雇用と扶養のあいだで
――178万円引き上げが示す、制度の限界
社会保険の扶養範囲が、178万円に引き上げられるという。
一見すると、働き控えへの対策であり、前向きな制度改正にも見える。
けれど、このニュースを見たとき、
良さそうに見えながらも、どこか違和感が残ってしまった。
それは金額の大小というより、
「扶養」という考え方そのものが、
今の社会と合わなくなっているのではないか、という感覚だった。
私の記事を読んでくださっている方が「スキ」を押してくれるのも、
正社員や雇用の枠に収まらない働き方を扱った記事が多い。
その結果を見ていても、
多くの人が、制度と現実のあいだに小さなズレを感じ始めているように思う。
雇用、特に正社員を基準に組み立てられてきた社会保険制度は、
いまの時代に、本当に合っているのだろうか。
扶養制度が前提としている世界
社会保険における「扶養」という仕組みは、
ある特定の社会像を前提に設計されている。
一人の稼ぎ手が、安定した雇用に就いている
収入は年単位で大きく変動しない
家族の生活単位は比較的固定されている
つまり、長期雇用を前提とした正社員モデルである。
このモデルでは、社会保障は個人ではなく家族単位で組み立てられる。
扶養される側は、制度と直接つながるのではなく、
稼ぐ人を通じて間接的に保護される存在として位置づけられる。
だからこそ、扶養の可否を分ける基準は、
「どれくらい稼いでいるか」そのものではない。
重要なのは、
「どれくらい継続的に稼ぐと見込まれるか」
で判断されてきた、という点だ。
この仕組みは、
雇用が安定し、収入が右肩上がりで増えていく社会では、
きわめて合理的だった。
専業主婦が成立した「奇跡の数十年」
では、その前提条件は、いつ成立していたのか。
歴史的に見れば、
専業主婦が「働かない存在」として広く成立した時代は、決して長くない。
日本でそれが可能になったのは、
高度経済成長期と呼ばれる、右肩上がりの成長が続いた数十年に限られる。
一人の賃金が年々上がる
雇用は長期に安定している
人口構成は若く、社会保障も現役世代に有利
将来は今より良くなる、という社会的な信頼があった
こうした条件がそろって、はじめて
「一人が稼ぎ、もう一人が家事と育児に専念する」という分業が、
無理なく回る社会が成立した。
逆に言えば、
こうした条件が恒常的に存在した時代のほうが、歴史的には例外だった。
専業主婦という生き方が「標準」に見えたのは、
経済が奇跡的に拡大し続けた、限られた期間の出来事にすぎない。
「母ができたのだから、私もできる」という錯覚
「私の母は、専業主婦だった。
特別に裕福な家庭だったわけではない。」と言う方は多い。
だから
「あの頃にできたのだから、今もできるでしょ?」
と考えてしまいがちだ。
けれど、それは再現性のない時代条件を、
個人の選択や努力の問題にすり替えてしまう、危うい発想でもある。
時代が違う。
賃金構造も、雇用の安定性も、社会保障の厚みも、社会情勢も、すべて違う。
同じ生き方をなぞろうとすること自体が、
すでに無理のある前提になっている。
178万円に上げても、ズレは解消しない
こうして見ると、
扶養範囲を178万円に引き上げることは、
制度の延命にはなっても、根本的な解決にはならないことがわかる。
問題は金額ではない。
収入が断続的な人
業務委託やフリーランス
複数の役割を行き来する人
こうした働き方が広がる中で、
「継続的に稼ぐと見込まれるかどうか」を
雇用形態で判断する制度そのものが、
現実と噛み合わなくなっている。
「扶養」という概念は、まだ成立するのか
誰かに扶養されているかどうか、ではなく、
個人がどう社会とされて関わりを持つのか。
収入が一時的に途切れても、
役割が変わっても、
生活そのものが成り立つ仕組みとは何なのか。
178万円への引き上げは、
その問いを先送りにしているだけなのかもしれない。
かつては合理的だった「扶養」という概念が、
今の社会でも本当に成立し続けるのか。
私たちは、
そろそろその前提自体を、問いただす時期に来ているように思う。
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