に失われる運命にあり、それを象徴する石碑だと思いました。

ローム層と断層が作った秦野盆地の湧き水
秦野盆地は湧水が豊富な土地であり、弘法の清水が有名です。
これらの湧水は平成元年にテトラクロロエチレンによる水質汚染が発覚して深刻な問題になっていましたが、10年以上の浄水活動により汚染を除去しました。
今回は、そんな湧水の1つを見学しました。
その湧水は山を少し分け入った所、簡素な金網に囲まれているだけの場所にありました。

観察会ではこの湧水の水源まで行くことはできませんでしたが、水源ではローム層と丹沢層群の地層の境界から水が沸いているそうです。
どうして水源はローム層と丹沢層群の境界にあるのでしょうか?
その答えは、ローム層が水を蓄えているからです。
以下に秦野市地下水総合保全管理計画から水理地質構造モデルを引用します。
秦野盆地の地下水は、地下約100から150メートルにある吉沢ローム層を境にして浅部帯水層と深部帯水層に分かれています。

吉沢ローム層は先ほどに言及した箱根東京軽石を多く含み、それらの軽石は風化して粘土化しています。
粘土は水を通さないので遮水機能を持ち、この粘土層を境にして地下水が2層に分けられます。
また、断層が水を囲い込む壁の役割をしているそうです。
つまり断層の壁と粘土層の底が作る巨大なバケツの中に水が溜まっているようなものです
火山と丹沢層群が作った鉱山
観察会の最後には、渋沢鉱山跡に向かいました。足場のやや悪い山道をくだると、この場所にたどり着きます。
ここでは地元の有識者の方が鉱山の歴史をお話しくださいました。

渋沢鉱山は昭和10年から23年まで稼働した石膏鉱山です。
石膏の他には石英や黄鉄鉱が見つかります。
現在でも、川辺には黄鉄鉱を含む白い石が幾つも転がっています。

また、学芸員の西澤先生が川をパニングし、黄鉄鉱を採取されていました。


親切なおじさんがどれが黄鉄鉱かなのかを指さして教えてくださいました
丹沢層群が熱水と反応してできたのが、これらの黄鉄鉱や石膏です。
では、その熱水はどこから来たのでしょうか?
その答えは、丹沢層群の南側にある篠窪火砕岩類です。
この篠窪火砕岩類は玄武岩の角礫から成ります。玄武岩は過去の火山活動のマグマが冷えて固まった岩石です。
この篠窪火砕岩類を作った火山は熱水を作り出し、熱水は篠窪火砕岩類に接している丹沢層群に流れ込んで鉱床を作りました。
なお、この鉱山跡を探索している動画が幾つかあったのでご参照ください。
