『災 劇場版』が描いた”死との距離感”
香川照之さんの復帰作として話題になった『災』の劇場版を観ました。
僕はこの作品が、演出効果を使って人と死の距離を描き、死を災いとして描いた作品だと思いました。
今日はこの『災 劇場版』について書いていこうと思います。
※この記事はネタバレも含みますのでご注意ください。
『災』とはどんな映画か
『災』では、人が次々に死んでいきます。
そして、その死の場所には、毎回同じ一人の男が関わっています。この「男」を演じているのが香川照之さんです。
どれも警察は自殺や事故として処理していきますが、これらの死体からは髪やひげの一部が切り取られています。
一人の刑事はこれらの事件を連続殺人事件なのではないかと考えて追いかけます。
しかし、これらの死が偶然かもしれないという不安も示唆されつつ、犯人が捕まっていない状態で結末を迎えます。
ミステリーというよりもホラーサスペンス
殺人事件を扱う一般的なミステリーなら、どんな死にも、理由と因果がきちんと描かれます。犯人がいて、動機があって、どんな形で殺したのか。それを捜査がどうやって明らかにしたのか。その全部が明かされたときに、物語は完結します。
『災』も、入口はその形をしていてミステリー要素はあります。人が死ぬたびに、同じ男がそこにいる。同じ男が毎回そこにいることで、ばらばらだった死と死が結びつけられて、殺人事件かもしれないという怖さが生まれるのです。しかし、『災』ではなんでその人の死の真相が全く明かされません。そこに、この映画の面白さがあります。
刑事が拾う手がかりは、本来なら真相へ近づくための階段になるはずです。ところが本作では、殺人の可能性が増えるほど、その人たちの死の輪郭はかえって遠ざかっていきます。そのため、ミステリーというよりもホラーサスペンスの方が近いと思います。
僕は、この『災』で描かれているのは「殺人」ではなく「死」自体だと思います。
人はいろんな不幸を感じながらも一生懸命生きていて、不幸があったあとに幸福が舞い込んでくることもあって、ようやくこれからだというときに不意にそれが死によって断ち切られたりします。『災』ではそれが描かれており、現実の死も同じです。
死は本人が納得したところに訪れるものではありません。言い残したこと、やり残したこと、まだ決まっていないこと。これからだった、というところに舞い込んでくる。その意味で、死そのものが災害でもあるわけです。
だからこそ、観終わったときの感じは「謎が解決しなかった」という不満や物足りなさではありませんでした。
残ったのは、この死を納得できない、という居心地の悪さです。この居心地の悪さを、映画はあえて残しています。
そもそも、ミステリーでは描けない部分があります。
それは、なぜこの人が死ななければならなかったのか、ということです。
なぜ自分なのか、なぜ今なのか、なぜここなのか。
これはきっと、誰にも答えられません。そのような意味で「死」は誰にもコントロールできない部分、超常的といってもいい部分に存在するものです。それは事故的であり、災害的でもあり、「災い」と呼ぶべきものです。ミステリーでは事件としては解決できても、この災いの部分は解決できません。
死んだ側にとっても、その死を喪失として、あるいは不運として受け取る側にとっても、なんで今この人がここで死ななきゃいけなかったのか、というところはどこまでも残ります。犯人と動機と方法が分かっても、多分現実にはここはどうしても埋まらないんですね。
この映画が描いているのはまさにそこだと思います。
死の原因と、喪失を感じる側の納得との間に残される距離です。
そしてこの距離は、決して埋まらないものとして描かれています。だからこそ僕たちは、死を喪失として感じるのかもしれません。
視覚表現が醸し出す死との距離
『災』は、人が死ぬ場面を、近くなりすぎず、かといって遠くなりすぎず、少し距離をとって第三者的に見せます。
カメラの撮り方も、中間的な立ち位置からのものが多く、人物にぐっと寄って表情を見せるのでもなく、遠くから引いて状況だけを見せるのでもない、その間の距離が選ばれています。
死んでいく人に感情移入させて一緒に体験させるわけでもないし、遠くの出来事として眺めさせるわけでもない。出来事のそばにいるのに、その内側には入れてもらえない位置に、カメラが置かれていました。
そしてもう一つ、この映画には、あえて見えにくい部分を画面の中に入れる場面がたくさんありました。
例えば、写真の撮り方に「前ボケ」というものがあります。手前にあるものをぼかして、奥にあるものをはっきり見せる撮り方です。奥にピントが合っているので、見せたいものは見える。ただ、手前のぼやけたものも画面から消えるわけではなく、ぼやけたまま画面の中に残ります。
つまり、はっきり見えるものと、ぼやけて見えないものが、一枚の画面に同居する。観客は奥の出来事を見ながら、その手前にある何かに、ずっと視界の一部を遮られていることになります。『災』は、この前ボケを結構使っていた印象でした。
旅館の取材の場面を見ていて、この前ボケを意識して使っているんだろうなと感じた場面がありました。カメラマンが、インタビューワーに目の前の枝を持っていてもらってその奥の旅館の写真を撮るシーンです。この場面はきっとカメラマンがたぶん前ボケを撮ろうとしていたんだと思います。些細なシーンですが、このシーンのおかげで面白く考察しながら観ていました。
一番印象に残っているのは、香川照之が演じる男が初めて登場する場面です。オープニングの最初の数分間の後半なのですが、男の顔はきちんと映されません。映っているのは、金属の板越しの姿です。その板には少し凹みがあって、凹んでいるので顔が歪んで、どんな人がそこにいるのか分からない不気味な状態になっている。そこに誰かがいることは分かるのに、誰なのかは分からない。
これが災いの「顔」なんだろうなあと思わせる素晴らしい演出です。おお、と思わず唸ってしまいました。
音楽が表現する人の死
映像に加えて、音楽もこの映画の特徴です。
人が死ぬとき、人の声で作られた不協和音が流れます。
ただ、不協和音というだけの音ではありません。そこには、ちょっと崇高さ、神々しさのようなものも備わっています。
崇高さといっても、救済や清らかさという意味での崇高さではありません。人智を超えた、うまく説明できないもの。そういう響きです。
人の死を音楽で直接描くのではなく、命を超えたところにある何かのほうに焦点を当てることで、死を間接的に表現している音楽だと思います。
これも死というものをある程度の距離から描いている絶妙な表現です。
真っ黒な余白
そして、真っ黒な画面が続く演出も面白かったです。
例えば、オープニングの場面のあと、画面が真っ暗になる時間があります。次の場面に切り替わるだろう、と構えているのに、黒い画面がそのまま続いて待たされることになる、異常なくらい長い、黒い余白です。その黒い時間は、まさに人が死んでいる瞬間でもありました。
人が死んでいるらしい時間を黒い画面と一緒に過ごし、暗闇をただ見ている形になります。これはまさに、作品が人の死の真相を隠していて、観客がブラインド状態にされているのですね。
総評
『災』の評価は以下のとおり。
★★★☆☆ 3つ星!まずまずです。
演出や描き方は、とても面白くて勉強になりました。『関心領域』や『シン・ゴジラ』をなぜか彷彿とさせる映画でもありました。表現はどれも好きだったのですが、無常観を出すためか淡々としすぎていて、死んだ後の描写など含めてもう少し物語に起伏があってもよかったのかなと思いました。
なお、「劇場版」はドラマ版を観なくても楽しめますが、ドラマ版はこちらです。
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