透明な壁の内側で、私は「静かな戦友」を探している
「群れる」ということが、どうしてこれほどまでに奇妙に見えるのだろう。
私は、ASD傾向の強いADHD、境界知能、学習障害という複数の特性を抱えながら看護師という「もっともコミュニケーションを求められる職業」の一つに身を置いてきた。
幼い頃から、私は周囲をどこか冷めた客観的な目で眺めていた。
幼稚園の頃、一人で排泄に行けば済むはずのトイレにまで誰かと連れ立っていく子たち。
放課後、わからない授業について教師に個別に質問に行くことすらできず、常に誰かの影に隠れている同級生。
高校や看護学生、さらには社会人になってもなお、購買や自販機、学食に一人で行けずに誰かを誘わなければ行動できない大人たち。
正直に言えば、私はそんな彼らを「別の惑星の住人」どころか、単独行動すらできない不自由な存在として、どこか引いた目で見ていた。
なぜ、自分の足で、自分の目的のために動けないのか。
一歩引いた場所から眺める私は、常に透明な壁の内側で、彼らとの埋められない溝を感じていた。
鋭すぎるアンテナがもたらす孤独
発達障害を抱える人の中には、相手の反応を気にせず突き進める人もいるという。
しかし、私は違った。
皮肉にも「知覚推理」がそれなりに高かったせいで、私は相手の微細な表情の変化、声のトーンの沈み込みから
「あ、今、私はお呼びでないんだな」
という拒絶を、誰よりも早く、鋭敏に察知してしまう。
相手の興味に合わせた返答ができず、場が凍りつく。
一対一の状況で、相手のトーンが露骨に下がる。
そして、ようやくその地獄から解放されたかと思えば、相手が別の誰かに
「あの人との時間は苦痛だった」と吐露しているのを耳にする。
そんな経験の積み重ねが、私の心に幾重もの防壁を作った。
私はますます「単独行動」という名のシェルターに閉じこもるようになった。
失われた「戦友」たちへの郷愁
けれど、そんな私の人生にも心が震えるほど心地よい瞬間があった。
かつて私の周りにいた定型発達の人々からは避けられていた数少ない「少し変わった」友人たち。
勉強が苦手だったり、時間にルーズだったり、特定の知識には異常に詳しいけれど他人の話には無頓着だったりする彼ら。
彼らとの時間は飾る必要がなく、呼吸がしやすかった。
しかし今、彼らと再び繋がる術を私は持たない。
比較的貧困側の家庭に育った私は、高校2年生まで携帯電話を持つことが許されなかった。
そして私が「戦友」と認めた彼らもまた、自分の内なる世界を何よりも大切にする人々だった。彼らは、承認欲求の渦巻くSNSの世界とは無縁だった。
Facebookやmixi、Xを覗いても、Instagramを辿っても彼らの姿はない。
今の時代、検索一つで誰とでも繋がれるはずなのに私が本当に会いたい、あの飾らない魂を持つ人たちは、デジタルの海には浮上してこない。
その断絶を思い知るたび、胸の奥が締め付けられるような言いようのない孤独と悲しみに襲われる。
境界線上で働く看護師として
現在、私は発達障害を抱えていることを伏せた「クローズド」の状態で、看護師として働いている。
テキパキと仕事をこなし、空気を読み、上司に可愛がられる「優秀な」定型発達の同僚たち。
彼女たちとの会話は、どこまでいってもギアが噛み合わない。
彼女たちの価値観に合わせようとするほど自分の魂が削られていくのがわかる。
皮肉なことに、私の心が本当に安らぐのは、社会的入院として長期に病院に入院している患者さんや、身寄りのない知的障害や同じように発達障害などの精神障害、疾患を抱えている方々と接している時間だ。
世間が「支援が必要な人」と呼ぶ彼らの瞳の中に、私はどれほど純粋で計算のない魂が宿っているかを知っている。
定型発達の同僚たちが眉をひそめるような言動の中にさえ私はある種のシンパシーを感じる。
私は「救う側」の白衣を着てはいるが、その実、彼らと同じ地上の片隅で、静かに、必死に戦っている「戦友」なのだ。
救われる側が、救う側になるとき
今の社会は、マジョリティにとっての「普通」を強要する。
しかし、私は思う。
スムーズな会話ができなくても、群れる人たちに引いた目線を向けてしまっても、私にしかできない「寄り添い」があるのではないか。
言葉にならない苦しみを抱える人、社会のスピードについていけない人、そしてかつての私のように、透明な壁の内側で震えている人。
そんな人たちの「低めのトーン」や「言葉の詰まり」を、誰よりも敏感に察知し、裁くことなく隣に座っていられるのは、きっと私のような人間なのかもしれない。
私が幸せになれる場所。
それは、効率や世渡りの上手さが評価される場所ではない。
「ただ、そこにいること」に価値を見出してくれる場所。
そして、私の持つ「敏感すぎるアンテナ」が、誰かの孤独を拾い上げるためのギフトに変わる場所。
暗黒時代を生き抜いてきた私の足跡は、今、同じ暗闇にいる誰かにとっての小さな灯火になれるかもしれない。
この記事が、どこかで静かに戦っているあなたの生きる糧になりますように…。
#子持ちママ #共働き
