【本要約】病気であって病気じゃない【解釈】
「あなたは病気です」と医者が言い、「私は病気じゃありません」と患者が言う。
この場面、どちらが正しいのか。
普通に考えれば専門家である医者だ。ところが精神科では、そう単純にいかない。なぜなら精神疾患には実体がないからである。血液検査に出ない。画像に映らない。証明する手段がない。
つまり診察室で起きているのは、専門知と素人考えの対決ではない。根拠を提示できない者同士による、平行線の議論である。
本書はその膠着(こうちゃく)を、第三の手で解こうとする。病気か、病気じゃないか。その二択を捨てて、「病気であって病気じゃない」という言い方を持ち込んでみる。矛盾している。矛盾しているが、現場では機能する。
要点
精神科医・尾久守侑による、精神医療における「病気」概念の再検討である。精神疾患には実体がなく、病気か否かの判定は証明不可能なまま行われる。そのため診察室では医師と患者の認識がすれ違い、病名をめぐる会話が本来の意図とは別の意味を帯びる。著者はこの構造を三部構成で解きほぐし、最終的に「診ている人はいったんすべて病気であって病気じゃない、と考えてみる」という提案に着地する。第三部では架空症例をシナリオ形式で扱い、この概念が実際にどう働くかを示す。医学書でありながら、思考の運びは随筆に近い。
こんな人にオススメ
精神科や心療内科に通っていて、自分の病名に納得しきれていない人
医療者として、患者に病名を伝える瞬間に毎回ためらいがある人
HSPやADHDといった言葉が自己説明として流通する現状に、違和感を持っている人
書籍情報
著者 尾久守侑(おぎゅう・かみゆ)
出版社 金原出版
刊行 2024年6月30日
価格 3,300円
ジャンル 精神医学/臨床論/医療エッセイ
著者について
尾久守侑は1989年東京都生まれの精神科医、詩人。横浜市立大学医学部卒業後、国立国際医療研究センター病院、下総精神医療センター、南多摩病院などに勤務し、現在は慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室助教。博士(医学)。専門は臨床精神医学、精神と身体の境界領域の臨床、力動精神医学。
著書に『器質か心因か』(中外医学社)、『偽者論』(金原出版)、『サイカイアトリー・コンプレックス』(金芳堂)など。詩集に『国境とJK』『悪意Q47』(ともに思潮社)があり、第9回エルスール財団新人賞を受賞。2024年、詩集『Uncovered Therapy』で第74回H氏賞を受賞した。
第一部:「病気」という言葉が、六つの意味で使われている
医師と患者がすれ違うのは、意見が違うからではない。
同じ言葉で別のものを指しているからだ。
著者はまず、一般の人が「病気」という言葉から何を連想しているかを、六つに分けて並べる。
診断されたら病気。
受診したら病気。
検査で異常が出たら病気。
薬を飲んだら病気。
自分でそう思ったら病気。
普通でなければ病気。
この六つは互いに独立している。
ある人は「薬を飲んでいるから自分は病気だ」と考え、別の人は「検査に出ていないから病気ではない」と考える。
同じ診察室に座っている二人が、まったく別の物差しを持っている可能性がある。
一方、精神科医の側にも「病気」の像がある。
著者はそれを三つ挙げる。
操作的診断——つまり定められた基準の項目を数え、閾値(いきち)を超えたものが病気。
生物学的な基盤があるものが病気。
そして、環境への「反応」なのか、内側から生じた「病気」なのか、という区別。
この二つの体系が、診察室で正面から出会う。
〔注〕操作的診断とは、DSMなどの診断基準に沿って症状を数え上げる方式のこと。原因ではなく現れている症状の組み合わせで判定するため、診断の一致率は上がるが、その人に何が起きているのかの説明にはならない。
著者はここで、精神科医が患者を「病気」として扱うことの意味を掘る。
病名をつけるという行為は、複雑な現象を単純化する作業である。
目の前で起きていることは、生育歴も職場環境も睡眠も対人関係もすべて絡み合った状態だ。
それを一語に畳む。
畳むことで、治療方針が立ち、薬が選べ、診断書が書ける。
畳まなければ、何も動かない。
ただし、畳んだものは畳まれたままではいられない。
病名を受け取った患者の側で、その一語が生き始める。
病名は説明のために渡されるが、受け取った側では自己認識の材料になる。
著者はこれを「病気として扱われることによる影響」として、両面から書く。
病名がつくことで、患者が自分を責めるのをやめられる場合がある。
原因が自分の性格ではなく病気にあるとわかれば、荷が下りる。
周囲の理解も得やすくなる。
その逆もある。
病名を受け取った人が、その枠の内側でしか自分を語れなくなることがある。
できないことの説明がすべて病名に吸い寄せられ、動かせたはずの部分まで動かさなくなる。
そして著者は、もう一方の扱いにも同じ分量を割く。
「病気じゃない」と扱われることだ。
これは一見、良い知らせに見える。
しかし患者にとっては、苦しさの置き場所を失うことでもある。
実際につらいのに、病気ではないと言われる。
ではこれは何なのか。
説明が与えられないまま、診察室から出ることになる。
〔注〕著者はどちらの扱いにも軍配を上げない。病気と扱っても、病気じゃないと扱っても、それぞれに副作用がある。第一部の結論は、要するに「どちらを選んでも何かが起きる」という袋小路の確認である。
この章のポイント
同じ言葉で、六つの別物を指していた
病名は複雑さを畳む道具だ
畳んでも、畳まなくても、副作用は出る
第二部:矛盾した言い方を、あえて持ち込む
著者の提案は「診ている人はいったん全員、病気であって病気じゃないと考える」という一点に尽きる。
袋小路を抜けるために、著者は二択そのものを外す。
この発想の背景には、精神医療の実際がある。
ひとりの患者のなかには、病的に動いている部分と、まったく健康に働いている部分が同時にある。
うつ状態で朝起きられない人が、好きな話題になると理路整然と話す。
妄想を抱えている人が、家計の管理は正確にこなす。
どちらか一方だけを見れば、判定は割れる。
両方あるのだから当然だ。
著者はこれを、A-Tインテグレーションという言葉で呼ぶ。
ただし本文中では「(?)」という留保つきで置かれている。
確立した術語ではなく、著者が仮に置いた名前である。
この慎重さが、本書全体の呼吸を作っている。
そして著者は、この考え方が精神科の外にも及ぶことを示す。
内科における器質的疾患と機能性疾患の区別だ。
器質的というのは、臓器そのものに変化が起きている状態を指す。
機能性というのは、検査では異常が見つからないが、機能としては不調が出ている状態を指す。
過敏性腸症候群がその代表である。
内視鏡で見ても腸に傷はない。
しかし腹痛と便通異常は確実に起きている。
この人は病気なのか。
器質的な意味では病気ではなく、機能的な意味では病気だ。
つまり内科にも、同じ矛盾がすでに住んでいる。
精神科だけの特殊事情ではない。
そのうえで著者は、この概念を一般の人が持つ意味を書く。
わたしたちのなかには、健康な部分と病的な部分が常に同居している。
これは医療の話にとどまらない。
誰にでも、うまく回っている領域と、詰まっている領域がある。
それを人格全体の評価に繰り上げないための言い方として、「病気であって病気じゃない」は使える。
第二部の後半で、著者はもうひとつ重要な指摘をする。
病名をめぐる会話が、しばしば象徴的な意味を帯びるということだ。
患者が「私の病名は結局なんなんでしょうか」と尋ねる。
字義通りに受け取れば、病名を知りたいという質問である。
しかし著者によれば、この言葉が実際には「あなたの診療が不安です」という意味を運んでいることがある。
そこで律儀に「全般性不安障害です」と答えると、会話は成立しているのに、何も伝わっていない。
そして病名は、逆方向にも使われる。
不調を自分で認知するための道具としてだ。
自分の状態を説明する言葉を持たない人が、病名を得ることで初めて「これは調整が必要な状態だ」と認識できる。
病名が診断ではなく、自己理解の入口として働く場面がある。
この章のポイント
二択を外すために、矛盾を持ち込んだ
内科にも同じ矛盾が住んでいた
「病名は?」が病名を訊いていないことがある
第三部:シナリオで確かめる、八つの現場
この概念の真価は理論部分ではなく、症例を通してしか見えない。
第三部で著者は、架空の症例を八つ並べる。
ADHDの新卒男性。HSPを自称する地雷系女子。誹謗中傷キッズ。典型的な双極症I型。トーキョー後遺症。教え子に振り回される大学院生。認知症の家族。そして最後に、読者自身。
見出しの言葉づかいが、すでに医学書のものではない。
地雷系女子、誹謗中傷キッズ、トーキョー後遺症。
診断名ではなく、現在の生活のなかで実際に流通している呼び方が使われている。
これは軽さではない。
患者が自分を説明するときに使う語彙で章立てをするという選択である。
〔注〕金原出版は医学専門書の出版社であり、本書もカテゴリー上は精神・心身医学に置かれている。その棚にこの見出しが並んでいること自体が、本書の位置を示している。
八つの症例には、意図的な配置がある。
「HSPを自称する」から始まる症例は、診断名ではなく自称が入口になっている。
当人が既に自分に貼った説明があり、そこに医療が後から出会う。
この場合、病名は医師が与えるものではなく、患者が持参するものだ。
「典型的な双極症I型」は逆である。
診断としてもっとも明快な部類に入る。
生物学的基盤の議論もある。
薬も効く。
それでもなお「病気であって病気じゃない」と考える余地があるのか——著者はここを避けずに扱う。
明快な診断がついている人にも、病気ではない部分がある。
むしろ診断が明快であるほど、その人の全体がその一語に飲み込まれやすい。
「認知症の家族」の章では、診られる側ではなく、周囲の人間が扱われる。
ここで問われているのは、家族が病気かどうかではない。
家族の疲弊や苛立ちを、病理として扱うのか、当然の反応として扱うのか、という判断である。
そして最終章のタイトルが、本書の性格を決定づけている。
「あなたが『病気であって病気じゃない』かどうかは知らない」
読者に向けて概念を差し出しておきながら、その適用は保証しない。
ここで著者は、自分の提案を読者の自己診断の道具に変えることを、はっきりと拒んでいる。
自己啓発書であれば、ここで逆のことを書く。
あなたも病気であって病気じゃない、だから大丈夫、と。
著者はそれをしない。
章立てを離れて、本書の文体そのものについても触れておく必要がある。
著者は本書を「医者3〜5年目くらいの後期研修医に向かって話しかけるような感じ」で書いたと述べている。
実際、口調は講義ではなく雑談に近い。関西弁が挟まる。TikTokの話が出てくる。東急東横線の綱島駅が実名で登場する。
この語り口には機能がある。
精神科医が自分の判断に自信を持てないという主題を扱う本が、確信に満ちた文体で書かれていたら、内容と形式が矛盾する。
ためらいを書く本は、ためらいながら書かれなければならない。
〔注〕あとがきの題は「長い独り言」である。はじめにでも著者は「少し長い独り言」と書いている。読者に向けた説得ではなく、思考の過程を公開しているという建て付けが、最初から最後まで保たれている。
そして本書全体を通して、著者が一度も踏み込まないことがある。
自分の提案が正しいという主張だ。
A-Tインテグレーションには「(?)」がつく。最終章は「知らない」で終わる。
序文には「まだ書いている私ですらその正体の分からない」とある。
二百十頁を費やして提示された概念について、著者自身が確定を避け続ける。
診断名を確定できない診療科の医師が、自分の概念にも確定を与えない——読んでいて笑ってしまうが、笑ったあとで、では確定を求めていたのは誰だったかと考えると、少し困る。
読者は、確定していない言い方をひとつ手に入れて本を閉じる。それが本書の渡すものである。
この章のポイント
患者が使う語彙で、章が立っていた
明快な診断ほど、その人を飲み込む
最終章は「知らない」で終わっていた
まとめ
①
素直に読むなら、本書は臨床コミュニケーションの本である。
著者が出発点に置いたのは、学問知が現場で吹き飛ぶ経験だった。
序文にそう書かれている。
精神医学の議論としてどれだけ精緻に「病気」を定義しても、患者の「私はそう思いません」という一言の前では効力を失う。
ならば、患者側が「病気」をどう考えているかまで含めて議論しなければ、生きた知にならない。
その問題意識から、三部構成が組み上がる。
第一部で二つの体系のずれを可視化し、第二部で二択そのものを外す概念を提示し、第三部で八つの症例に当てて確かめる。
診ている人はいったんすべて「病気であって病気じゃない」と考えてみる。判定を下す前に、判定を保留する場所を作る。
読者としてまず受け取るべきは、この保留の技術である。病気か否かを急いで決めないことが、診療を止めるのではなく、むしろ動かす。そういう主張だ。
②
概念を提案する本は、普通その概念を売り込む。
有用性を説き、適用範囲を広げ、読者に採用を促す。
尾久守侑はそれをしない。
A-Tインテグレーションという名前を出しておいて「(?)」をつける。
序文で「まだ書いている私ですらその正体の分からない」と書く。最終章のタイトルを「あなたが『病気であって病気じゃない』かどうかは知らない」にする。
二百十頁かけて提示したものを、著者が最後まで手放している。
これは謙遜ではないと思う。
構造上の必然だ。
本書の主張は「確定を急ぐと診療が壊れる」というものである。その主張をする本が、自分の概念だけは確定させていたら、書いていることと書き方が食い違う。
だから著者は、自分の提案にも確定を与えない。
主張の内容が、そのまま執筆の作法として実行されている。
もうひとつ。
第三部の見出しの言葉づかいだ。
地雷系女子、誹謗中傷キッズ、トーキョー後遺症。医学専門書の目次にこれが並ぶ違和感は相当なものだが、この選択には筋が通っている。患者は自分を診断名では説明しない。自分が使っている言葉で説明する。その言葉を目次に上げるということは、患者側の語彙を診療の一部として認めるということだ。
第一部で著者が指摘したのは、医師と患者が別々の物差しを持っているという事実だった。第三部の見出しは、その指摘に対する形式上の応答になっている。
③
これは本書の外側からの読み替えで、著者の意図からはかなり離れる。
著者は詩人である。H氏賞受賞者だ。この事実を脇に置いたまま本書を読むと、いくつかの選択が説明しにくくなる。
「病気であって病気じゃない」という言い回しは、論理的には矛盾している。
矛盾を承知で提示され、矛盾のまま維持される。
解消されない。医学の作法であれば、ここで定義を精緻化して矛盾を消しにいく。
著者はそうしない。矛盾したまま置いておくことに、意味があると考えている。
これは詩の扱い方だ。
詩における逆説は、解いてしまうと死ぬ。
二つの意味が同時に立っている状態そのものが機能であって、どちらか一方に落とせば効果が消える。
著者が「病気であって病気じゃない」を定義しきらないのは、定義したら使えなくなることを知っているからではないか。
そう読むと、第二部の「象徴的なコミュニケーション」の議論も別の顔を見せる。
「私の病名は何ですか」が「あなたの診療が不安です」を意味する、という指摘。
これは臨床技法として書かれているが、構造としては比喩の読み方そのものである。表面の意味と、その下で動いている意味。訓練された読者だけが後者を取れる。
精神科の診察室は、患者が毎回一篇ずつ持ち込んでくる詩の朗読会に近い。
〔注〕これは私の側の読み替えである。著者は本書を詩論として提示していない。医学書として、後期研修医に向けて書いている。ただ、詩人としての訓練が臨床の記述に染み出しているという読みは、テキストからそう遠くない。
