163.教話雑感(29)-与えれば増える-
◆教話「鮮やかな対照」
天理教の信仰における心の働きのルールというのは“出せば入る”といった教えである。
しかし、我々が小学校から勉強しているのは、“出せば減る”、すなわち“足せば増える”“分ければ減る”というユーグリッドの量の世界での数学である。千円を十人に平等に分けると百円になるといった計算を、小学校の時から教育されている。大学でも社会でも、物の考え方は複雑になりこそすれ、それは基本の単なる延長に過ぎない。
ところが、信仰的な物の考え方からすれば、千の喜びを十人に分けたら減るといったことではない。喜びは、分けたら増えるのである。
一の悲しみに一の悲しみを足したら悲しみは二倍になるかというとそうでなく、悲しみは減るか、あるいは喜びに変って返ってくるかもしれない。
喜びは分ければ増える。
悲しみは足せば減る。
出せば入るというのが天理教の算数である。
(中略)
一日ぐらい水を飲まなくても身体に差し支えないないが、まる一日、小便を出さなければ、人間は死んでしまう。出すことが生命に関わっていることを、人間の生死の姿をもって神様は教えてくだされているのである。
雑感
家電量販店をぶらぶらし、陳列されたスマホなどを手に取りながら眺めていると、まず高確率でメーカーの人から話しかけられる。
別に全く買う気はないのだけれど、声をかけられたら無下に断れない性格なので「ハァ、そうですか」と何となく話を聞く。
そしてずるずる相手のペースで説明は長引き、新商品のセールスポイントを紹介され、意味もなく時間ばかり取られてしまう。
…別に買いに来たわけじゃないのに。
私は、売り手側が信頼の置ける人物なのか否か、判断の基準としていることがある。それは、売る気のない、ニュートラルな姿勢。
そういう物腰や態度が仄見える人であれば、とりあえず一定の信用を感じ、本当に耳を傾けてみようと思う気持ちが湧いてくる。
本気でただ売りたいだけ、営業成績をあげたいだけ、自身の利益を中心に置いているだけの人間であれば、私のような冷やかしで訪れる者にわざわざ自らの時間や労力、有益な情報を提供する等といった行為には踏み込んではくれないだろう。
ここで実例をひとつ。
我が家で灯油配達の契約を結んでいる業者のS商店さん。
Sさんは、信じられないぐらい無欲な社長さんだ。
通常なら料金が発生するような行為の多くを、幾度も善意(それすらないかも)でやってくれた。
ある時、風呂場のシャワーが不具合を起こし見てもらった。
ホースの部分が大分古くなっているらしく、交換の必要があるとのこと。
S「うちの倉庫に確か替えがあったと思って探したらやっぱあったんで、交換しといたよ」
妻「料金おいくらです?」
S「えー…家にずっとあって使わないやつだったし…いいよお金もらわなくても」
妻「いやいや‼ 請求してくださいよ」
S「えー…はぁ、わかりました、じゃあ後日」
…なんて遣り取りしてて、結局、ホースの代金も、交換の代金も一円も請求されないまま終わってしまう。
またある時、ストーブが故障する。大分長いこと使っているものだったので、新しいものについ交換なのかなと妻と相談し、S商店さんに見てもらった。すると、
S「あー…確かにこれはもうだめだね。ん-…」
私「さすがに新しいやつに買い替えですかね?」
S「いや…、ちょうどよそで新しいストーブの買い替えをされた方がいて、代わりに回収してきた古いストーブね、実はまだ使えるものなんですよ。それ持ってくるんでちょっと待ってて」
そう言って一度会社に戻り、軽トラの荷台に件のストーブをつけて持ってきてくれた。そうやって中古のストーブを設置してもらう。
私「おいくらですか?」
S「あぁ、いらないです。よそから回収したやつだし」
私「いやいや、それにしたって、それはさすがにおかしいから‼」
自身、車で何往復かしている労力やらガソリンやらのことを度外視して、一切お金をもらおうとしない。(会社はまわっているのかこれで?)
それだけではなく、メーカーは新しいストーブの方が燃費が良くて経済的だと謳っているが、その代わりに付属の部品が昔のものよりも寿命が短く、結局そういう方面でお金がかかる仕組みでやっているんだ。それに引き換え、古いストーブは燃費が若干悪くても、部品はけっこう丈夫で長持ちするから、買い替えないで古いものを使えているうちは使い倒した方がいい、と裏の内情も教えてくれる。
そんな有益な情報をSさんが我々に教えてくれることに対し、彼にとっては何のメリットもないのに…。
こういう付き合いが続いていたので、私達はすっかりSさんを信用していたし、灯油配達料が少しぐらい高かろうが、一切文句はなかった。
そしていよいよ買い替えの時期がきたら、明らかに割安な家電量販店ではなく、S商店さんを通して買おう、と常にそう思っている。(関係ないけれど、Sさんはダイヤモンドユカイに瓜二つ。多分、プライベートではバンドやっているであろう風貌)
この目先の利益にこだわらず、目の前の相手にとって正しい情報を提供してくれる、中立的な態度。
…これは信用できる。
なにか、そういう在り方を宗教者としての態度へも反映させられたらと感じている。
天理教であることを背負いつつも、可能な限りニュートラルな立ち位置で、教外者・特定の信仰を持たない方達とも向き合いたい、と。
もしも自分が部外者で、宗教的な価値観に触れてみたり、助言を仰いで見たり、知識として知りたいという好奇心を抱いていたとしても、質問を投げかけたその宗教者が、私が抱いている興味の間隙を縫って自身の側の信仰に引き込もう、入信を勧めよう等という下衆な色気を感じ取ったなら、おそらく興醒めしてしまうだろう。
聞きたい、知りたい、教えて欲しい、という要望を真摯に受け止め、かつ思慮をわきまえてくれるなら、きっとその宗教に対し一定のリスペクトを覚え、悪感情を抱くことはないだろう。そしてそういった結びつき方は、必ず別な場所で良い結果となって現れてくることにもなる筈だ。
…こういったことは、かつて、布教の家に入寮し布教者としての道程をスタートさせた当初からずっと抱き続けていたことだ。
それは見方を変えれば、もしかしたら布教者に必要とされるのはある種の狂信性なのかもしれないのに、私にはいつもそれが欠けていたということでもあった。
【2019.2】
余談
ちょっとテーマに絞った内容ではなく脱線気味だったけれど…。
結局、与えたら増える、悲しみは寄り合わせたら減る、これは我々お道の信仰者にとって大切な計算式だと思っています。
それは足し算ではなく、かけ算なのかもしれません。
マイナスとマイナスをかけたらプラスに転じるように。
天理教ばっかりに専念して生きていると、ふとしたことで不安にも見舞われがちです。だって、世間の常識を物差しにして計算してたら絶対にやっていけないような生き方を常にしているんですから。
経済という観点で自身を冷静に見つめたら、まあまあ詰んでいます。
だけど、目に見えるお金や物質ばかりの世界に意識を縛り付けるのか、目に見えない、神様の領域の世界で心を自由に躍らせるのかで、生き方の難易度は段違いに変わって行きます。それは本当にそう思うんだ。
「ああ詰んだ」
「お先真っ暗」
こういう意識を真ん中に置いているうちは、そのまんまの結末へまっしぐらでしょう。自分の意志でそれを選択しているんだから。
だけど、“与えたら増える”“人が生きていく上で必要なエネルギーは他者貢献、あるいは他者の心の救済を経て無尽に増大し得る”という法則を真剣に見つめて行動に起こしていると、なんていうか、だんだん面白くなってくるんですよね、生きているのが。
絶望は常に背中に張り付いて離れやしないけれど。
計算上の自己利益を超越した視点を忘れずに、与えてまわして増やしていきましょうか。
今回はここまで。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^O^)
