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屋久島 『喜びの雨を巡る旅』

6月22日から25日まで、3泊4日で初めて屋久島を訪れた。

観光地としての屋久島ではなく、いのちの島・屋久島を身体で、心で、感じる旅をしたい。
そんな想いからこの旅を企画した。

帰ってきてから数日が経つけれど、まだ胸の奥で屋久島の空気が流れている。ふつふつと湧いてきている島で体験した感情を味わいながら、この旅の記憶を今そっと言葉にしてみたい。

呼ばれた気がしてしまったら、行くしかない

「れあさん、屋久島に行くならガイドが重要ですよ。ガイドが違うと体験が180度変わってくる。屋久島に行くときは教えてください。素晴らしいガイドの方をご紹介するので。」

禅的マネジメントSchoolというプログラムを一緒にやらせてもらっている小森谷浩志さんからそう言われたのが、昨年末あたりだったと記憶している。

「屋久島は特別な場所だよ」「呼ばれないと行けない場所だよ」

以前から、友人知人が口々にそう言うのを聞いていて、いつかは行ってみたい場所のひとつだった屋久島。

なぜ?という理由は、正直あまりよくわからない。

ただ今年に入ってから「あ、今年は屋久島だな」と思いついて、主宰しているasobijiというコミュニティのメンバーに「6月に屋久島旅企画したら、行く人いるー?」と投げてみたところ、すぐに10名ほどの手が挙がった。

asobijiって面白いほど、イベントを立てても集まらない時はことごとく集まらない。それが速攻で手が挙がるということは、やった方がいいやつかもな、と思い企画を進めた。

小森谷さんから屋久島ガイドのささっちょ(笹川健一)をご紹介いただき、ささっちょを通して、ガイド仲間のあかりん(石黒燈)、光平くん(秦光平)と出会った。

「皆で賑やかに楽しむ時間と、ひとりひとりが静かに心の中に入っていく時間とを、両方味わえる旅にしたいんです。」

私からガイドの3人に投げかけたリクエストはそれだけ。

旅のプランは完全に3人に委ねて、私たちは東京から屋久島に向かった。

屋久島に惚れ込み移り住んだ人たち

ガイドのささっちょ、あかりん、光平くんは3人とも東京からの移住者だった。皆んなにはそれぞれの人生と、それぞれの物語があるけれど、屋久島という場所に心底惚れ込み、移り住んだ人たちだというところは共通していた。

3人の一人ひとりが、屋久島の自然を心から愛し、ガイドという仕事を楽しんでいる姿が、旅のあいだ中ずっと伝わってきて、その姿に何度もじんと胸が打たれた。

ガイドの皆んなのその眼差しには、屋久島という場所への愛情と敬意が宿っている。

森を歩くときは、「ガイド」の域を優に超えて、一本一本の木に、一滴一滴の水に、そこに込められた物語を感じ取り、心を込めて私たちに伝えてくれる。

人が、自分の本当に愛する場所で、愛するものを目の前にして働き生きる姿というものは、なぜこんなに、美しいんだろう。

彼らは「仕事」をしているというより、「自然と生きること」そのものを、その佇まいや眼差しや話し方の全部で表現してくれていた。

私が日頃から大切にしている「GiFT」という言葉。
自然と滲み出るその人らしさ、頑張らないでもできる得意なこと。

3人ともそれを、屋久島というステージで、丸ごと表現して生きる本物のアーティストだった。

3千年の時を生きる

無数の生き物が共存しあって生きる、美しく神秘的な森。

3千年を生きる紀元杉

3千年という雄大な時の流れを生きてきたヤクスギの前に佇むと、ただひたすらに自分の存在がこの星の一部なのだと感じられる。

私たち人間は、地球の歩みから比べたら一瞬以外の何物でもないこの人生の中で、ああでもないこうでもないと悩み、時にはこの世の終わりのように思い込んでもがき苦しむこともある。

もちろんそれが、「ヒト」という生き物のあるがままの姿であって、それも尊いことなのだけれど、同時になんとささやかな営みに過ぎないのか。

3千年を生きてきた生き物を前にしては、そんな謙虚な気持ちにならざるを得ない。

これまで大きな悩みだと思っていたことが、ふっと軽やかになる。それは問題が解決したのではなく、問題との距離感が変わったという感じなのだと思う。

平安時代から現代まで、どれだけの人がこの木の前を通り過ぎただろう。

どれだけの雨を受け、どれだけの風に揺られ、どれだけの季節を繰り返してきたのだろう。

そんな壮大な時の流れの中で、私たちの人生もまた、かけがえのない一瞬の輝き。これは、頭で理解する話ではない。身体と心のすべてで受け取る体験なんだと思う。

「つながり」の真実を伝えるMOSS Ocean House

ツアーの中で「MOSS Ocean House」という場所に連れて行ってもらった。

「流域」という考え方で、川も森も土も生き物も、すべてが繋がっているから、どこかひとつをないがしろにしたり犠牲にしたりすると全体がゆくゆくは崩れてしまう。

だから一つひとつを、そのときに必要なケアや手入れを施しながら、自然の中で生活する。という生活スタイルを実践している、小さな村のような場所だった。

ここを運営する「いまちゃん」に出会い、彼の流域での暮らしを体験する時間があった。

登山道ではない森に入り、川に山の土砂が流れ込まないように木の枝を敷き詰めて防波堤のような盛りあがった場所をつくる作業。夢中で木の枝を敷き詰める。

今作っているこれは何か月、何年くらいもつのだろう。私たちがここを去ったあとのこの場所の姿に想いをはせた。たくさんの生き物がここを通りすぎるのだろう。

「ここが海からの風の通り道なんですよ」

いまちゃんがそう教えてくれた場所にたったとき、さわやかな潮風が森に入ってきて、顔や髪をなでた。海と山がつながっている。風もまた、この島の循環の一部。

いまちゃんの暮らし方を間近で見て感じたのは、彼自身が自然の一部として暮らしているんだということ。だからいまちゃんのやることすべてが、自然に対する愛おしさから生まれているのがわかる。

焚火を囲んで

MOSS Ocean Houseの滞在の最後に、18名の参加者全員で焚火を囲み語り合う時間があった。

大所帯でわちゃわちゃと話したりふざけたり、終始にぎやかな時間。でも焚火を囲むと自然と皆が火を見つめ、場が静まっていく。

この旅に、いろんな事情を抱えながらも勇気を振り絞って参加したメンバーもいた。おそらく参加者のほとんどが戸惑いや迷いも感じながら「参加」のボタンを押したのだと思う。

ひとりひとりが、とつとつとその時の感情を、言葉を、焚火に向かって置いていく。想いが溢れ、涙がこぼれる。なんとも言えないあたたかな、受容と浄化の空気が流れる。

大切なことをひとりひとりが、その時一番必要としていることを皆がそれぞれ、自然から勝手に受け取っていた。

どこからともなく「ありがとう」の言葉が漏れ出る。

火という存在の不思議さを思った。炎を見つめていると、日常では閉じてしまっている何かが、そっと開いていく。言葉にならない想いが、自然と形になって現れてくる。誰かが言えない心の声は、別の誰かを通して言葉になり、場に置かれていく。

人間にとって火とは、きっと太古の昔からそういう存在だったんだろう。

すべてが”きれい”な島

地球は壊れ始めている、というニュースばかりが目に入る時代に生きているけれど、地球はまだこんなにもキレイで美しい。

信じられないほどに屋久島の自然のすべてが心地よくて、優しくて、無理がなくて、ずっと一緒にいたくなってしまうようなところだった。移住をする人たちはきっと、この感覚を忘れられなくて移住を決意するのではないかなと想像した。

屋久島は、どこに足を運んでも「きれい」という感覚がある。

空気も雨も水も草木も道も…どこも汚れていない。どこに触れても、身を置いても、清々しく、清涼感が屋久島の至るところに宿る。

今回の旅のあいだ、とても不思議だったのは、素晴らしい自然や景色に触れて皆の感情が溢れ出すと、次の瞬間決まってわーっと大雨が降った。

まるで歓迎してくれているみたいな、祝福してくれているみたいな、拍手のような雨。

旅のあいだ幾度も、そんな喜びの雨が降ったので、旅の終わりにささっちょが今回のツアーを「喜びの雨を巡る旅」と名付けてくれた。

雨がこんなにきれいだと思ったのも、「雨に濡れたい」と思ったのも、生まれて初めてだったと思う。

人工的な美しさではない、滞らずに循環し続けるからこそ存在し続ける「そのものの美しさ」なのだと心から思った。

「海十日、里十日、山十日」という屋久島の古い言葉を、ささっちょが教えてくれた。

この島では人も自然の一部として生きているのだということ。

これが屋久島という場所の在り方で、それを滲み出る空気感として感じ取ることができたのだと思う。

人のやわらかさ

屋久島の人はとにかく、出会う人出会う人、優しい。
顔も声も穏やかな人が多い印象。「梅雨時期は観光客が少ないからみんな心に余裕があるのかも」と、ガイドのあかりんが言っていた。それでもきっと、こころの「余裕の総量」は屋久島の人は多めなのではないかな。

忙しさに追われがちな日常を離れて、こんなにも穏やかな人たちと時間を共にすることで、自分の中の何かがほどけていく。

島の人の穏やかさは、決して何もしていないからではない。

自然と共に生きることで培われた、深い安心感のようなもの。時間の流れ方そのものが違うのかもしれない。

効率や生産性を求める世界にいると、つい忘れがちになる。でも人間本来の豊かさってきっと、こういうものなんだろう。

最後の夜の贈り物

最後の夜、到着してから曇りと雨が多かった屋久島の空に満点の天の川が現れた。

屋久島をはなれようとしている私たちへのプレゼントのような星空。どこまでもどこまでも、無数の星が続く夜。

この身体のなかに流れる血液、細胞のひとつひとつまで感じきるような、澄んだ感覚が流れ込んでくる。

森の音、頬に触れる空気の温度、風の匂い、雨の味、光の明るさ・・・自然の中はこれほどまでに無数の、「愛」という言葉でしか表現ができない「情報」で溢れている。それなのに、普段私たちはそのほとんどをキャッチできていない。

星空を見上げながら思った。私たちの身体をつくっている元素は、すべて遠い昔に星の中で作られたもの。文字通り、私たちは星の子ども。そのことを頭で知っていることと、満天の星の下で体感することとは、まったく違う。

たった数日なのに、屋久島の自然の中で五感を研ぎ澄ませていくと、普段いかに多くのことを感じ損ねているかに気付く。都市の生活は便利だけれど、同時に多くの感覚を封じ込めて鈍らせて過ごす環境にもなってしまっているかもしれない。喧噪や悪臭を感じずに済むかわりに、喜びや調和も感じられなくなってしまっていないだろうか。

もう少し、もっと

本音を言うともっとずっと屋久島にいたかった。
もっと森に入って、もっと浜辺で海を眺めていたかった。もっときれいな雨に打たれてずぶ濡れになりたかったし、もっとおいしい水を飲んで、おいしい空気を胸いっぱい吸い込んでいたかった。

この名残惜しさはきっと、楽しい時間が終わったからじゃなくて、もっと深いところで、自分が本当に求めているものに触れたからなんだと思う。

都市での生活に慣れすぎて、自分でも気づかないうちに何かを我慢していたかもしれない。

屋久島では、そんな我慢をしている自分にさえ気づかなかった。ただ、在るがままの自分でいることができた。皆を観ていても、同じことを思った。

旅から持ち帰ったもの

日常に戻った今も、屋久島で感じたあの感覚はまだ生きている。

3千年を生きる森の静寂。絶えず流れる水の音。雨に濡れた葉っぱの匂い。やわらかな人々の笑顔。焚火の温もりと仲間たちの涙。満天の星空の下で感じた宇宙との一体感。そして、自分もまたこの美しい星の一部なのだというつながりの実感。

どれもこれも、かけがえのない贈り物だった。
これから忙しい日々に戻っても、ふとした瞬間に屋久島のこの空気を思い出そう。そうしたらきっと不思議と心が落ち着くだろう。

旅の醍醐味というのは、行って帰ってくることではなく、その場所で出会った何かを持ち帰って自分の中に住まわせることができる、というところなのかもしれない。

いまちゃんに教えてもらった「流域」という考え方も、私の中に根を下ろした。

本当に、すべてはつながっている。

ひとりの人の生き方も、働き方も、誰かとの関わり方も、すべてがどこかでつながっていて、どれかひとつを疎かにすれば全体に影響する。でもどれかひとつを大切にすれば、それもまた全体に良い影響を与えていく。

そんなつながりと循環の中で、私たちは常に生きているんだなと、今ではわかる。

深く呼吸して、今ここにいることを感じる

屋久島が教えてくれた、そんな当たり前で特別なことを、忘れずに大切にしていきたい。

そして、いつかまた必ず、あの森に会いに行こう。
今度はもっと長く、もっとゆっくりと、あの森に会いに行こう。

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