「文学部」はなぜ〈文芸〉だけの学部ではないのか——「文学・literature・letters」の語誌と大学組織史
要約——「文学部」は文芸だけの学部ではない。1877年創設時の東京大学文学部は、史学・哲学・政治学と和漢文学から成っていた。本稿は、英語 literature の語誌、ヨーロッパの大学組織史、日本語「文学」の概念史という三つの異なる歴史を突き合わせ、この名称の広さが例外ではなく当時の通常の語義だったことを示す。ジョンソン『英語辞典』(1755年)とトッド版(1818年)で literature の語義は「学識」のみであり、大槻文彦『言海』(1889–91年)の「文学」にも〈文芸〉の語義はない。帝国大学令は「文科大学」の名を挙げるが、その内実を条文化してはいない。「文学部=文芸の学部」という理解は、後発の狭義を先行する制度語へ遡及的に投影したものである。
はじめに——三つの歴史を区別する
「文学部」という名称は、現代日本語では小説・詩・戯曲などの〈文芸〉を主として研究する学部、という連想を招きやすい。しかし、1877(明治10)年に発足した東京大学文学部は、「史学哲学及政治学科」と「和漢文学科」の二学科から構成されていた[^1]。ここでの「文学部」は、文芸作品だけでなく、哲学・歴史・政治・言語・文献を含む広い学問領域を束ねる組織だったのである。東京大学文学部自身も、「文学部の『文』とは、まずは文字であり、文字で書かれた文章・文献・書物の総体」を指すと説明している^2。
この名称のずれを理解するには、三つの異なる歴史を区別する必要がある。第一は、ラテン語 litteratura から英語 literature に至る語義の歴史である。第二は、中世の学芸学部(Faculty of Arts)、近代フランスの文学部(Faculté des Lettres)、英語圏の Arts や Humanities など、大学が諸学問をどのような組織単位にまとめてきたかという制度史である。第三は、日本語「文学」という語の概念史と、日本の大学組織名「文学部」の形成史である。
あらかじめ断っておけば、本稿はこの三者を同義語として、あるいは単一の系譜として扱うものではない。英語の literature と組織名の Letters/lettres は、共通の littera(文字)系語彙に由来する近縁語ではあっても、前者は語彙・概念の歴史に、後者は大学の行政的・学問的区分の歴史に属し、一方の変化が他方をそのまま説明するわけではない。三者はそれぞれ異なる速度で変化しながら、文字・文献・学識をめぐる意味領域を部分的に共有してきた。その結果、組織名に保存された広い「文学」と、日常語として定着した狭い「文学=文芸」とが、同じ表記の上に重なることになった。本稿は、この歴史的なずれ——誤読を可能にした条件——を、語誌と制度史の両面から比較検討する。
第一章 語誌——litteratura / literature / 「文学」
1-1 古層:literature =「学識・教養」
英語 literature の語誌は、『オックスフォード英語辞典』(OED)の記述によってかなり精確に押さえられる。語源はラテン語 litterātūra(littera「文字」に由来)であり、直接に、あるいはフランス語 littérature を経由して英語に入ったとされる[^3]。クインティリアヌス(c. 35–c. 100)は『弁論家の教育』において、ギリシア語 grammatikē(文法学)の訳語として litteratura を用いており[^4]、ラテン語の段階でこの語が指したのは「文芸作品」ではなく、文字を読み書きしテクストを扱う技術と学識であった。
英語での初出は14世紀後半に遡る。OED が語義1として立てるのは「『文字』ないし書物への通暁、優雅なあるいは人文的な学識、文芸的教養」であり、最も早い用例は c1375年のスコットランド語形(lateratour)で、七学芸への通暁を述べる文脈に現れる[^5]。以下、この語義のもとに OED が並べる用例は、文字と音楽に通じた修道士(1432–50年)、「文字も良き教えもない民衆は禽獣に等しい」(1513年)、ベーコンが国王に献じた「神学・人文のあらゆる literature と学識」(1605年)、スウィフトが若い貴族の教育に望んだ「literature の基礎」(1727年)といった具合で、いずれも書物を通じて得られる学識一般を指す。
そして OED はこの語義1に、本稿にとって決定的な注記を付している——「ジョンソン(の辞典)およびトッド(1818年版)における唯一の語義」[^5]。すなわち、1755年のジョンソン『英語辞典』の段階でも、さらに1818年のトッドによる増補版の段階でも、英語 literature の辞書的語義は「学識・教養」のみであった。今日の日常語における「文学」に相当する語義は、英語の辞書記述としては19世紀に入ってなお登録されていなかったのである。
1-2 18世紀末〜19世紀の分岐
OED の語義配列と初出年をたどると、今日われわれが literature に感じる複数の意味が、いずれも18世紀末から19世紀にかけて短期間に分岐したことがわかる。
語義2「文学的な仕事・生産;文筆家の活動ないし職業;文筆の世界」の初出は1779年、ジョンソン『英国詩人伝』のカウリーの項——想像力の豊かさと言語の優雅さによって「literature の階梯に高く位置づけられた」著者、という用例である[^5]。ここで注意を要するのは、同じジョンソンの同じ『英国詩人伝』が、語義1の用例としても引かれている点である。ミルトンの項の「彼の literature は疑いなく偉大であった。学問的とも優雅とも見なされるあらゆる言語を読んだ」という一節は、明白に「学識」の意味である。すなわち同一著者の同一著作のうちで、古い「学識」義と新しい「文筆」義が併存していた。しかもジョンソン自身の辞典は語義1しか立てていない。辞書記述は生きた用法に遅れる、という語誌研究の常識がここに端的に現れている。
語義3a「文学的生産物の総体;特定の国・時代あるいは世界一般において生み出された書きもの全体」の初出は1812年、ハンフリー・デイヴィの化学書の一節である[^5]。そして今日の日常語の中核をなす〈審美的な文芸〉——OED の語法では「形式の美あるいは情緒的効果を理由として顧慮に値すると主張しうる書きもの」——は、この語義3a のなかのさらなる限定用法として記述されており、独立の初出年を与えられていない。この点は重要で、審美的な Literature 概念は「ある年に成立した語義」というより、「書かれたものの総体」という新しい結節点のうちで徐々に絞り込まれていった価値評価的な用法だったことになる。
OED 自身がこの語義3a に付す注記も見逃せない——「この語義は英語・フランス語のいずれにおいてもきわめて新しく現れたものである」[^5]。1900年前後に執筆された OED の記述者たちにとってすら、〈作品の総体としての文学〉は「ごく最近の」語義だったのである。レイモンド・ウィリアムズをはじめとする概念史研究が、読み書き能力・学識一般を指した literature が18〜19世紀に「想像的・創造的な作品」へ意味の重心を移し、国民文学・批評・伝統といった観念と結びついて近代的な Literature 概念を形成したと整理するのは[^6]、この OED の記述と正確に対応している。
1-3 "the literature on X" は「古い広義の生き残り」ではない
ここで、しばしば流通している通説——「literature はもともと広義であり、狭義化したあとも古い広義が the literature on X として生き残っている」——を、OED の記述に照らして訂正しておかねばならない。
OED が語義3b「特定の主題を扱う書物・文献の総体」として立てる用法、すなわち研究者が日常的に用いる "the literature on the subject" の初出は、1860年、ジョン・ティンダルの氷河論における「私はその主題の literature によく通じていた」という一節である[^5]。以下に並ぶ用例も、眼科学(1879年)、放射年代測定(1971年、Nature)、分子振動論(1973年、Scientific American)と、科学研究の文脈が目立つ。さらに語義3c「あらゆる種類の印刷物」(宣伝物・パンフレット類を指す口語)の初出は1895年である[^5]。
つまり、"the literature on X" は語義3a(1812年)よりも後に現れた用法であり、中世以来の語義1(学識・教養)の生き残りではない。両者は語源を共有するが、歴史的には別物である。一方の語義1について、OED は「現在では稀で廃れつつある(Now rare and obsolescent)」と明記する[^5]。
したがって literature の語誌の形は、「広義→狭義→広義の復活」でも「広義がそのまま併存」でもない。より正確には——
中世以来の語義1(学識・教養)は19世紀以降衰退し、今日ほぼ廃用となった
19世紀前半に「書かれたものの総体」という新しい結節点(語義3a)が生じた
そこから、審美的価値による限定(3a の下位用法)と、主題領域による限定(3b、1860年)と、印刷物一般への拡張(3c、1895年)が、いずれも19世紀後半に分岐した
要するに、今日の literature における「文芸」と「文献」は、古層と新層の対立ではなく、19世紀に生まれた同一の結節点から分かれた二つの兄弟なのである。教育の場で「小文字の literature/大文字の Literature」を対比する説明が見られるが[^7]、これは教育上の便宜であって正書法上の規則ではなく、また語誌的な古さの順序を示すものでもない。
この訂正は、本稿の方法論的前提にも直結する。「文学部」の「文」が保存しているのは、literature の語義1に相当する「文=文献・学識」の古層であって、現代の研究者が使う "the literature on X"(語義3b)ではない。両者を「同じ広義」として一括りにすることは、まさに本稿が退けようとしている単一系譜的な錯覚にほかならない。
1-4 日本語「文学」——七つの語義と、その年代
日本語(漢語)の「文学」にも独自の概念史があり、こちらは『日本国語大辞典』(日国)が七つの語義を立てて整理している[^10]。以下、日国の語義区分と用例年代に沿って要点を辿る。
語義(1)「学芸。学問。また、学問をすること」——これが最も古い層である。日国が引く漢籍の典拠は『論語』先進篇、すなわち孔門四科(徳行・言語・政事・文学)の「文学」であり、日本の用例は『懐風藻』(751年)序に遡る。以下、『神皇正統記』(1339–43年)、『集義和書』(1676年頃)、『艷道通鑑』(1715年)と続き、注目すべきことに福沢諭吉『西洋事情』(1866–70年)——「エリザベスは文学に心を用ひ諸都府に大学校を設けて」——もこの語義の用例として挙げられている。西洋を主題とする幕末維新期の著作においてすら、「文学」はなお〈学問・学識〉を意味していたのである。
語義(6)(7)は官職名である。(6)は令制において有品親王(内親王を除く)に一人ずつ付され経書を講授した官人の職名で、『令義解』(718年)家令職員・一品条に「文学一人。〈掌執経講授〉」と規定され、相当位は従七位上から正八位下にわたる。(7)は江戸時代の諸藩の儒者を指し、『邀翠館集』序が「国初已来、藩国必ず文学を置く、其の職は経を講じ、簡を授け著作を任ずる事なり」と述べるとおり、経書講義を職掌とする常設の役職であった。森鷗外『北条霞亭』(1917–20年)が「霞亭が福山藩の文学となって江戸に客死した時」と回顧しているように、この用法は近代まで生きている。すなわち日本語の「文学」には、経書を講じる者の公的な職名という、千年以上にわたる制度語としての用法系列があった。なお日国は語義(1)に「古くは『ぶんかく』とも」と付し、『艷道通鑑』(1715年)にも「ブンカク」の読みを注記する。読み自体もまた一様ではなかった。
語義(2)「文章学」の用例は、西周『百学連環』(1870–71年頃)の「此文学なるものは如何なることより始り〈略〉即ち Grammar なるものあり」である。ここで西は「文学」を Grammar(文法学)に対応させている。これは偶然の一致ではあるが、クインティリアヌスがラテン語 litteratura をギリシア語 grammatikē の訳語として用いた事実(1-1)と、驚くほどよく響き合う。西洋古典語と近代日本語のいずれにおいても、この語が学術体系のなかに位置づけられる最初の局面で参照されたのは、芸術ではなく文法学だった。
語義(3)「芸術体系の一様式で、言語を媒材にしたもの。……文芸」——今日の日常語の中核である。日国が挙げる日本語の用例は、内村鑑三『後世への最大遺物』(1897年)、国木田独歩『わかれ』(1898年)、中江兆民『一年有半』(1901年)、矢崎弾(1943年)と、いずれも19世紀末以降である。
ただしここで一点、慎重を期しておかねばならない。日国はこの語義(3)にも漢籍典拠を付しており、『魏志』王粲伝の「始め文帝五官将たり、平原侯植に及ぶまで、皆な文学を好む」がそれである。すなわち古典中国語にも、詩文の制作・愛好に近い「文学」の用法は存在した。したがって近代日本の〈文芸としての文学〉は、無から創出されたのではなく、既存の語義層が西洋の literature 概念との接触を通じて再編・前景化されたものと見るべきである——鈴木貞美らの概念史研究が「概念の編成」という言い方をするのは、この含意においてである[^10]。もとより日国の用例は初出の網羅的確定を目的とするものではなく、坪内逍遙『小説神髄』(1885–86年)に象徴される明治10年代末以降の文学論・小説改良論を通じてこの再編が進んだことは、近代文学研究の共通了解である[^10]。それでも、標準的な歴史的辞書が示す日本語の用例年代が1897年以降に集中している事実は、この語義が近代日本語のなかで前景化した新しい層であることを裏づける。
そして本稿にとって決定的なのが、語義(5)である。日国はこれを「自然科学・政治学・法律学・経済学等以外の学問、すなわち、(3)や史学・社会学・哲学・心理学・宗教学などの諸分科を含めた称」と定義する。掲げられた用例は『風俗画報』244号(1902年)の慶應義塾の記事——「新に大学部を置き、先づ文学、法律、理財の三科を教授し」——であり、まさに大学の学科編成を述べる文脈である。
すなわち、日本語の標準的な歴史的辞書は、〈文芸〉の語義(3)とは別に、〈史学・社会学・哲学・心理学・宗教学を含む人文系学問の総称〉という語義(5)を独立に立てている。「文学部」の「文学」はこの語義(5)に属するのであって、語義(3)ではない。本稿の中心命題は、ここで辞書記述による裏づけを得る。
1-5 『言海』(1889–91年)——日本語側のジョンソン/トッド
この対応関係を、さらに一段強く確認できる資料がある。大槻文彦『言海』は、日本最初の近代的国語辞典として1889〜91年に刊行された。すなわち東京大学文学部の命名(1877年)の12年後、帝国大学文科大学の設置(1886年)の3年後という、本稿がまさに問題とする時期のただなかで編まれた辞書である。その「文學」の項は、次の二義から成る[^10]。
ぶんがく 文學
(一)書ヲ讀ミテ講究スル學藝。(武術ナドニ對ス)
(二)又、即チ、經史詩文等ノ學、語學、修辭學、論理學、史學、等ノ一類ノ學ノ總稱。
ここで確認すべきことは二つある。
第一に、〈文芸〉の語義が存在しない。詩歌・小説・戯曲を指す用法は、この辞書には立てられていない。第一義は「書を読みて講究する学芸」、すなわち読書によって修める学問一般であり、しかもその対義語として挙げられているのは「武術ナド」である。つまり『言海』における「文」は、〈文芸〉と対立する〈学術〉ではなく、〈武〉と対立する〈文〉なのである。文武の対のうちの「文」——これが1891年時点の標準的な語義記述だった。
第二に、第二義が「一類ノ学ノ総称」という集合名詞的定義であり、その内訳として「經史詩文等ノ學、語學、修辭學、論理學、史學」が列挙されている。経学・史学・詩文の学に加え、語学・修辞学・論理学・史学——これは日国の語義(5)にあたる用法だが、日国が挙げる最古の用例(1902年)より十年以上早い。しかもその構成要素(文法=語学・修辞学・論理学、および史学)は、中世大学の三学(trivium)にほぼ重なる。日本語の「文学」が総称として指していた領域は、ヨーロッパの Letters/Arts の観念と、独立の経路をたどりながら実質的に同型だったのである。
ここに、第1-2節で見た英語の事実との構造的な対称が現れる。英語では、1755年のジョンソン『英語辞典』と1818年のトッド増補版において、literature の語義は「学識」のみだった。日本語では、1889〜91年の『言海』において、「文学」の語義は「読書による学芸」と「一類の学の総称」のみだった。二つの言語のいずれにおいても、標準的な辞書は、大学の組織名が命名された時点における語義——すなわち〈文芸〉ではなく〈学識・学問の総称〉——を保存している。「文学部」という名称の広さは、当時の辞書記述に照らせば、例外でも比喩でもなく、まったく通常の語義だったことになる。
なお正確を期せば、『言海』第二義(1889–91年)も東京大学文学部の命名(1877年)より後であり、この総称的語義がいつ成立したかを辞書の記述だけで確定することはできない。むしろこの語義は、幕末以来の学問分類語としての用法と、明治初期の大学の学科編成という制度的実践の双方から生成し、辞書がそれを追認したものと見るべきだろう。1877年の命名を支えていたのは、語義(1)の〈学問・学識〉と、語義(6)(7)の〈経書を講じる職〉という、より古い層である。制度が語義を生み、辞書がそれを追認する——この順序もまた、名称と語義のずれを生む一因である。
本稿の議論にとって決定的なのは、その時系列である。東京大学に「文学部」という組織名が与えられたのは1877年、すなわち美的な「文学」概念が日本語のなかで編成される以前のことであった。組織名の「文学」は、孔門四科以来の「文=文献・学識」の古層に立つ命名であり、日常語の「文学=文芸」はその後から同じ表記の上に重なってきた新層なのである。
第二章 制度史(1)——中世の学芸学部:知の「下級学部」としての広い箱
中世大学のうち、とりわけパリ大学において典型化した制度では、学芸学部(Faculty of Arts)が、神学・法学・医学の上級諸学部(higher faculties)に対する下級学部として位置づけられた。学生はまず学芸学部で学び、その修了が上級学部への進学の前提とされた[^11]。ただし、すべての中世大学が同一の四学部構成を備えていたわけではない。ボローニャのように法学を中心として発展し、神学部の設置が後代にずれ込んだ大学もあり、四学部モデルはあくまで理念型である^12。
学芸学部の教育内容は自由七科(seven liberal arts)——文法・論理学・修辞学の三学(trivium)と算術・幾何・音楽・天文の四科(quadrivium)——であり、上級学部での専門研究への予備的・基礎的役割を担った[^13]。もっとも、学芸学部を「単なる準備課程」とみなすのは過小評価である。12〜13世紀のアリストテレス受容以降、自然学・形而上学・倫理学の「三つの哲学」がカリキュラムに加わり、学芸学部(のちに哲学部とも呼ばれる)は独自の学位・教師集団・知的伝統を備えた自律的な研究領域としても発展した[^14]。「大学は諸学芸の上に基礎づけられる(Universitas fundatur in artibus)」という定式は、この学部が神学・法学・医学のすべてに対する共通基盤と観念されていたことを示す[^15]。
ここで確認すべきは、中世の「Arts」がすでに、文芸はもちろん論理学・数学・天文学まで含むきわめて広い箱だったという事実である。「文系の学部」という近代的なイメージは、この段階には存在しない。
第三章 制度史(2)——1808年ナポレオン改革:Faculté des Lettres と「文/理」の区分
近代フランスにおいて「Lettres(文)」の箱を制度として切り出したのは、ナポレオンの教育改革である。1806年5月10日の法律で帝国大学(Université impériale)という教育団体が創設され、1808年3月17日の勅令がその組織を定めた。同勅令第6条は、帝国大学に五つの学部(facultés)——神学・法学・医学・数理自然科学(sciences mathématiques et physiques)・文学部(lettres)——を置くと規定する[^16]。
この改革の制度史的意義は二点ある。第一に、フランスの制度上、旧体制下で学芸学部(facultés des arts)に統合されていた領域が、ここで lettres と sciences という二つの学部区分に明確に制度化された[^17]。第二に、当初の文学部・理学部は、今日的な研究教育組織というより、リセ(国立中等学校)の教育に接続して試験を実施し、バカロレア・リサンス・ドクトラの学位を授与する認証機関としての性格が強かった。実際の教育は主としてリセで行われ、初期の文・理学部には事実上ほとんど学生がいなかったことが指摘されている[^18]。二次文献によれば、各地方の文学部には文学・哲学・歴史にわたる少数の教授が置かれる体制がとられたとされるが[^19]、その具体的構成は勅令本文の規定と制度運用の実態とを区別して扱う必要がある。
いずれにせよ、フランスの Faculté des Lettres は、その成立の当初から文芸専攻の学部ではなく、文学・哲学・歴史を一括し、「理系(sciences)」と対をなす区分として設計されていた。「バカロレア・エ・レットル(baccalauréat ès lettres)」という学位名称も、「lettres=人文的学識一般」という広義を制度語として流通させた[^20]。
なお、あらかじめ注意しておけば、このフランス型 Faculté des Lettres と日本の「文学部」とのあいだに直接の制度移植関係があったと本稿は主張しない。明治日本の大学制度はフランスのみならずドイツ・イギリス・アメリカなど複数の制度を参照して形成されており、個々の継承関係の立証には制度設計者の文書や翻訳過程の史料といった別種の検討を要する。ここで確認できるのは、両者がともに、文芸だけでなく哲学・歴史・言語を含む広い組織だったという構造上の類似である。
第四章 制度史(3)——オックスフォードとケンブリッジにおける English Literature の遅い制度化
4-1 英語圏内部の時差
英語圏全体で英文学教育が19世紀末まで存在しなかったわけではない。むしろ最も早い制度化はスコットランドで起きている。エディンバラ大学では、1731年にヒュー・ブレアが入学した当時すでに論理学教授ジョン・スティーヴンソンが英語の修辞学・純文学を授業に組み込んでおり、アダム・スミスらの講義の伝統を承けたブレアは1759年12月から英語・英文学の公開講義を開始する。半年後の1760年6月、エディンバラ市参事会はブレアを同大学の修辞学教授に任命した——無給で受講料徴収権のみを伴うこの職を、ODNB は「あらゆる大学における最初の英語の専任講座」と評価する。さらに1762年4月、彼のために年俸70ポンドの欽定修辞学・純文学講座(regius chair of rhetoric and belles-lettres)が創設された[^21]。ブレアの『修辞学・純文学講義』(1783年)は修辞学・文芸批評研究の新たな標準となり、とりわけ合衆国で大きな影響力をもった。
イングランドでの最初は、それから半世紀以上を要する。1828年、トマス・デイルがユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の English Language and Literature 教授に就任した——ODNB はこれを明示的に「イングランドで最初」と記す。デイルは1830年に辞し、1836年にはキングズ・カレッジ・ロンドンの英文学・歴史学教授となった(この職はロバート・サウジーが辞退した後のものである)[^22]。
これに対し、古典学(Classics)が人文的教養の中枢を占めたオックスフォードとケンブリッジでは、English Literature が独立した学問分野として承認される過程は相対的に遅く、しかも困難を伴った。英文学研究は長らく「軟弱な選択科目(a soft option)」と揶揄され、学問的正統性を獲得するために初期の教授たちは文献学(philology)と文学史を前面に押し出さざるを得なかった[^23]。
オックスフォードの過程は、この困難を細部まで例示する。1885年にマートン英語英文学講座(Merton Professor of English Language and Literature)が新設され、ゲッティンゲンで学位を得た文献学者アーサー・サンプソン・ネイピアが初代教授に就任した。注目すべきは、この人事をめぐる批判の一つが講座名に「言語と文学」を並置することへの異論であり、「文学のみ」とすべきだという主張だったことである[^24]。すなわち、講座の名称において literature の射程が何であるかは、制度化のまさにその瞬間に争点だった。ネイピア自身は、言語研究と文学研究の学問的境界は尊重されるべきだという当時のドイツ流の見解に立ち、自らの職名にある "literature" を文学テクストの言語学的研究と解釈して、作品の美的性質については論じなかった[^24]。
学部課程の設立はさらに難航する。文献学に重心を置く近代語学派の設立案は1887年11月に可否同数で否決され、それから六年余を経た1894年6月にようやく英語の優等学位課程(final honour school of English)が学則に載り、最初の試験は1896年に実施された[^24]。ネイピアの徹底して言語学的な方針は、「英語の学派は好事家と素人に占領されやすい」という懸念に対する保証として機能したのである。
文学専任の講座が分離するのは、さらに後である。1903年、ネイピアがローリンソン・アングロサクソン語講座を兼任したことで財源が生じ、1904年に独立の英文学講座(chair of English literature)が創設された。初代教授はウォルター・ローリー、マグダレン・カレッジのフェローを兼ねた。この講座が1914年10月にマートン英文学講座(Merton chair of English literature)として再編され、ローリーはマートン・カレッジのフェローとなる[^25]。オックスフォードにおける「言語と文学」の分離は、したがって1904年に実質的に始まり、1914年に現在の講座名へ落ち着いたと整理するのが正確である。もっともローリー自身は、オックスフォードの英語学派は英文学・英語の歴史の学派でなければならないと主張し続けており、文献学と文学研究の完全な統合は結局実現しなかった[^25]。
ケンブリッジでは、1917年に English Tripos(英文学の学位課程)の創設が決定され、規則の整備を経て最初のトライポス試験は1919年に実施された。1926年にはカリキュラムと組織の再編を経て独立のトライポス・学部としての体制が確立し、その後のリチャーズやリーヴィスらによる批評の展開を通じて、「文芸テクストの精読」を核とする分野としての Cambridge English が形成されていく[^26]。オックスフォードの1894年(学則)/1896年(初回試験)と、ケンブリッジの1917年(決定)/1919年(初回試験)は、制度化の型としてよく似ている。
レイモンド・ウィリアムズが指摘するように、この制度化を下から押し上げたのは大学の内部ではなく、成人教育運動(university extension)と女性たちという、当時の正規の大学教育から周縁化されていた層の需要であった[^27]。ローリー自身の経歴——1885年にアリーガル(インド)で英文学の初代教授、1888〜89年冬にオックスフォード大学拡張講座の講師、1889年にリヴァプールのユニヴァーシティ・カレッジで近代文学教授、1900年にグラスゴー大学の英語英文学講座——は、英文学の教授職がまず植民地・地方・スコットランドに置かれ、オックスブリッジに到達したのが最後だったことを、一人の履歴のうちに示している[^25]。
4-2 Humanities という20世紀の大区分
さらに英語圏では、20世紀後半以降、大学運営上の大区分として Humanities が普及する。オックスフォード大学は2000年のガバナンス改革で、全学のファカルティ・学科を学術ディヴィジョンに再編し(当初5ディヴィジョン、現在は4学術ディヴィジョンと継続教育部門)[^28]、現在の Humanities Division は古典・英語・歴史・哲学・言語・神学など九つのファカルティ等を束ねている[^29]。
この Humanities Division の内部にも、「Letters」型の名称は最近まで残っていた。1913年に設けられた Faculty of Literae Humaniores(直訳すれば「より人間的な文」——神学すなわち literae divinae「神の文」に対する語)がそれである。そしてこの学部の終わり方が興味深い。2001年10月、大学の公式記録誌である University Gazette は、「Literae Humaniores 学部を Classics 学部と Philosophy 学部という別個の学部に分割することに関する Statutes」が承認されたと告示している[^30]。すなわち起きたのは単なる名称の変更ではなく、古典学と哲学を一括していた広い箱の分割であった。
この一件は、本稿の主題を20世紀末の事例で反復している。「より人間的な文」という中世以来の語彙を名に負った学部が、21世紀初頭まで古典学と哲学を同居させ、そこでようやく二つに分かれた。組織名 Literae Humaniores から「古典文学の学部」を読み取ろうとすれば、そこに含まれていた哲学を取り落とすことになる——「文学部」をめぐる誤読と、まったく同じ構造である。
こうした組織再編は、予算・人事・学位管理という管理単位の設計という側面を強くもつ一方、学問分野の自律化・専門分化の反映でもある。同一の学問領域が、国と時代によって Letters と呼ばれたり Arts と呼ばれたり Humanities と呼ばれたりする事実は、少なくとも、組織名のラベルから中身の学問的範囲を直読することの危うさを示している。
第五章 制度史(4)——日本:1877年の四学部と「文科大学→文学部」の名称史
5-1 1877年:東京大学の創設と文学部の中身
1877(明治10)年4月12日、東京開成学校を改組した法・理・文の三学部と、東京医学校を改組した医学部により、四学部編成の東京大学が創設された[^31]。各学部の学科構成は、法学部が法学の一科、理学部が化学科・数学物理学及星学科・生物学科・工学科・地質学及採鉱学科の五学科、医学部が医学科・製薬学科、そして文学部が第一科「史学哲学及政治学科」・第二科「和漢文学科」の二学科であった^32。
創設時の文学部が史学・哲学・政治学を第一科に置いていたこと、そして初期のカリキュラムが、第一科(史哲政)の学生に和文学・漢文学を、第二科(和漢文)の学生に英文学を、それぞれ三年間履修させる東西融合型の設計だったことは^33、この「文学部」が狭義の文芸専攻の学部として構想されていなかったことを端的に示す。
ただし、その内部編成は初期から流動的だった。1879(明治12)年の改編で第一科は「哲学政治学及理財学科」となり、史学は一度学科名から外れる。1881年には哲学科・政治学及理財学科・和漢文学科の三学科制となり、1885(明治18)年に政治学・理財学(後の経済学)が法政学部(翌年、法科大学)へ移管される。独立の史学科が設置されるのは1887(明治20)年である[^34]。したがって「哲・史・文の三本柱が一貫して維持された」と述べるのは正確でない。正確には、政治学・理財学の移管後、文学部は哲学・和文学・漢文学を中心とする編成となり、1887年の史学科設置によって、後の文学部を特徴づける哲学・史学・文学の三領域が改めて整えられた、というべきである。
5-2 1886年:帝国大学令と「文科大学」
1886(明治19)年、森有礼文相のもとで帝国大学令(明治19年3月1日裁可、3月2日公布、勅令第3号)が公布され、東京大学は帝国大学へ改組される。その冒頭二か条は次のとおりである[^35]。
第一條 帝國大學ハ國家ノ須要ニ應スル學術技藝ヲ教授シ及其蘊奧ヲ攷究スルヲ以テ目的トス
第二條 帝國大學ハ大學院及分科大學ヲ以テ構成ス 大學院ハ學術技藝ノ蘊奧ヲ攷究シ 分科大學ハ學術技藝ノ理論及應用ヲ教授スル所トス
第二条は、帝国大学が大学院と分科大学から成ること、前者は学術技芸の蘊奥を攷究する(研究)場であり、後者はその理論と応用を教授する(教育)場であることを、機能によって定義する。分科大学の内訳が示されるのは、条文としてはかなり後方の第十条である。
第十条 分科大学ハ法科大学医科大学工科大学文科大学及理科大学トス 法科大学ヲ分テ法律学科及政治学科ノ二部トス
ここに二つ注目すべき点がある。
第一に、第十条が学科への細分を規定しているのは法科大学のみである。「文科大学」は名称が挙げられるだけで、その内部にどのような学科を置くかは勅令の水準では定められていない(教授・助教授の員数は「其学科ノ軽重及学生ノ員数ニ応シテ別ニ文部大臣ノ定ムル所ニ依ル」とされ、第十四条で文部大臣に委ねられる)。すなわち法令は箱の名称を定めるが、中身は定めていない。「文科大学」という名称から学問的内実を直読できないのは、解釈の問題である以前に、法制上そもそも内実が条文化されていなかったためである。これは本稿が一貫して述べてきた「組織名のラベルは学問的中身の直接の指標にならない」という論点を、法文の構造そのものが裏づけるものといえる。
第二に、第六条は帝国大学総長の職掌の第四項として「法科大学長ノ職務ニ当ル事」を挙げている。総長が法科大学長を兼ねるというこの規定は、分科大学が形式上は対等(第八条は評議官を各分科大学教授から各二人ずつ選ぶと定める)でありながら、実質的な序列において法科が別格の位置を占めていたことを示す。1885年に政治学・理財学が文学部から法政学部へ移されたこと(5-1)も、この序列のなかで理解される。
「文科」の名称は「法科」「理科」「工科」と並列であり、字面上も「文=文系領域の管理単位」であることが明瞭である。文科大学は1886年に博言学科(言語学の前身)を増設し、翌1887年に前述の史学科を置くなど、この時期に人文諸学の分化を進めている[^36]。
京都帝国大学(1897年創設)では、理工科大学(1897)・法科大学(1899)・医科大学(1899)に続き、1906(明治39)年に勅令第135号により文科大学が開設された[^37]。京都の文科大学は、1906年8月の文科大学規程で哲学・史学・文学の三学科を置くことを定め、創設と同時に哲学科、翌年に史学科、翌々年に文学科を発足させ、6年間で3学科24講座を整備した。心理学を独立講座とし、中国哲学・東洋史学・中国文学を分離し、史学科に地理学講座を置くなど、東京とは異なる編成上の特色をもった[^38]。ここでも「文科」の中身は哲・史・文の三本柱であり、狭義の文芸研究に限定されてはいない。
5-3 1919年:分科大学制から学部制へ——文科大学から文学部へ
1918(大正7)年に大学令が公布されて官公私立大学が制度上公認され、これを受けて翌1919(大正8)年、帝国大学令が全部改正され(大正8年2月7日勅令第12号)、分科大学制は廃止されて学部制へ移行した[^39]。京都帝国大学でも1919年2月、文科大学は「文学部」と改称された^40。
なお、京都の場合はこれ以前に「文学部」を称した時期がないため、この改称を「回帰」と呼べるのは東京についてのみである。また、この移行を「箱のラベルと管理形態の変更にすぎない」と言い切ることもできない。学部制への移行前後には、東京・京都ともに学科・講座編成の再整理が行われており^41、名称変更は内部組織の再編を伴っていた。ただし確認できるのは、この改称・再編が文芸への専門化を意味しなかったこと、すなわち改称後の文学部も哲学・史学・文学(および言語学・宗教学・社会学・心理学など)を含む広い人文学系組織であり続けたことである。
まとめれば、日本語の「文学部」という名称は、(1)1877年の創設時名称、(2)1886〜1919年の「文科大学」期、(3)1919年以降の「文学部」再定着、という三段階を経ており、その内部編成は時期ごとに変動したが、19世紀末までに哲学・史学・文学を中心とする広い人文学系組織が形成され、以後もその広さが保たれた。
第六章 交差の分析——誤読を可能にした条件
以上の三つの歴史を重ね合わせると、いくつかの時期的な重なりが浮かび上がる。ただしここで論証できるのは、誤読が実際に生じた原因ではなく、誤読を可能にした言語的・制度的条件である点を、あらかじめ明確にしておく。
第一の条件は、日本語内部の時系列である。第一章で見たとおり、組織名「文学部」(1877年)は、〈文芸〉としての「文学」概念が日本語のなかで前景化する過程に先行する。決定的なのは辞書記述である。文科大学の設置(1886年)の三年後に刊行された『言海』(1889–91年)の「文學」の項には、〈文芸〉の語義がそもそも存在せず、第一義は「書ヲ讀ミテ講究スル學藝(武術ナドニ對ス)」、第二義は「經史詩文等ノ學、語學、修辭學、論理學、史學、等ノ一類ノ學ノ總稱」であった。日国が〈文芸〉義に挙げる用例が1897年以降に集中することとも、これは整合する。
しかもこの事態は英語と対称的である。1755年のジョンソン辞典と1818年のトッド版で literature の語義が「学識」のみだったのと同じように、1891年の『言海』で「文学」の語義は「学芸」と「一類の学の総称」のみだった。二つの言語のいずれにおいても、大学の組織名が命名された時点の標準的な辞書は、〈文芸〉ではない語義を記録している。加えて日国は、〈史学・社会学・哲学・心理学・宗教学などを含む人文系学問の総称〉という語義を、〈文芸〉とは別の語義として独立に立てている。したがって「文学部=文芸の学部」という理解は、構造的に、辞書が別語義として区別しているものを混同し、後発の狭義を先行する制度語へ遡及的に投影したものとなる。
第二の条件は、国際的な年代の重なりである。日本が「文学部/文科大学」という広義の箱を制度として整備した時期(1877〜1919年)は、オックスフォードとケンブリッジで狭義の English Literature が学科・講座として制度化された時期(オックスフォード:優等学位課程1894年・初回試験1896年、英文学講座1904年、マートン英文学講座1914年/ケンブリッジ:英文学トライポス1917〜26年)と年代上重なっている[^42]。日本の制度が広義 Letters 型の箱を固定したのとほぼ同じ時代に、英語圏の一部で「Literature=審美的文芸の学」という狭義のディシプリンが威信を高めていった。この並行は、直接の因果を示すものではないが、literature の語に接する日本の読者・学習者が狭義の層から先に接触する環境を、20世紀を通じて強化したと考えられる。
なお、この英語圏の過程が示すのは「広義から狭義への単純な移行」ではない。第四章で見たとおり、1885年のオックスフォードでは講座名に「言語と文学」を並置することの是非が争われ、初代教授ネイピアは自らの職名の "literature" を文学テクストの言語学的研究と解した。制度の側でも literature の射程は自明ではなく、名称をめぐる論争を通じて確定されていったのである。これは、組織名から中身を直読することの危うさを、英語圏自身の事例が裏づけていることを意味する。
ここで、第一章で確認した英語側の年代を重ねると、興味深い非対称が現れる。日本で「文学部」という組織名が与えられた1877年の時点で、英語の literature はすでに語義3a(1812年)と語義3b(1860年)を獲得しており、逆に「学識・教養」を意味する語義1は衰退の途上にあった。つまり英語は、組織名 Letters が保存しているのと同じ地層を、まさにこの時期に手放しつつあった。一方、日本語では同じ地層が「文学部」という制度語のかたちで固定され、その後に日常語としての狭義が上に重なった。同じ意味の地層について、英語では語彙から消え、日本語では組織名として残存する——「文学部」の分かりにくさの一因は、この非対称にある。
第三の条件は、組織名の多国間の揺れである。同型の領域が、大陸ヨーロッパと日本では Letters/文、英語圏では Arts、20世紀以降は Humanities と呼ばれてきた。第四章で述べたとおり、こうした揺れには管理単位の再編という側面が大きく、組織名のラベルは学問的中身の直接の指標にならない。「Faculty of Letters=literature faculty」という直訳的理解は、この制度史的事情を捨象したときに生じる。
そして第五章で見たとおり、この「ラベルと中身の分離」は、日本の場合、法令の構造そのものに書き込まれていた。帝国大学令は第十条で分科大学の名称を列挙するが、学科への細分を規定するのは法科大学のみであり、「文科大学」については名称を挙げるにとどめて内実を文部大臣の定めに委ねている。組織名から学問的内実を直読できないのは、読み手の不注意である以前に、法制がそもそも内実を条文化していなかったことの帰結である。
一方、本稿の資料からは立証できないことも明記しておく。1919年の改称が後世の誤解を実際に増加させたのか、一般の人々がどの時期から「文学部=小説・詩の学部」と考えるようになったのか、教育や出版の分類がその理解をどう再生産したのか——これらは、明治以降の言説資料の調査を要する、本稿の射程を超えた実証課題である。
おわりに
最後に、本稿の議論を年表に圧縮しておく。

日本の大学組織名としての「文学部」は、少なくとも1877年の東京大学創設時から、狭義の文芸研究だけを意味してはいなかった。そこには史学、哲学、政治学、和漢文学が含まれ、後には言語学、宗教学、社会学、心理学なども組み込まれた。「文学部」を現代の日常語における「文学=小説・詩・戯曲」の意味だけから理解することは、現在の語義を過去の制度語へ遡及的に投影することにほかならない。
ただし、このずれを単純な誤訳や一度の改称の結果とみなすこともできない。英語 literature の語義、日本語「文学」の概念、ヨーロッパと日本の大学組織は、それぞれ異なる歴史をもつ。「文学部」という名称は、その複数の歴史が交差した場所に成立し、現在も古い広義の「文」の意味の地層を保存した制度語として生きているのである。
注
出典の性格について:本稿は、語誌については『オックスフォード英語辞典』(OED)・『日本国語大辞典』・大槻文彦『言海』を、人物・講座史については『オックスフォード英国人名事典』(ODNB)を、制度史については法令の一次資料(ナポレオン勅令原文、国立公文書館所蔵の御署名原本、文部科学省『学制百年史 資料編』所収の条文)、大学の公式記録(オックスフォード大学 Gazette 等)、大学公式沿革、および専門研究を典拠とする。オンライン百科事典類(コトバンク等)は制度史的整理の補助にとどめ、依拠する箇所はその旨を注に明示する。
[^1]: 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科「文学部の歴史:起源と沿革」https://www.l.u-tokyo.ac.jp/schema/history/110.html 。および同「年報9 第1部1 沿革と機構」https://www.l.u-tokyo.ac.jp/schema/annual_report9/nenpo9.1.1.html
[^3]: Oxford English Dictionary, s.v. "literature," 語源欄(ラテン語 litterātūra < littera、フランス語 littérature 経由の可能性、および中英語 lettrure との対照)。以下、OED からの引用・語義番号はすべて同項目による。
[^4]: "Literature: Overview," New Dictionary of the History of Ideas(Encyclopedia.com 転載)https://www.encyclopedia.com/history/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/literature-overview 。クインティリアヌスによる grammatikē の訳語としての使用は R. Wellek の指摘に基づく同項目の記述による。
[^5]: OED, s.v. "literature." 本稿が依拠する語義区分と初出年は以下のとおり。語義1「Acquaintance with 'letters' or books; polite or humane learning; literary culture」(初出 c1375 Sc. Leg. Saints、「Now rare and obsolescent」「The only sense in Johnson and in Todd 1818」の注記を含む。引用した用例は 1432–50 Higden 訳、1513 Bradshaw、1605 Bacon Adv. Learn.、1727 Swift、および 1779–81 Johnson Lives of the Poets「Milton」)。語義2「Literary work or production; the activity or profession of a man of letters」(初出 1779 Johnson Lives of the Poets「Cowley」)。語義3a「Literary productions as a whole…Now also in a more restricted sense, applied to writing which has claim to consideration on the ground of beauty of form or emotional effect」(初出 1812 Sir H. Davy Chem. Philos.、「This sense is of very recent emergence both in Eng. and Fr.」の注記付き)。語義3b「The body of books and writings that treat of a particular subject」(初出 1860 Tyndall Glac.、以下 1879 Harlan、1971 Nature、1973 Sci. Amer. 等)。語義3c「colloq. Printed matter of any kind」(初出 1895 Daily News)。なお、この語義配列と注記は OED 初版(L 分冊、1903年頃)の記述を基礎とし、20世紀の用例を補った版に基づく。したがって「きわめて新しい語義」という評価は20世紀初頭の編纂者の判断であり、OED 第3版による改訂の有無は別途確認を要する。
[^6]: Raymond Williams, "Literature," Keywords: A Vocabulary of Culture and Society (1976; rev. 1983)。オンライン再録:https://ressources-socius.info/index.php/reeditions/18-reeditions-d-articles/150-literature
[^7]: Oregon State University College of Liberal Arts, "What is Literature?" https://liberalarts.oregonstate.edu/wlf/what-literature-definition-examples (大学の一般向け解説)。
[^10]: 『日本国語大辞典』第二版、小学館(JapanKnowledge 版)、「ぶん‐がく【文学】」項。本稿が依拠する語義区分と用例は以下のとおり。語義(1)「学芸。学問。また、学問をすること」(『懐風藻』751年序、『神皇正統記』1339–43年、『集義和書』1676年頃、『艷道通鑑』1715年、福沢諭吉『西洋事情』1866–70年。漢籍典拠として『論語』先進「文学、子游子夏」)。語義(2)「文章学」(西周『百学連環』1870–71年頃、Grammar への対応)。語義(3)「芸術体系の一様式で、言語を媒材にしたもの……文芸」(内村鑑三『後世への最大遺物』1897年、国木田独歩『わかれ』1898年、中江兆民『一年有半』1901年、矢崎弾1943年。漢籍典拠として『魏志』王粲伝「始文帝為五官将、及平原侯植、皆好文学」)。語義(4)「詩歌・戯曲・小説など文学作品を研究する学問」。語義(5)「自然科学・政治学・法律学・経済学等以外の学問、すなわち、(3)や史学・社会学・哲学・心理学・宗教学などの諸分科を含めた称」(『風俗画報』244号、1902年、慶応義塾)。語義(6)令制の官職名(『令義解』718年「文学一人。掌執経講授」、『性霊集』835年頃)。語義(7)江戸時代の諸藩の儒者(『日本詩史』1771年、『邀翠館集』序、森鷗外『北条霞亭』1917–20年)。なお同項目の「辞書」欄は、この語が文明本節用集・易林本節用集・日葡辞書・書言字考節用集・ヘボン『和英語林集成』・大槻文彦『言海』に収録されていることを示す(表記の異体として易林本の【文斈】)。日国の用例は各語義の early example を示すものであって、初出年の網羅的確定を目的とするものではない。/『言海』の「文學」項(大槻文彦『言海』1889–91年)の本文は「ぶんがく 文學 (一)書ヲ讀ミテ講究スル學藝。(武術ナドニ對ス)(二)又、即チ、經史詩文等ノ學、語學、修辭學、論理學、史學、等ノ一類ノ學ノ總稱。」。本稿の引用は影印にもとづく翻刻であり、句読・表記の細部は原本(国立国会図書館デジタルコレクション所収)で確認されたい。/「文学」概念の近代的編成については、鈴木貞美『日本の「文学」概念』作品社、1998年(書評として衣笠正晃、『比較文学』42巻、2000年、103–106頁 https://www.jstage.jst.go.jp/article/hikaku/42/0/42_103/_article/-char/ja/ )、および鈴木貞美「日本近現代文化史再編のために——『文学』『芸術』概念を中心に」(国際日本文化研究センター)https://nichibun.repo.nii.ac.jp/record/1406/files/symp_011__101__89_103__101_115.pdf 。
[^11]: 中世大学の学芸学部と上級三学部の構成、およびパリ型としての典型化については、David C. Lindberg and Michael H. Shank eds., The Cambridge History of Science, vol. 2 所収の Michael H. Shank, "Schools and Universities in Medieval Latin Science" https://www.cambridge.org/core/books/cambridge-history-of-science/schools-and-universities-in-medieval-latin-science/E6F48DFC483C906DB51F45E735CDA4EC を指示文献とする。概説的確認として History Hit, "What Did European Universities Teach During the Middle Ages?" https://www.historyhit.com/what-did-european-universities-teach-during-the-middle-ages/ (補助資料)。
[^13]: 自由七科の予備的性格については前掲 History Hit ほか。三学・四科の構成は通説。
[^14]: 三つの哲学の追加と上級学部への予備的位置づけについては "Organizations of Knowledge," in The Cambridge Companion to Renaissance Philosophy, ed. James Hankins (Cambridge UP, 2007), p. 289(Stanford 大学掲載の講義資料 https://intellectualproperties.stanford.edu/sites/g/files/sbiybj24701/files/media/file/7._medieval_university_0.pdf 経由で参照)。学芸学部の自律的発展については前掲 Shank 論文を指示文献とする。
[^15]: "Universitas fundatur in artibus" の定式については Catholic Encyclopedia (1913), "The Seven Liberal Arts" https://www.newadvent.org/cathen/01760a.htm (旧版百科事典であり補助資料として用いる)。
[^16]: 「Décret portant sur l'organisation de l'Université impériale, 17 mars 1808」(勅令原文)napoleon.org https://www.napoleon.org/histoire-des-2-empires/articles/document-decret-portant-organisation-de-luniversite-imperiale-17-mars-1808/ 。第6条:「帝国大学には五つの学部を置く。1°神学部、2°法学部、3°医学部、4°数理自然科学部、5°文学部」。
[^17]: "Napoléon organisateur de l'Université," napoleon.org https://www.napoleon.org/histoire-des-2-empires/articles/napoleon-organisateur-de-luniversite/ 。「旧体制下では文と理の教育は学芸学部に統合されていたが、以後二種の別学部に分離された」旨の記述。
[^18]: Académie des Sciences Morales et Politiques, "Les universités françaises de 1808 à 1968" https://academiesciencesmoralesetpolitiques.fr/2009/10/26/les-universites-francaises-de-1808-a-1968/ (初期の文・理学部に事実上学生がなく、試験・学位授与機能が中心だったこと)。あわせてパリ文学部の性格については "La Faculté des lettres de l'université de Paris," Revue internationale de l'enseignement 72 (1918), Persée https://education.persee.fr/doc/revin_1775-6014_1918_num_72_1_7360
[^19]: 前掲 "Napoléon organisateur de l'Université"(各文学部に最低三名——文学・哲学・歴史——の教授を置く体制、1813年時点の文85名・理56名の教授数)。これは二次文献による制度運用の記述であり、勅令本文の直接規定としては引用しない。
[^20]: "17 mars 1808 : création du baccalauréat moderne par Napoléon," France Pittoresque https://france-pittoresque.com/spip.php?article14391= (補助資料)。
[^21]: Richard B. Sher, "Blair, Hugh (1718–1800)," Oxford Dictionary of National Biography (Oxford UP, 2004; online edn 2009), doi:10.1093/ref:odnb/2563. 1759年12月11日の公開講義開始、1760年6月27日のエディンバラ市参事会による修辞学教授任命(無給・受講料徴収権のみ)と「あらゆる大学における最初の英語の専任講座(the first dedicated chair of English in any university)」との評価、1762年4月27日の欽定修辞学・純文学講座の創設(年俸70ポンド)、および1731年入学当時の論理学教授ジョン・スティーヴンソンによる英語修辞学・純文学の授業への組み込み、アダム・スミス・ロバート・ワトソンの講義の伝統、1783年『修辞学・純文学講義』の影響について。
[^22]: Arthur Burns, "Dale, Thomas (1797–1870)," ODNB (2004; online edn 2010), doi:10.1093/ref:odnb/7019. 1828〜30年のUCL英語英文学教授職を「イングランドで最初(the first in England)」と明記。1836年のキングズ・カレッジ・ロンドン英文学・歴史学教授就任(サウジーの辞退後)、1840年までの在職について。
[^23]: Stefan Collini ほか、Literature and Learning: A History of English Studies in Britain (Oxford UP) 紹介文 https://academic.oup.com/book/59734 。英文学研究が "a soft option" と揶揄され、初期の教授たちが文献学・文学史を前面化して学問的性格を強調した旨。
[^24]: M. K. C. MacMahon, "Napier, Arthur Sampson (1853–1916)," ODNB (online edn, 4 October 2007), doi:10.1093/ref:odnb/94131. 1885年秋のマートン英語英文学講座(新設)就任、講座名に言語と文学を並置することへの批判(「文学のみとすべきだ」という主張)、ネイピアによる "literature" の言語学的解釈と美的批評の回避、1887年11月の近代語学派設立案の可否同数による否決、1894年6月の英語優等学位課程の学則掲載と1896年の初回試験、および「好事家と素人による占領」への懸念に対する保証としての機能(L. R. Farnell の評言を含む)について。1903年のローリンソン・アングロサクソン語講座兼任と、それによる1904年の英文学講座創設の財源確保についても同項目による。オックスフォード英語英文学部の公式沿革(「1894年設立」)は https://www.english.ox.ac.uk/about-the-faculty 。
[^25]: D. N. Smith, rev. Donald Hawes, "Raleigh, Sir Walter Alexander (1861–1922)," ODNB (2004; online edn 2009), doi:10.1093/ref:odnb/35656. 1904年6月の新設英文学講座への就任(マグダレン・カレッジ・フェロー兼任、「英語英文学の学派は1894年に設立されていたが、その本格的な発展はローリーの就任とともに始まった」)、1914年10月の同講座のマートン英文学講座への再編とマートン・カレッジ・フェロー就任について。また「オックスフォードの英語学派は英文学と英語の歴史の学派でなければならない」という主張と、文献学的研究と文学研究の学位課程における完全な統合が実現しなかった旨、ならびにアリーガル(1885年)・オックスフォード大学拡張講座(1888–89年)・リヴァプール(1889年)・グラスゴー(1900年)という経歴も同項目による。
[^26]: ケンブリッジについては前掲 Collini, Literature and Learning 第7章 "Cambridge" https://academic.oup.com/book/59734/chapter/507153694 (1917年トライポス創設の経緯、チャドウィックの役割、「革命」神話の再検討)。1926年の再編と独立学部化、以後の展開については Raymond Williams, "Cambridge English and Beyond," London Review of Books 5:12 (1983) https://www.lrb.co.uk/the-paper/v05/n12/raymond-williams/cambridge-english-and-beyond 。H. M. チャドウィックとトライポス形成については Michael Lapidge, "H. M. Chadwick," https://www.asnc.cam.ac.uk/publications/Chadwick/HMC Vol 23 2012 Lapidge.pdf も参照。
[^27]: Raymond Williams, 前掲 "Cambridge English and Beyond"。
[^28]: University of Oxford, Governance and Planning, "A brief history and overview of the University's governance arrangements" https://governance.admin.ox.ac.uk/a-brief-history-and-overview-of-the-universitys-governance-arrangements (2000年改革による学術ディヴィジョンへの再編)。
[^29]: University of Oxford, "How we are run" https://www.ox.ac.uk/about/organisation
[^30]: Oxford University Gazette, No. 4561, 1 November 2001(Congregation の議事告示。異議申立てがなかったため副総長が「Literae Humaniores 学部を Classics 学部および Philosophy 学部という別個の学部に分割することに関する Statutes」の承認を宣したとする記事)https://gazette.web.ox.ac.uk/1-november-2001-no-4561 。Gazette は1870年以来continuously刊行されているオックスフォード大学の公式記録誌(authorised journal of record)であり、大学組織の変更に関する一次的な典拠である(https://www.ox.ac.uk/about/how-we-are-run/gazette )。Faculty of Literae Humaniores の設置年(1913年)および分割後の Faculty of Philosophy の発足については、University of Oxford, Faculty of Philosophy の沿革記述による。
[^31]: 東京大学「東京大学の歴史」https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/history/b03_01.html および前掲・東京大学文学部「文学部の歴史」。
[^34]: 東京大学文学部『大学院人文社会系研究科・文学部の概況』所収の学科変遷表 https://www.l.u-tokyo.ac.jp/content/000005711.pdf (明治12年の「第一 哲学政治学及理財学科」への改称、明治14年の三学科制、明治18年の政治学・理財学の法政学部移管、明治20年の史学科設置)。および前掲「年報9 第1部1 沿革と機構」。
[^35]: 帝国大学令(勅令第3号)。一次資料として「帝国大学令・御署名原本・明治十九年・勅令第三号」(御00005100)、国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/file/153157 。全条文は文部科学省『学制百年史 資料編』所収「帝国大学令(明治十九年三月二日勅令第三号)」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318050.htm (本稿の第一条・第二条は御署名原本の影印にもとづく翻刻、第十条以下は同資料編による)。裁可は3月1日、公布は3月2日であり、法令の日付表記は資料により異なる。分科大学の列挙は第二条ではなく第十条にあり、学科への細分が規定されるのは法科大学のみである(「法科大学ヲ分テ法律学科及政治学科ノ二部トス」)。教授・助教授の員数を「其学科ノ軽重及学生ノ員数ニ応シテ」文部大臣が定めるとするのは第十四条、総長が法科大学長の職務に当たるとするのは第六条第四、評議官を各分科大学教授から各二人選ぶとするのは第八条。1890年の農科大学追加、1893年の講座制・教授会に関する改正、1919年の全部改正による学部制移行については、平凡社『大学事典』「帝国大学令」項(橋本鉱市執筆、コトバンク転載 https://kotobank.jp/word/帝国大学令-1371190 )の整理による。
[^38]: 同上。および「京都大学文学部百年のあゆみ」https://ceschi.bun.kyoto-u.ac.jp/archive/bun_archive/about/history/centenary_history/index.htm (1906年8月16日の文科大学規程による哲・史・文三学科の制定)。
[^39]: 大学令(大正7年12月6日勅令第388号)による官公私立大学の公認、および帝国大学令の全部改正(大正8年2月7日勅令第12号)による分科大学制から学部制への移行。後者の一次資料として「帝国大学令改正・御署名原本・大正八年・勅令第十二号」(御11582100)、国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp/file/1180676 。制度史的整理は前掲『大学事典』「帝国大学令」項。あわせて京都大学創立125周年記念サイト「トピックで振り返る」https://www.kyoto-u.ac.jp/125th/history/topic/ (1919年の大学令施行、公私立大学の公認、分科大学の学部への改称、および同年の経済学部独立)。
