「理性は感情の奴隷である」300年前にAIの仕組みを予言した『人性論』が、今こそ刺さる理由!
いまから三百年くらい前の話ですが、20代の若きスコットランド人が、哲学の歴史を変える本を書きました。
デイヴィッド・ヒュームという人。
彼はニュートンが物理学で成し遂げたような革命を、人間の心の研究でも起こそうとしました。
それが『人性論』です。
どいういうことかというと、観察と実験を通じて、人間という謎めいた存在を解明しようとしたのです。
なんですが!
出版当時の反応は散々でした。
ヒューム自身「印刷機から生まれた瞬間に死んでしまった(死産した)」と自虐的に語ったほど、まったく売れなかったんです。
なぜなら、彼の主張があまりにも急進的で、当時の常識であった神や理性への絶対的な信頼を、根底から破壊するものだったからです。
この記事では、カントを「独断のまどろみ」から目覚めさせ、現代のAI研究にまでつながるこの「早すぎた傑作」の世界を解説していきます。
知識はどこから来るのか?
ヒュームの冒険は、人間の心の「中身」を調べることから始まります。
彼は、心の中にある材料はすべて経験から来ていると考え、その強さによって二つに分類しました。
一つは印象で、これは目の前にある赤いリンゴを見たり、熱いお湯に触れて熱さを感じたり、激しい怒りに震えたりするような、「今、ここ」での生々しい体験のことです。
もう一つは観念で、これは印象が過ぎ去った後に残る薄らいだコピー、つまり記憶や思考を指します。
ここでヒュームは複写原理(コピー原理)というシンプルなルールを示します。
それは「一度も『印象』として体験したことがないものを、『観念』として思い浮かべることはできない」というものです。
例えば、私たちは見たことのない色を想像することはできません。
「黄金の山」を想像できるのは、すでに知っている「黄金」と「山」という二つのコピーを頭の中でくっつけたからにすぎない。
因果関係という名の「習慣」
『人性論』で最も衝撃的なのが、原因と結果(因果関係)についての分析です。私
人間って「Aが起きれば、必然的にBが起きる」と信じるようにできてる。
しかしヒュームは、その『必然性(絶対にそうなる力)』を本当に見たことがありますか?と問いかけます。
有名なビリヤードの例えで考えてみましょ。
白い球が転がって、赤い球にぶつかり、赤い球が弾かれて動くとします。
このとき、私たちが目撃しているのは、「白い球が動いた」「二つの球が接触した」「赤い球が動いた」という三つの映像の連続だけです。
どこまで目を凝らしても、白球から赤球へと乗り移る「力」や「エネルギー」そのものは見えません。
では、なぜ私たちは「次は必ず動く」と確信できるのか?
ヒュームの答えは、それは「ただの習慣(クセ)」だというものです。
「これまで何度もそうなったのを見たから、次もそうなるだろう」と心が勝手に期待しているに過ぎません。
論理的には、次にぶつかった瞬間に赤い球が消滅したり、天井に飛び上がったりする可能性だって否定できないのです。
私たちの科学的知識の土台は、実は論理的な証明ではなく、動物的な慣れにあると彼は喝破しました。
私という幻影
さらにヒュームは、私たち自身の自己(自分という存在)すら疑います。
自分探しのために心の内側を覗き込んでも、見つかるのは「暑い」「寒い」「好き」「嫌い」といった次々と入れ替わる知覚(印象)だけで、これらを感じている『私』という受け皿そのものを見つけることは決してできません。
ヒュームはこれを劇場に例えました。
心とは、さまざまな知覚が次々と現れては消え、通り過ぎていく劇場の舞台のようなものです。
ただし、この劇場には「建物」も「観客」もいません。
演劇(知覚の流れ)そのものが心であり、確固たる自分など存在しないのです。
これを束(たば)説と呼びます。
私とは、知覚の束(集まり)にすぎないってこと。
人は理性では動かない
昔の哲学者は、理性が感情(情念)をコントロールし、正しい道へ導くべきだと説きました。
しかしヒュームは、第2巻でこの常識を完全にひっくり返します。
彼の有名な言葉に「理性は情念の奴隷であり、ただ情念に仕え、従うことだけがその役割である」というものがあります。
例えば、ダイエットを考えてみましょう。
「痩せたほうが健康に良い」と理性が計算しても、それだけでは人はケーキを我慢できません。
健康でありたい、モテたいという欲望(情念)が、ケーキを食べたいという欲望に勝ったときだけ、人はケーキを我慢します。
理性は、どうすれば痩せられるか(手段)を教えるカーナビのようなもので、アクセル(動機)を踏むのは常に感情です。
ヒュームによれば、指のかすり傷を避けるために、世界が滅びるほうを選ぶことさえ、理性的には間違いではありません。
理性は「事実の計算」しかできず、何が大事かを決めるのは感情だからです。
また、ヒュームは誇りのような複雑な感情もメカニズムとして解明しました。
誇りは、単に良い物を持っているだけでは生まれません。
その物が快を与えることと、その物が自分と関係していること、この二つの条件が揃って初めて、感情のスイッチが入り「誇り」が生まれます。
感情もまた、心の法則に従って機械的に生じるもの。
善悪は計算できない
第3巻では、善悪の正体に迫ります。
ヒュームは、「神がいる」や「人間は進化してきた」といった事実から、いきなり「だから祈るべきだ」や「だから弱肉強食であるべきだ」という規範を導き出すことはできないと指摘しました。
これを「ヒュームの法則」と呼びます。
事実の説明をいくら積み重ねても、そこに「人間の感情」が介在しない限り、善悪のルールは生まれません。
殺人現場を見て悪だと感じるのは、その行為の中に「悪」という成分が含まれているからではなく、私たちの心がそれを見て「不快だ、許せない」という反応を起こすからです。
道徳の正体は、客観的な真理ではなく、私たちが共有する共感に基づいた感情なのです。
そしてヒュームは、正義(所有権や法律を守ること)を、人間が本来持っている優しさとは別の、人工的な徳だと見なしました。
人間は本来、自分と身近な人しか愛せません。
しかし社会全体で、人の物を盗まない・約束を守るというルールを作ったほうが、結果的に自分の利益も守られ、みんなが得をします。
正義とは、神が定めた絶対の掟ではなく、人間が快適に暮らすために発明した便利な道具(システム)なんです。
なぜ今、ヒュームなのか?
人性論は、出版当時は無視されましたが、後にカントを目覚めさせ、近代哲学の金字塔『純粋理性批判』を生むきっかけとなりました。
特にすごいな、というか面白いなと思うのは、AI(人工知能)との共通点です。
現代のディープラーニングは、あらかじめ論理的なルールを教え込まれるのではなく、大量のデータからパターン(習慣)を学習して猫を見分けたり言葉を話したりします。
これはまさに、ヒュームが言った「知性は経験の繰り返し(習慣)から作られる」という考え方そのものです。
「私なんていない」
「善悪は感情にすぎない」
「未来のことは誰にも確実にはわからない」
ぱっと見、これって虚無的で不安になるメッセージかもしれません。
でもそれは、独断や偏見に囚われず、自然界の一部としての「ありのままの人間」を見つめようとした、ヒュームの知的さの証なんです。
ぜひ、手に取ってみてほしい。
【追記】
マガジンで、今まで紹介した本をジャンル分けして整理してみました。

本屋とか図書館で本を選んでるみたいで楽しいので、ぜひ見てみてください。
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