【本要約】「ふつう」ってなんだろう 病気と健康のあいだ
あなたが「病気だ」と診断されたとき
その診断書に書かれているのは、医学的事実だろうか
要点
「病気」と「健康」のあいだには連続的なグラデーションがあり、その境界線はつねに社会の合意——つまり「ふつう」の規範によって引かれている。
著者は神経内科の臨床医であり医療社会学者でもある。二重の立場を武器に、ゲーム障害・HSP・ためこみ症・カサンドラ症候群・ALS・認知症など多様な病気・障害を取り上げ、「なぜそれが病気に分類されたのか」「その分類は誰の利益になっているのか」を問い続ける。医学への根本的な信頼は持ちながら、「病気=除去すべきマイナス」という暗黙の前提そのものを疑い直す。生きづらさの正体は、「異常」ではなく「ふつう」の方にあるかもしれない。
こんな人にオススメ
「なんかちょっとふつうじゃない気がする」という感覚を長らく持ちながら、その感覚を言語化できていない人
医療・福祉・教育の現場にいて、「これって本当に病気なのか?」という疑問を誰にも言えないまま抱えている人
書籍情報
著者:美馬達哉(みま・たつや)
出版社:講談社(講談社現代新書 2802)
刊行:2026年1月22日
価格:1,056円
ジャンル:医療社会学・生命倫理・社会学・医療人類学
著者について
美馬達哉(1966年生まれ)は、京都大学医学部卒業後、米国国立衛生研究所(NIH)・国立神経病研究所(NINDS)で研究を積み、現在は立命館大学先端総合学術研究科教授を務める研究者だ。神経内科専門医として京大病院での臨床を継続しながら、医療社会学・医療人類学の研究者としても活動するという、極めて稀な二足の草鞋(わらじ)を履いた人物である。
著書には『〈病〉のスペクタクル』『脳のエシックス 脳神経倫理学入門』『リスク化される身体』『生を治める術としての近代医療』など、医療を「権力と知の装置」として読み解く系譜の作品が並ぶ。 臨床の現場で診断を下す者が、同時に「診断とは何か」を問い続けるという緊張した立ち位置が、本書のあらゆる記述に通底している。それは単なる「医療批判の書」ではなく、現場から内側を見続けてきた者の、自己解体的な問いかけだ。
Ⅰ 「ふつう」は発見されるのではなく、発明される
本書の第一の核心は「病気は発明される」という命題だ。
医学の進歩とは、「自然界に客観的に存在する病気」を次々と発見していくプロセスのように見える。しかし著者はここに疑問を挟む。
あらゆる「病気」の定義には、「ふつうの状態とはこういうものだ」という社会的規範(きはん)が先行しており、その規範が変わると「病気」の範囲も変わる。
1973年、米国精神医学会(APA)は「同性愛」を精神疾患の一覧から削除した。
科学的な新発見によってではなく、当事者の政治的運動と社会の変化によって。
2019年、WHO(世界保健機関)は「ゲーム障害(Gaming Disorder)」を疾病分類に追加した。これも、ゲームへの社会的不安と産業・行政の利害関係が交差した結果だ。
〔注〕ICD(国際疾病分類)とDSM(精神疾患の診断と統計マニュアル)は、世界の医師が「何が病気か」を判断するための国際的な基準書だ。ICDはWHOが、DSMは米国精神医学会(APA)が作成・更新する。この二つが「病気のカタログ」を実質的に定義しており、いずれも定期的に改訂されることで「病気の数」は時代によって変化する。
病気の境界線は、顕微鏡で見えるものではなく、社会の合意によって引かれている——これが本書の出発点だ。
Ⅱ HSP・ゲーム障害・ためこみ症——新しい病気の誕生を解剖する
本書が取り上げる事例は、どれも身近で、しかし「これって本当に病気なのか」という問いを呼び起こす。
「HSP(繊細さん)」は現在、セルフケア・カウンセリング・書籍の分野で爆発的な人気を持つ概念だ。
しかしHSP(Highly Sensitive Person)は医学的な診断カテゴリーではなく、心理学者エレイン・アーロンが1990年代に提唱した性格類型に過ぎない。
それが「病名」に近い響きと使われ方をするのは、「生きづらさに名前を与えたい」という切実な社会的欲求がその概念を病気化しているからだ。
「ためこみ症(Hoarding Disorder)」はDSM-5(2013年)で初めて独立した診断カテゴリーとなった。
「ごみ屋敷」は長らく本人の意志の問題・道徳の問題として扱われてきたが、医学的分類に入った瞬間に「治療対象」になる。
これは「病名を与えることで社会的支援のチャンネルが開く」という意味ではよいことだが、同時に「片付けられないことを病気として管理する」ための装置にもなりうる。
〔注〕カサンドラ症候群とは、ASD(自閉スペクトラム症)のパートナーを持つ配偶者に現れるとされるメンタルヘルスの問題を指す。ギリシア神話の予言者カサンドラ(誰にも信じてもらえなかった預言者)から命名された。これ自体は正式な診断名ではなく、当事者コミュニティの中で自然発生した概念だ。
Ⅲ 「病気」はビジネスにもなる——疾病喧伝(Disease Mongering)の構造
本書が特に重要な概念として取り上げるのが「疾病喧伝(しっぺいけんでん、Disease Mongering)」だ。
製薬企業・医療機器企業・健康産業は、「新しい病気」あるいは「病気の境界を広げること」によって市場を拡大する利益動機を持つ。
「正常範囲の悩み・不安・性格特性」を医学的問題に転換し、薬や治療の需要を作り出す。これを疾病喧伝と呼ぶ。
〔注〕疾病喧伝という概念は、医学ジャーナリストのレイ・モイニハン(Ray Moynihan)らが2002年にBMJ(英国医学誌)に発表した論文で提唱したもの。「薬を必要な人に届けること」と「薬の需要を作り出すこと」の区別が、現代の製薬産業の構造的問題として論じられている。
「どこまでが医学で、どこからがビジネスか」という問いは、個々の薬や治療の良否を問うのではなく、「健康の規範」そのものを巡る政治経済的問いとして立ち上がる。
高コレステロール・骨粗しょう症・勃起不全——これらの「治療の基準値」は、新薬の承認・普及に伴って引き下げられてきた歴史がある。
基準値が下がれば「患者」の数は増え、市場は拡大する。医学的判断と市場原理が、「ふつう」の境界線を共同で書き換えている。
Ⅳ 生きづらさは連鎖する——社会の構造が「病気」を作る
本書の重要な視点のひとつが「生きづらさの連鎖」と「社会的決定要因」だ。
貧困・虐待・差別・孤立といった社会的条件は、精神疾患・依存症・慢性疾患の発症率を統計的に高める。これを社会疫学は「健康の社会的決定要因(Social Determinants of Health)」と呼ぶ。
〔注〕健康の社会的決定要因は、WHO(世界保健機関)が公式に認める概念で、「どこで生まれ、育ち、働き、老いるか」という社会的・経済的・物理的環境が、その人の健康に直接影響を与えるという知見体系だ。
生きづらさを「病気の症状」として個人の身体に押し込むとき、「その生きづらさを作り出している社会の側の問題」は視野の外に出てしまう。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)・認知症・トランスジェンダー——これらの「障害・状態・正体」をめぐって、著者は「医学的な介入」と「社会的な受容」のあいだに走る断層を丹念に辿る。
医学が「治す」ことを目指すとき、「ありのままで生きる」ことを求める当事者との摩擦が生まれる。どちらが正しいのではなく、その摩擦を正視することが本書の基本姿勢だ。
Ⅴ 「命の優先順位」という禁断の問い
本書が最も倫理的に際どい場所に踏み込むのは、「命の優先順位はあるのか」という問いを真正面から立てるパートだ。
医療資源は有限だ。
ICU(集中治療室)のベッドが不足したとき、誰を優先するか。コロナ禍でこの問いは「トリアージ(triage)」という言葉とともに多くの人が直面した。
〔注〕トリアージとは、災害・戦場・大規模事故などで複数の患者に対し、治療の優先順位を決めることを指す。「最も多くの命を救う」という功利主義的論理と、「すべての命は等価だ」という権利論的主張のあいだに生じる実践的・倫理的な裂け目が、現場で働くすべての医療者を苦しめる。
「命の優先順位」は決められない——という規範的主張と、「優先順位を決めなければ誰も救えない」という現実の間に、医療倫理の実践的戦場がある。
著者は特定の答えを提示しない。代わりに「その問いを立てること自体の意味」を問い、「どちらが正しいかの議論」よりも「どういう社会であればその問いが生まれにくいか」という方向へ読者の視線を誘導する。
まとめ——「ふつう」を三つの禁断の帰結まで追い詰める
本書は丁寧で穏当な語り口を保つ。しかし著者が敷いた論理を最後まで走らせると、三つの「過激な命題」が現れる。
①「治療」より「規範の手術」こそ必要だ——社会外科の宣言
薬や手術で身体を「ふつう」に近づけるより、社会の「ふつう」そのものを手術してしまえ——この命題は本書の行間から滲み出る。
ADHDの子どもに投薬するより、ADHDの子どもが「問題ではない」学校環境を設計する方が、本来は先に来る問いだ。鬱(うつ)状態の労働者に抗うつ薬を処方するより、長時間労働と孤立を強いる職場環境を解体する方が、根本的な「治療」に近い。
〔注〕これを社会医学(しゃかいいがく)の観点から「上流介入(upstream intervention)」と呼ぶ。川の下流で溺れる人を次々と救助するより、川の上流で人が落ちる原因を取り除く方が合理的だ、という比喩で語られる予防医学のアプローチだ。
身体への医学的介入は、社会的規範への抵抗を個人の生物学的問題に変換することで、社会の変革圧力を緩和する政治的機能を持っている——この命題は本書の論理が招待する、ラディカルな社会外科の宣言だ。
②「診断名」は近代の神話装置——医者は司祭、診断書は聖典
病気の「発明」を強調する本書を徹底的に読み込むと、ひとつの仮説が立ち上がる。
診断カテゴリーは、苦しみに意味を与える物語装置であり、宗教的神話の世俗版だ——という命題だ。
かつて人々は「悪魔憑き(あくまつき)」「神罰」という言語で苦しみを説明した。
現代では「神経伝達物質の不均衡」「遺伝的素因」「トラウマによる神経回路の変容」という言語で説明する。形式は異なるが、「なぜ自分だけが苦しむのか」という問いへの答えを提供する機能は同じだ。
〔注〕これはフランスの哲学者・歴史家ミシェル・フーコー(Michel Foucault)の「医療化(medicalization)」論と共鳴する。フーコーは、精神医学の歴史を「正常と異常を区別することで社会的管理を行う装置の成立史」として読み直した。
診断名は苦しみに名前を与えることで、当事者に「自分の状態を理解し、ケアを求める言語」を与える——しかしその言語が、当時の社会規範を内面化し、逸脱者を「患者」として分類・管理する権力の言語でもある、という二重性を本書は素通りしない。
③「ふつう」の側こそ治療対象という逆転の倫理
本書が最終的に差し出す最も挑発的な命題はここにある。
生きづらさを生み出しているのは「異常」ではなく「ふつう」という規範だ——とするならば、最も深刻な「病気」は、疑問を持たない多数派の「健康」そのものだ、と読める。
「ふつうの職場」「ふつうの学校」「ふつうの家族」——この規範の中に収まれない人が病気とされ、薬を飲まされ、矯正される。
しかし収まれない側ではなく、その規範を無批判に再生産してきた側の「健康」こそ、問い直されるべき態度ではないか。
〔注〕これはクリップ理論(Crip Theory)や障害学(Disability Studies)が近年提唱してきた視点と接続する。「健常者」という規範的な人間像そのものが、歴史的・文化的に構築されたフィクションだ、という主張だ。
「ふつう」という概念は中立ではない——それは「ふつうに近い人」を中心に設計された社会の産物であり、その外縁(がいえん)で苦しむ人たちの苦しみの根本原因は「個体の異常」ではなく「ふつうという設計の暴力性」の中にある。
これは美馬が直接述べる命題ではない。しかし「ふつう」を問い直すという本書の基本姿勢を最後まで引き受けるなら、そこへ至ることを誰も止められない。
