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落ち着いて。深呼吸して。逃げないで。

_____ある日、障害者になった。

 本当は、そこから逃げたかった。
「これは私じゃない。
こんなはずじゃない」
頭の中は、完全に混乱していた。
なんでこんなに悪化するまで受診しなかったんだろう。もし目の前にこんな患者さんがいたら、私は間違いなく怒っていたと思う。それなのに、循環器と心臓血管外科で長年働いていたのに
自分の重篤な兆候に全く気づかなかったのだ。本当に、自分を正座させて
説教したかった。

 高校を卒業して、働きながら専門学校に通った。単位も出席数もいつもギリギリだったけれど、なんとか国家試験に合格して、それからずっと看護師を続けてきた。
大変なことのほうが多かったし、自分がこの仕事に向いていると思ったことは一度もない。とにかく勉強して、研修に参加して、必死に知識とスキルを磨く。やらないとできない、覚えないとついていけない。そういう厳しい
世界だった。
同僚と支え合ったり、ケンカしたり、励まし合ったり、けなしたり。いろいろなことがあったけれど、それでも辞めなかった。この仕事以外、やったことがなかったから。

すごく好き、というわけでもなかった。私の家は決して裕福ではなかったので、「一刻も早く自立したい」というのが大きな理由だった。看護師になってからは、プレッシャーと激務の毎日で、辞めたいと思う瞬間は数え切れないほどあった。でも、ここで辞めたら負けるような気がした。どうせやるなら、ちゃんと知識と根拠を持ったプロでありたかった。私は日々、何かと戦っていた。

45歳を過ぎた頃、地元を離れた。引っ越して、知らない土地で「寂しい」なんて感傷に浸る暇をなくすため、あえて過酷な救急センターへの配属を希望した。忙しくしていれば、余計なことは考えないで済むと思ったからだ。
ようやく新しい環境に慣れてきたかな、と思った矢先、あのコロナ禍が
発生した。
私たちは最前線に放り出された。
よくわからないウイルス。よくわからないワクチン。面会制限に、外出制限。
真夏にフルPPE(個人防護具)を着用し、遮熱された駐車場の車内にいる感染者の検体を採取して、バイタルを測定する。汗が目に入り、ゴーグルが曇り、記録の文字すら見えない。トイレに行く時間もない。
こっちが熱中症で倒れそうだった。

そして、私は倒れた。気持ちも身体も、限界の手前で、防衛反応のようにシャットダウンした。
もう、救急センターのあのスピード感についていけなかった。忙しいのは、見なくても分かっている。でも、もう動けなかった。無理だと悟った。
50歳にもなれば、老眼、難聴、膝の痛み、更年期……
体中からガタが響き始める。
何より応えたのは、血管確保に時間がかかることが増えたことだ。以前は得意だったし、「救急にいるのにルートキープが苦手です」なんて言えない。
でも、近眼と老眼のせいで、もう血管がよく見えないのだ。メガネやコンタクトの度数を変えても、失敗することが増えていった。
そんな挫折が重なって、私は病院を
退職した。

その後、老健(介護老人保健施設)に就職した。介護の現場は嫌いではなかった。利用者さんや介護士の方々と関わるのは楽しかった。ただ、激務に慣れきった身体には、少し手持ち無沙汰だった。何も起きない、ヒマな時間が、何となく耐えられないのだ。激務から解放されたはずなのに、どこか物足りない気がしていた。仕事は嫌いではなかったから、夜勤のバイトをしたり、精神科病院に就職したりもした。知らない世界を学ぶのは、確かに楽しかった。

でも、いつからか、奇妙な咳がよく
出るようになっていた。
ヘビースモーカーだった私が
タバコをやめた。咳が出るから
吸えないのだ。
お酒はよく飲んでいたから、足がパンパンに浮腫んでいても、「今日は一日中立ち仕事だったからな」としか思わなかった。靴下のゴムの跡が異常に深く残り、指で押すと凹んだまま戻らない。ナースとして何度も見てきた、
典型的な心不全特有の「圧痕浮腫(あっこんふしゅ)」だったのに、私はそれをただの疲労とアルコールのせいだと
勝手に脳内で変換していた。

医療従事者なら誰もが真っ先に疑うはずのレッドフラッシュが灯っていたのに、自分の心臓が悲鳴を上げているとは、少しも思っていなかった。

その日もいつも通り出勤し、午前中の業務はなんとか気力で乗り切った。しかし午後になって、明らかな異変が起きた。経験したことのない呼吸の苦しさが襲い、声が出なくなったのだ。
その時、初めて夫に「ちょっと体調が良くないかも」と言うと、夫が聴診器で私の胸の音を聞いてくれた。一瞬で顔色を変えた夫の勧めで、すぐにかつて自分がいた救急センターへ向かうことになった。

待合室の椅子に座っていたら、かつての同僚が私に気づいて声をかけてくれた。
「久しぶりー」
そう笑顔を返そうとした瞬間、猛烈に咳き込んで、私はそのまま床に倒れ込んだらしい。

一年前まで一緒に働いていたナースたちが、血相を変えて私の周りを走り回っている。何か話したい、状況を説明したいのに、喉に押し当てられた酸素マスクのせいで、まともな声が出なかった。呼吸が苦しくて横になれない。ナースが起座位にしてくれた。
さすがだなと思った。
採血、点滴、レントゲン、CT。
目まぐるしく検査が回る。主治医に何かを聞かれたが、意識が朦朧としてよく分からず、夫が代わりに必死に説明していた。
全身が水分で膨れ上がり、胸水も腹水も、限界までたっぷり貯留していた。

後に電子カルテの画像を見たとき、私は思わず息を呑んだ。
(死ぬかも……)
心臓が、通常の倍以上の大きさに肥大している。肺は水浸しで、真っ白に写っていた。診断は、重症心不全。
横で記録をしていた後輩ナースが、
そっと私から目を逸らした。
どんなにベテランでも、 
その瞬間は言葉が見つからない。  
よく分かっている。  
なんて声をかけていいのか、
どんな言葉が正しいのか、 
分からなくなる。

陽圧呼吸器(NPPV)を装着された。機械の音がゴーゴーと耳元で鳴り響き、マスクが顔に圧着されて窮屈極まりなかったが、ようやく肺に空気が送り込まれ、やっと呼吸ができた。
そのまま集中治療室(ICU)へ移送された。現実感がなく、まるで悪い夢でも見ているような気がした。
「え? 私、入院するの?」と、当たり前すぎる質問を、呆然と夫に問いかけていた。

主治医の粋な采配で、特別に娘二人との面会が許された。上の娘は社会人で、下は大学生。
心配させまいと「大丈夫だよ」と酸素マスクの奥で無理やり笑ってみせた。すると長女に「ちゃんと看護師さんの言うこと聞いてね」と釘を刺された。
「はい、分かってマス」
また、おどけて笑ってみせた。
その夜は、モニターの警告音や人工呼吸器の駆動音、点滴の管、そして尿道カテーテルの鈍い痛みに苛まれて、一睡もできなかった。
夜間ラウンドに来たナースが「眠れないよね」と優しく声をかけてくれて、小さく頷く。
喉が裂けそうに渇き、水が飲みたいとジェスチャーで伝えると、「水分制限中だから、これで我慢してね」と、彼女は小さな氷をひとかけら、私の口に入れてくれた。心底、天使だと思った。

翌日、状態が少し落ち着き、一般の個室に移動した。担当ナースが身体を拭いて、着替えをしてくれる。
言葉にできない、不思議な気持ちだった。オムツもあてられている。
(え、これが私? 毎日誰かにやってあげていたケアを、いま、私が受けているの?)
頭がぼんやりしていて、現実のスイッチがうまく入らない感覚だった。

利尿剤の点滴によって、体内の水が劇的に抜け、呼吸がだいぶ楽になった頃、主治医が病室にやってきた。
「退院前に、一度カテーテル検査をやりましょう」
嫌だった。全力で断りたかった。
怖くてたまらなかった。
けれど、告げられた診断名を聞いたとき、私はもう抵抗する気力を失った。
「拡張型心筋症」――国の指定難病。 身体障害者手帳3級。
同意書にサインをするだけなのに、ペンを持ったまま、自分の名前をしばらく思い出せなかった。

カテーテル室に入ってからも、私の心は激しく抵抗していた。
(やめてくれ。違うんだ。私じゃないんだ。カテ台に乗せないで!)
心の中で叫び続けていた。手がガタガタと震えた。
ふと見ると、ガラスの向こうに夫の顔が見えた。「側にいるよ」と言ってくれているような気がした。
そして、隣にいた若い検査技師の方が、私の震える手をそっと握りしめてくれた。
カテ室にも、天使がいた。
冷たくて硬いカテ台の上で、じっと息を潜める。造影剤が注入されると、体中がじんわりと熱くなる。
次は、心臓の奥がキーンと冷たくなる。
(カテーテルって、こんなに不快で、こんなに怖いものだったんだ……知らなかった)
今まで患者さんに「ちょっとチクッとするだけですよー」と簡単に声をかけていた自分を、盛大に反省した。あんな説明じゃダメだ。もっと親身に、恐怖に寄り添って説明するべきだった。

検査が終わる頃には
放心状態だった。
鼠径の穿刺部を圧迫止血している
主治医に、私は小さな声で聞いて
みた。
「救急に運ばれてきた時、
驚きました?」
主治医は、苦笑しながら正直に答えてくれた。
「ギョッとしたよ。僕の知ってる○○さんじゃなかった。どうしようかと思ったよ、本当に危なかったんだから」

目が覚めると、元の個室に戻っていた。夫がiPadを持ってきて、漫画やドラマが見られるように設定してくれた。
「家のことは娘たちがやってくれてるから大丈夫だよ。料理が得意な娘たちで良かった」と笑う。
同僚たちの対応は、以前と何も変わらなかった。テキパキと無駄のない動きで、それでいて元同僚である私のプライドを傷つけないよう、完璧な配慮をしてくれた。彼女たちと同じ場所で働けたことを、心から誇りに思った。
それでも、夜になって静寂が訪れると、急に寂しさが押し寄せて 
眠れなかった。

退院までの毎日、事務手続きだけが 目まぐるしく進んだ。
高額療養費の手続き、障害者手帳の 申請、傷病手当金。
(これ、誰の話? 本当に私のことなの?)
どこか他人事のように説明を聞いていた。
何より嫌だったのが、リハビリだ。
病室からリハビリ室まで車椅子で移動するのが屈辱で、「歩けます」と言い張って廊下に出た。
エレベーターに乗り、降りたところで――世界がぐにゃりと歪んだ。
「あれ……?」
「あら、大丈夫?」
ほら、やっぱり、と言わんばかりのプロの迅速さで、リハビリ担当者が私を車椅子に座らせてくれた。
心拍数が跳ね上がっている。これはただの運動不足じゃない。私の心臓が、病んでいる証拠だった。その日を境に、私は大人しくリハビリに励んだ。

病棟のベッドコントロールの都合で、予定より少し早く退院が決まった。
病衣を脱ぎ、私服のジーンズとトレーナーに着替えた瞬間、もの凄く嬉しかった。「あぁ、やっと元の私に戻れた」そう思っていた。

3週間の入院を経て、我が家に戻った。家は、私が入院する前と何も変わらない姿で待っていた。
けれど、私の頭の中は空っぽだった。
そこへ、飼い猫が足元にトコトコと擦り寄ってきた。抱き上げようとしたが、重くて持ち上げられなかった。じんわりとした温もりだけが、唯一の現実だった。今も、私のそばにいてくれている。

ふと2階に上がろうとしたとき、自分の手が無意識に手すりをギュッと掴んでいることに気づいた。今まで、そんなこと意識したこともなかったのに。
一段上るごとに、心拍数が速くなっていくのが分かる。急に、冷たい恐怖が這い上がってきた。

「障害者になった」という現実が、私の中でどうしても矛盾していた。
30年間、ずっと誰かを支える側にいて、それが私のアイデンティティであり、誇りだった。今まで普通に生きてきたのに、突然、障害者になった。
「無理をしないで車椅子を
使いましょうね」
これまで何百人もの患者さんに、私はそう優しく微笑みかけてきた。その言葉が、どれほど残酷に相手のプライドを傷つけていたか、自分がその椅子に座るまで、少しも理解していなかったのだ。

 受け入れよう、受け入れようとしている。そうしないと前に進めないから。
でも、心が追いつかない。
「私は障害者じゃない!」と、大声で叫び出したい時もある。

 愛車に車椅子マークのステッカーを貼り、車椅子専用駐車場に車を停められるようになるまで、丸1年かかった。周りから「障害者」という目で見られるのが、どうしても嫌だったからだ。

 ハローワークで「こちらの、障害者枠の窓口へどうぞ」と案内されたとき、「は?」と耳を疑った。
障害? 私が?
市役所の窓口に行っても、私は書類上、厳然たる「障害者」として扱われた。
(なんで? 私は普通ですけど。普通に話せるし、普通に生きてるのに)

 ショッピングセンターへ出かけた際、夫が「車椅子に乗って」と言った。
最初は意地を張って「自分で漕ぐ」と言ったが、車輪は思ったように前に進まなかった。
結局、夫に車椅子を押してもらう。
店の照明がゆっくりと流れていくのを眺めながら、また不思議な
気持ちになる。
(なんで私が
車椅子に乗っているんだろう。
本当に私は病気なのかな。何も
変わらないはずなのに)
今だって、葛藤が消えたわけじゃない。認めたくないし、受け入れるにはまだ時間がかかる。

でも最近は、この不自由な身体との付き合い方に、だいぶ慣れてきた気がする。慌てることは何もないのだと、
ようやく分かってきた。
今だに本当に自分は、病気なのか?
と思う時もある。そんなに簡単に割り切れるものではないし、
もし明日、地球が滅びるとしても、私はきっと、いつものように猫を撫で、普通の一日を過ごすと思う。

突然の病気や事故で、人生がガラリと変わってしまったあなたへ。
あまり多くを考えず、 
いつもの日常を、
いつものように過ごしてください。
これから先、つらいことも、
悔しくて嫌な思いも、たくさんあると思います。


でも、悪いこと
ばかりじゃないから大丈夫。
自分を見失わないで。
落ち着いて。深呼吸して。
現実から、逃げないで。

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