第57回 僕の好きな両国|Re:VISITED|隅田川テラスギャラリーを歩く①|北斎の川は、もう少し静かだった――《御厩河岸より両国橋夕陽見》を眺めながら
両国の街を歩いていると、
ときどき、道がそのまま展示室になることがある。
隅田川テラスも、そんな場所のひとつだ。
川沿いを歩いているだけなのに、
ふと壁を見ると、そこに江戸がいる。
しかも、ガラスケースの中ではなく、
風の通る屋外に、さりげなく掛けられている。
この感じが、いい。
美術館へ行く、というほど構えなくていい。
ただ歩いて、立ち止まって、
少し眺めて、また歩く。
そのくらいの距離感で、浮世絵に会える。
今回からしばらく、
両国橋のあたりから蔵前橋方面へ向かいながら、
隅田川テラスギャラリーに並ぶ浮世絵や錦絵を、
順番に見ていこうと思う。
一枚ずつ。
散歩の速度で。
急がずに。
最初に出会ったのは、
葛飾北斎の
《御厩河岸より両国橋夕陽見》
だった。
まず、川の青さに足が止まる
この絵を最初に見たとき、
いちばん先に目に入るのは、
たぶん川の色だと思う。
深い青。
しかも、ただ塗ってある青ではなくて、
波が、線になって流れている。
川面というより、
水そのものが意思を持って動いているような青だ。
その上を、小舟が進んでいる。
舟には人が乗っていて、
荷も積まれていて、
誰かは身をかがめ、
誰かは櫓を扱い、
誰かは黙って座っている。
働いている舟だ。
遊覧船ではない。
見物のための舟でもない。
生活の舟であり、仕事の舟である。
そこがまず、いい。
江戸の名所絵というと、
つい花火とか、賑わいとか、
橋の上の大群衆みたいなものを思い浮かべるけれど、
この一枚は、もっと呼吸が低い。
派手ではない。
でも、その静けさが、
かえって川の大きさを伝えてくる。
両国橋は、少し遠くにいる
題名には「両国橋夕陽見」とある。
だから最初は、
両国橋がもっと大きく、
主役のように描かれているのかと思った。
でも実際には、橋は少し奥にいる。
画面の左のほう、
ゆるく弧を描きながら、
川の向こうへ渡っている。
目立ちすぎない。
けれど、ちゃんとこの風景の骨格になっている。
この距離感が、なんだか実際の散歩に近い。
街を歩いていても、
橋はいつも真正面から現れるとは限らない。
少し離れたところから見えたり、
建物のあいだからのぞいたり、
川の流れに沿って、じわじわ近づいてきたりする。
両国橋も、
いつも「名所です」と胸を張って立っているわけではない。
日常の中に混ざりながら、
でも確実にそこにある。
北斎の描く両国橋には、
そういう実景の気配がある。
「御厩川岸」という場所の響き
この作品は、
北斎の名作シリーズ『冨嶽三十六景』の一図として知られている。
題名にある「御厩川岸」は、
現在の浅草橋から蔵前あたりにかけての地域に関わる地名で、
江戸時代には幕府の厩舎があった場所とも言われている。
いま「御厩」と言われても、
すぐに馬を思い浮かべる人は少ないかもしれない。
でも、こうして題名にその名が残っているだけで、
この川沿いがかつて
人の暮らしと物流と仕事にしっかり結びついていたことが見えてくる。
いまの隅田川テラスを歩いていると、
風が気持ちいいとか、
川幅が広いとか、
橋がきれいに見えるとか、
そういうことをまず感じる。
それはもちろん大事な実感なのだけれど、
北斎の一枚を前にすると、
この川は昔から
「眺める場所」であると同時に
「使われる場所」でもあったのだとわかる。
川は景色であり、
生活の通路でもあった。
そう思うと、
ただの風景が少しだけ厚くなる。
富士山が、ちゃんといる
この絵の奥には、
小さく富士山が見える。
北斎だから、富士がいる。
でも、ここでも富士山は主張しすぎない。
遠くに、静かに置かれている。
その感じがいい。
大きく描けば、
もちろん象徴としては強くなる。
けれど、この絵では
富士山は川と舟と橋の向こうにあって、
風景全体をそっとまとめる役になっている。
つまりこの絵は、
「富士を見せるための絵」というより、
江戸の水辺の空気の中に
自然に富士が入っている絵なのだと思う。
江戸の人たちにとって富士山は、
いまよりもっと日常の背景だったのかもしれない。
今日は富士が見えるな。
あの橋の向こうに見えてるな。
夕方になると少し輪郭が柔らかくなるな。
そんなふうに、
いまよりもう少し身近に、
けれどちゃんと特別な山として、
日々の景色の中にあったのだろう。
現在のテラスで、この絵を見る面白さ
隅田川テラスギャラリーでこの絵を見る面白さは、
作品そのものだけではなく、
いまの川のそばで、この絵を見る
というところにある。
屋内で額装された作品を見るのとは、
やはり少し違う。
本物の風が吹いていて、
本物の川が近くにあって、
橋も実際にそこにある。
その状況で、北斎の描いた川を見る。
すると、
江戸と現代がきれいに重なるというより、
少しずれたまま並ぶ感じがする。
同じ川のはずなのに、
流れている時間が違う。
いまの隅田川は、
護岸も整備され、
橋も架け替えられ、
周囲の建物ももちろん変わっている。
けれど、水辺に立って遠くを見ると、
「ああ、この方向にあの橋があり、
この先にあの景色が続いていたのかもしれない」
と思える瞬間がある。
その“かすかな接続”が、
このテラスギャラリーのいちばん贅沢なところかもしれない。

この展示のいいところは、
作品が過剰に演出されていないところにもある。
壁に掛けられた一枚の絵。
屋外の光。
少し無骨な展示の仕方。
でも、それが妙に似合っている。
美術館の静けさとは違う。
散歩の途中に出会う「街の記憶」として、
ちょうどいい。
作品が特別すぎる場所へ持ち上げられていないぶん、
こちらも気負わずに見られる。
その気楽さが、
かえって江戸の風景を身近にしてくれる。
北斎の線は、川を“水”ではなく“流れ”にする
北斎を見ているといつも思うのだけれど、
この人は、ただ形がうまいだけではない。
流れを描くのがうまい。
波の線、舟の向き、
櫓の角度、人の姿勢。
全部が少しずつ違う方向を向きながら、
画面全体ではちゃんと一つの流れになっている。
だからこの絵は、
静止画なのに止まって見えない。
舟はこれから少し進みそうだし、
水はこのあとも流れていきそうだし、
橋の向こうの空気も、
夕方へ向かってゆっくり色を変えていきそうに見える。
「夕陽見」と題されているから、
実際には一日の終わりの時間なのだろう。
でもこの絵には、
終わりというより
一日の続きがある。
今日が終わる。
けれど、川の仕事は続く。
舟は動く。
人は暮らす。
橋は渡られる。
そんな当たり前のことが、
ちゃんと描かれている。
それが、強い。
名所絵なのに、名所だけで終わらない
浮世絵や名所絵というと、
歴史の教科書や美術全集の中で見るせいか、
つい「名所を描いた絵」として整理してしまう。
もちろん、それは間違っていない。
でも、この一枚をテラスで見ていると、
それだけでは少し足りない気がしてくる。
これは名所絵である前に、
水辺の生活の絵でもある。
両国橋があり、
富士があり、
江戸らしい風景がある。
でも、絵の中心にいるのは
観光客ではなく、
川の上で生きている人たちだ。
だから、この絵は
“江戸の名所紹介”にとどまらず、
“江戸の時間の記録”にもなっている。
そこが好きだ。
名所は、立派なものだけでできているわけではない。
そこへ向かう舟や、
そこで働く人や、
その場所を通り過ぎる日常も含めて、
名所なのだと思う。
北斎は、そのことをよく知っていたのかもしれない。
散歩のはじまりに、ちょうどいい一枚
今回、両国橋から蔵前橋方面へ向かって
このテラスギャラリーを順番に見ていこうと思ったとき、
最初がこの一枚だったのは、
なんだか都合がよかった。
いきなり大騒ぎの花火でもなく、
満開の桜でもなく、
まずは静かな川の風景から始まる。
これはたぶん、
この連載にとっても良い入り口だと思う。
散歩は、最初から全力では歩かない。
少し足を慣らしながら、
景色に目を合わせていく。
この絵には、その最初の歩幅に似たところがある。
川を見る。
橋を見る。
舟を見る。
遠くに富士を見る。
それだけで、
もう十分に楽しい。
隅田川テラスの浮世絵散歩は、
しばらく続く予定だけれど、
まずはこの一枚から始めるのが、
いちばん自然だった気がしている。
いまの川と、昔の川のあいだで
現代の隅田川は、
きれいに整備された水辺になった。
歩きやすく、
見通しもよく、
季節や時間によっていろいろな表情を見せてくれる。
僕にとっても、
この街を歩く楽しみの大きな一部だ。
でも、こうして北斎の一枚を見ると、
この川には、
いまよりもう少し仕事の匂いがあり、
もう少し人の体温に近い時間が流れていたのだろうと思う。
どちらがいい、という話ではない。
ただ、同じ川でも、
見え方は時代によって変わる。
そして、その変化を
川のそばを歩きながら感じられるのが、
隅田川テラスギャラリーのおもしろさなのだと思う。
いま僕は、
整備された遊歩道をのんびり歩きながら、
江戸の川を見ている。
その少し不思議な時間差が、
なんとも両国らしくて、いい。
次はまた、
この道の続きを歩きながら、
次の一枚の前で立ち止まろうと思う。
隅田川の絵は、
急いで見るものではない。
川と同じで、
少しずつ進めばいいのだと思う。
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