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猿沢池の采女の正体  十三

采女を見つけた

平城天皇の愛妾というなら薬子しかいない。
 高校の教室で広げた日本史の教科書。この時代、女帝以外に女性の名前が記録に載ることは非常に稀だ。そんな時代におそらく唯一の「悪女」として記された女性が藤原薬子だった。この女名が高校生だった私には深い紫色を帯びてみえた。よほど妖艶な女性だったのだろうか。楊貴妃のような傾国だったのだろうか。歴史の教科書に名を遺すほどのクーデターを一人の女性が起こしたのか、というインパクトに、妙に心がざわついたのを思い出した。

その薬子にここで出会うとは。

私の中でスパークしたその女性と時代について、私は深く探ることにした。
平城天皇と藤原薬子。二人はどういう経緯で出会ったのか。天皇の誕生から即位、薬子の変までは前述のとおり。が、薬子になると情報は本当に少ない。しかも残っているのは悪評ばかりだ。公文書である日本後記にわざわざ悪口を記す意味はあるのだろうか。彼女を悪者にする理由はどこにあるのか。そもそも薬子とはどういう人物なのか。

藤原薬子
藤原薬子は藤原式家 藤原種継の娘である。種継は桓武天皇の右腕として長岡京遷都に尽力していた785年(延暦4年)、長岡京の造営地で射殺された。(藤原種継暗殺事件)この事件が、後に日本三大怨霊に次ぐ一人ともされる早良親王の廃太子と流罪に繋がっていく。
記録によると、種継の娘•薬子は藤原縄主の妻で、五人の子をもうけた。縄主と薬子の姫は、安殿親王(のちの平城天皇)の希望で入内することとなる。藤原式家という強力な後盾てのある姫が東宮に入内するのは当然の流れであっただろう。しかし姫は幼過ぎた。母親の薬子は入内を渋っていたが、夫縄主の提案で姫とともに宮中に入ることになった。ここで当の東宮•安殿親王は母親の薬子と出会い、幼い妃ではなくその母親に執心したのだった。父の桓武天皇はこれを嫌い、東宮から薬子を退出させた。そして薬子の夫である藤原縄主を東宮大夫に立てた。
と、ある。
はて。薬子を皇太子に接近させないように、その夫をお目付け役として東宮大夫に就けた、というもっともらしい解説がされているが、果たしてそうなのだろうか?

これは不自然ではないか。天皇の命令は絶対的な力を持っている。薬子は娘の入内に付き添って宮中に入っただけなのだ。帝から退所を命じられたら従うしかない。なのに、前後して夫縄主が東宮大夫という高い地位を与えられて在宮することになった。後宮の管理ではなく東宮に、だ。私にはそれはお目付け役としてではなく褒美と感じられた。 
褒美。なんの?
 もしかしたら、桓武天皇も薬子を気に入ったのではないか。時の権力者が部下の妻を愛人にするなど、この時代には大した問題ではなかったはずだ。桓武帝には知られているだけで皇后以下二十八名の妃がいたという記録があるし、記録にはない女人はもっといたと思われる。百済王明信は、妃や夫人という地位ではない尚侍(内侍司の長官)を勤めていたが、まぎれもなく寵姫だった。
当時、令制によって妃や夫人という地位には人数制限があったけれど、宮中を彩る愛人の数に制限はなかった。後宮はハーレムだもの。といっても、公卿の妻である薬子は桓武天皇の制度上の妃や夫人等にはなれない。夫は公卿、娘は我が子である親王の妃。典司にしたら寵姫の百済王明信との軋轢もあるだろう。それでも側に置きたかったのではなかろうか。そう、つまり桓武天皇は「薬子を嫌った」のではなく、「薬子が親王の側にいる事」を嫌って引き離したのではないかとも読める。そして幼い妃と離れることを渋った薬子の代わりに、父親を東宮大夫に昇格させて据えた。これなら話の筋が通りはしまいか。
事実、桓武帝が崩御すると即座に、薬子は平城天皇の側にはべることになった。平城天皇の御代になった途端、彼女は最上位の尚侍となり、またたく間に正四位下、従三位、続いて正三位と、当時の女人として最高の位に就くこととなるのだ。

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