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ちんぽく宣言――途中から生きるという選択

僕は、自分の名前を「ちんぽく」にすることにした。
ここには、非常に深い意味がある。

私の名前は、もともと「ぽく」だ。
しかし、それは本物ではない。

ところで、チンアナゴという生き物がいる。
彼は、ただのアナゴではない。チンアナゴなのだ。
アナゴに「チン」がつくことで、もはや別の存在になる。

だから、私も名前に「ちん」をつける。
何もおかしなことはない。私は、ちんぽくだ。

もし名前に「ちん」がついていなければ、
つけてしまえばいい。

坂本龍馬は、薩長同盟を結んだ。
だから彼は、坂本ちん龍馬だ。

『龍馬が行く』を書いたのは、ちん司馬遼太郎だ。
新大阪は、ちん大阪。
りんごは、ちりんご。
ドアは、ちんドア。

つまり、世界は「ちん」によって容易に変形する。

だからこそ、私は

ちんぽくとして生きなければならない。

君にこの衝動がわかるか?
私はちんぽくなのだ。誰がなんと言おうと。

君は、私をちんぽくと呼ばないかもしれない。
呼ばないのか? 本当にそれでいいのか?
私は、ちんぽくだが?

そうだ。
ちんぽくと「呼ぶ」ことはできない。
しかし、だからこそ、私は私自身をちんぽくと呼ぶ。

君がちん君でないように、
私はちんぽくなのだ。

外には雪が降っている。
心が冷える。
そして、私は、ちんぽくになる。

これは、私の無意識に潜むリビドーなのかもしれない。
しかし、無意識を読まれてたまるものか。

それが、私がちんぽくであることと
直接関係があるかはわからない。
だが、君が私のことをちんぽくと呼ばないこととは
どこかで関係しているかもしれない。

いずれにせよ、私はちんぽくだ。
それは変わらない選択だ。

──いや、変わるかもしれない。
だが、そんなことは知ったことではない。
未来の私は、実際、他人なのだから。

私が月曜日というものを使って
こんなに真剣な文章を書いている理由は、
ひとえに「お湯の水割り」が美味しいからなのだが。

ところで私は、
『鬼滅の刃』……失礼、
『不滅のあなたへ』というアニメを
第三期から見始めた。

これは、なかなか良い見方だと思っている。

というのも、物語の「始まり」というのは、
実はかなり体力を使う。

旧約聖書の創世記のように、
虚構そのものが魅力的であれば話は別だが、
多くの場合、物語の本当に美味しい部分は
真ん中にある。

魚を思い浮かべればいい。
稚魚を知らなくても、成魚は食べられる。
しかも、たいてい腹のあたりが一番うまい。

ただし、野菜炒めをカレー味にした場合は別だ。
あれは、時間をかけて味を染み込ませたほうがいい。

つまり、

すべてを最初から始める必要はない

ということだ。

特にアニメーションは、
10年、15年前の感覚で作られていることも多い。
そうなると、最初の方ほど見づらい。

源氏物語が優れた物語であっても、
古い言葉のままでは、とっかかりがない。

私たちは、
自分が生きている言語の共時態で書かれたものの方が
自然に掴める。

10年も経てば、世界は十分に変わる。
そして、物語というのは、はらわたがうまい。

だから、途中からでいい。
むしろ、最新の地点から理解したほうがいい。

「理解できないのでは?」
そんなことはない。

『パルプ・フィクション』が
最後の場面から始まるように。
エピソード0を知らなくても物語が成立するように。
日本語の通時態を最初から辿らなくても
私たちが日本語を話せるように。

人は、与えられた情報から
世界を腑に落とすことができる。

だから、最初からやることに
こだわる必要はない。

本当に優れたものは、
途中からでも面白い。

もちろん、
最初から順番に理解できれば楽だろう。
体系的理解が、人間にとって自然な場合もある。

だが、必須ではない。

ゆえに結論として、

私がちんぽくであることは、

何の問題でもない。

むしろ、世界が変化していることを
読者には喜んでもらいたい。

私は、恒等写像のように、
自分自身を、ただ別の集合に移しただけだ。

それがたまたま、
「ちん」というパラダイムだった。

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