マイケル・ジャクソンとヤンコビック丨三視点②丨温|パロディの笑いには、時代を一緒に見ていた人たちの体温が残っている
ヤンコビックの『Eat It』を聴くと、まず笑ってしまう。「Beat It」が「Eat It」になる。マイケル・ジャクソンの鋭いポップスが、急に食べ物の冗談へ変わる。けれど、この笑いは冷たくない。
みんなが『Thriller』を知っていたから笑えた。
そこには、同じ時代をテレビの前で見ていた人たちの体温が残っている。
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ヤンコビックの『Eat It』を聴くと、まず笑ってしまう。「Beat It」が「Eat It」になる。あの緊張感が、食べ物の冗談へ変わる。
マイケル・ジャクソンの鋭いポップスが、ヤンコビックの手にかかると、急に台所のにおいがしてくる。けれど、この笑いは冷たくない。
ここが大事だと思う。
パロディには、相手を傷つける笑いもある。元ネタを馬鹿にして、低く見せて、それで終わる笑いもある。しかし、ヤンコビックの『Eat It』には、どこか人懐っこい温度がある。
それは、元ネタへの理解があるからだろう。そして、聴き手と同じものを見ていたという共有感があるからだろう。
みんなが「Beat It」を知っていた。
みんながマイケルを見ていた。
みんながあの時代の空気を吸っていた。
だから、「Eat It」と言われた瞬間に笑える。
この笑いは、知識の笑いであり、記憶の笑いであり、共有の笑いである。ポップカルチャーが本当に広がった時、そこには温度が生まれる。
単に売れた、流行った、チャートに入ったということだけではない。人々の会話に入り、真似され、冗談にされ、家庭や学校やテレビの前に入り込む。
そうして作品は、社会の体温を帯びていく。
『Thriller』は、まさにそういう作品だった。
マイケル・ジャクソンは、遠いスターだった。
けれど同時に、驚くほど身近な存在でもあった。
誰もが名前を知っている。
誰もが曲を耳にする。
誰かがムーンウォークの真似をする。
テレビで映像を見る。
その断片が、日常の中に落ちていた。
ヤンコビックのパロディは、その日常側からマイケルに近づいている。
王様の宮殿を遠くから拝むのではなく、台所口から笑いながら入っていく。
その距離感がいい。
『Eat It』には、ファンの悪ふざけに近い温かさがある。
本家の偉大さを知っている。でも、偉大すぎるものをずっと真顔で見ていると疲れる。
だから少し笑う。
笑うことで近づく。
近づくことで、また本家の大きさに気づく。
これは、文化との付き合い方としてとても健全だと思う。名作を名作として拝むだけでは、距離ができる。スターをスターとして崇拝するだけでは、神話になりすぎる。そこにパロディが入ると、空気が少しやわらぐ。ヤンコビックは、そのやわらげ役だった。彼はマイケルを壊していない。むしろ、マイケルの存在を人々の笑いの中へ連れてきている。
『Thriller』という巨大な作品を、茶の間の冗談にも変えている。
ここに温度がある。
ポップスの面白さは、崇高であることと、くだらないことが同じ棚に並ぶところにある。
ものすごく完成度の高い楽曲があり、そのすぐ横に、食べ物の冗談がある。でも、その冗談によって、作品はさらに人間の手触りを持つ。
『Eat It』は、そういう意味で、80年代の笑いの記録でもある。
MTVの映像文化。
スターへの熱狂。
テレビの前で共有される音楽。
そして、それを横から笑いに変える感覚。
あの時代のポップスは、ただ聴かれるだけではなく、見られ、真似され、茶化され、会話にされていた。
その会話の温度が、このパロディ盤には残っている。レコードを手に取ると、ジャケットのコミカルさも含めて、その時代の気配がする。
名盤の重厚さとは違う。けれど、軽いからこそ持てる温かさがある。
笑いは、時に文化の防腐剤になる。
真面目な記念碑だけでは、人はだんだん遠ざかる。
でも、笑いがあると、文化はまた人の手元へ戻ってくる。
マイケル・ジャクソンの『Thriller』を語る時、ヤンコビックを通る意味はそこにある。
本家の偉大さを、少し肩の力を抜いて思い出せる。
あの時代の熱狂を、少し笑いながら振り返れる。
そして、マイケルがどれほど人々の日常に入り込んでいたかを感じられる。
『Eat It』の笑いには、時代を一緒に見ていた人たちの体温が残っている。
その体温があるから、パロディはただの冗談で終わらない。
笑いながら、少し懐かしい。
茶化しながら、ちゃんと覚えている。
そこに、ポップカルチャーの温かさがある。
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