屋根から落ちて3ヶ月後に目覚めたら、同じはずなのに少し違う世界で右利きの自分として生きていた~帰りたくても帰れなくなって31年がたちました~第6章改訂版
第6章 じゃあ私は、誰を好きでいればいいの
名前のない涙
涙には理由がある。
悲しいから泣く。
嬉しいから泣く。
悔しいから泣く。
人はそう思っている。
私もそう思っていた。
少なくとも、あの日までは。
手紙を閉じても。
涙は止まらなかった。
机の上には古い便箋。
何度も読み返した文字。
知らない男からの手紙。
知らないはずなのに。
胸だけが苦しい。
窓の外は静かだった。
時計の針が動く音だけが聞こえる。
私は何度も目を擦った。
泣く理由がない。
本当にない。
書かれていた名前も。
顔も。
何も思い出せない。
それなのに。
心だけが悲鳴を上げている。
私は再び写真を見た。
ぼやけた男。
私の隣に立っている。
肩が触れている。
近い。
とても近い。
他人ではない。
それだけは分かる。
なのに。
誰なのか分からない。
写真を胸に抱く。
また涙が落ちる。
「何なんよ……」
小さく呟く。
返事はない。
もちろん誰もいない。
それなのに。
写真の中の男は。
今にも何か言いそうな気がした。
翌日。
職場へ向かった。
朝から気分が悪かった。
風邪ではない。
頭痛でもない。
もっと曖昧な違和感。
胸の奥が空洞になったような感覚。
同僚が声を掛けてくる。
「大丈夫?」
私は笑った。
「大丈夫」
嘘だった。
全然大丈夫じゃなかった。
昼休み。
私はスマホを見ていた。
昨夜の写真。
昨夜の手紙。
何度見ても分からない。
何度見ても涙が出る。
隣に座った同僚が覗き込む。
「誰?」
私は答えられなかった。
「知らない」
同僚は笑う。
「元彼?」
私は首を振る。
「分からん」
「何それ」
同僚は笑った。
冗談だと思ったのだろう。
だが私は笑えなかった。
元彼。
その言葉が妙に引っかかった。
もし元彼なら。
覚えているはずだ。
別れた相手でも。
嫌いになった相手でも。
記憶は残る。
なのに。
何もない。
本当に何もない。
空白。
それだけだった。
仕事が終わる頃には。
頭痛までしていた。
帰宅する。
夕食を作る。
テレビをつける。
何も入ってこない。
私は早めに布団へ入った。
眠れば忘れられると思った。
だが。
その夜。
夢を見た。
最初は白だった。
真っ白な光。
何もない。
そして。
少しずつ輪郭が現れる。
天井。
白い天井。
蛍光灯。
消毒液の匂い。
病院だった。
私はその景色を知っていた。
知らないはずなのに。
知っていた。
胸が締め付けられる。
病室。
ベッド。
誰かが眠っている。
男だった。
顔は見えない。
光が邪魔をする。
それでも分かる。
大切な人だった。
私は近づいた。
足音はしない。
夢だからだろうか。
私はベッドの横へ立つ。
男は眠っている。
苦しそうだった。
私は泣いていた。
夢の中の私は。
泣いていた。
なぜ泣いているのか分からない。
けれど。
泣いている。
必死に。
何かを失いそうな人間みたいに。
私は右手を伸ばした。
男の右手を握る。
温かかった。
その瞬間。
胸の奥で何かが弾けた。
涙。
笑顔。
海。
祭り。
喫茶店。
夕焼け。
病院。
無数の映像。
断片。
記憶の破片。
だが。
繋がらない。
誰なの。
私は夢の中で叫ぶ。
誰なの。
お願いだから。
顔を見せて。
その時だった。
眠っていた男の指が動いた。
私の手を握り返した。
世界が揺れる。
眩しい光。
誰かの声。
そして。
男がゆっくり目を開く。
私は顔を見ようとした。
だが。
見えない。
どうしても見えない。
光が邪魔をする。
まるで。
思い出してはいけないみたいに。
その瞬間。
男の声だけが聞こえた。
とても懐かしい声だった。
聞いたことがある。
何度も。
何度も。
何度も。
なのに。
思い出せない。
男は言った。
「やっと会えた」
その一言で。
私は泣き崩れた。
夢の中で。
理由も分からず。
声を上げて泣いた。
そして。
目が覚めた。
暗い部屋。
午前三時。
静かな夜。
私は布団の中で震えていた。
顔は涙で濡れていた。
胸が痛かった。
呼吸が苦しかった。
だが。
何も思い出せない。
病院も。
男も。
右手の温もりも。
全部夢だったはずなのに。
涙だけが残っている。
私は顔を覆った。
「誰なん……」
小さく呟く。
返事はない。
けれど。
胸の奥で。
何かが確実に目を覚まし始めていた。
忘れたはずの感情。
失われたはずの愛情。
名前のない涙。
それだけが。
誰よりも正直に。
私の中で生き続けていた。
もうひとりの彼
へ続く。
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