芥川龍之介『鼻』のタイトル、なんで『長い鼻』じゃないんだろう?
――同じ対象に、当初はコンプレックスを、結末では個性を感じるわけですから、その対象である「長い鼻」をタイトルに掲げた方が、よりふさわしいのではないでしょうか。
人生は物語。
どうも横山黎です。
今回は「芥川龍之介『鼻』のタイトル、なんで『長い鼻』じゃないんだろう?」というテーマで話していこうと思います。
◆芥川龍之介『鼻』
大学の授業の関係で芥川龍之介の『鼻』を読む機会がありました。以前読んだことがありましたが、改めて読み返し、ふと思ったことがありました。
なんで、タイトルが『鼻』なんだろう?
物語をふまえると、『長い鼻』の方がしっくりくるのではないでしょうか?
物語をおさらいしておきます。
禅智内供というお坊さんは5,6寸の鼻(18センチくらいの鼻)を持っています。そのせいで人々にからかわれ、陰口をたたかれ、内供の自尊心は傷つけられていました。
ある日、医者から鼻を短くする方法を知り、それを実践してみました。見事、鼻が短くなり、もう自分を笑う者はいなくなると思ったのですが、人々は笑いました。
ある朝、目覚めると、短かった鼻が元の長さに戻っていました。内供はもう自分を笑う者はいなくなると思った。
という話です。
◆なんで『長い鼻』じゃないんだろう
はじめ、この物語のメッセージは、「コンプレックスと個性は紙一重」だと考えました。人から笑われる滑稽な鼻を持っていたけれど、短くなった経験を通して、長い鼻を認められるようになった。
自分のコンプレックスは自分だけの個性だと捉え直した物語だと思ったのです。
同じ対象に、当初はコンプレックスを、結末では個性を感じるわけですから、その対象である「長い鼻」をタイトルに掲げた方が、よりふさわしいのではないでしょうか。
ですから、僕は悩んだのです。
何故、『鼻』なのか。
きっとそこには意図があるはず。
◆タイトルが『鼻』である理由
ぶっちゃけると、今回の記事、僕は『長い鼻』の方がいいタイトルだと思います!という結論にしようかと思ったんですが、記事を書いているうちに、「ん、待てよ、これってもしかして、こういうこと……?」という風に、頭の中が整理されて、ぼんやり答えを見つけることができました。
というわけで、進路変更です。
どうしてタイトルが『鼻』なのか。『長い鼻』ではなく『鼻』なのか。僕なりの考えを語っていこうと思います。
結論からいうと、「この物語は、コンプレックスの話ではなく、欲望の話だから」です。
内供は、短くなった鼻に対して「もう誰も哂うものはないにちがいない」と心の中で呟きます。ここには納得できます。もうコンプレックスによって自尊心を傷つけられることはないと思ったのです。
しかし、元の長い鼻に戻ったときも、同じように「もう誰も哂うものはないにちがいない」と呟いているのです。もし、これがコンプレックスを克服し、個性として受け止める物語ならば、別の表現をしたはずです。
長い鼻をみんなに哂われた。
そのせいで自尊心が傷つけられた。
↓
(鼻が短くなる)
↓
誰かに哂われたとしても、自分の長い鼻を受け入れる。
これが、個性の物語にふさわしい内供の姿勢の変化です。
しかし、内供は同じセリフを吐いているのです。「もう誰も哂うものはないにちがいない」と言っているのです。
つまり、
「鼻が短くなった」=「コンプレックスがなくなった」
「鼻が元の長さに戻った」=「個性と認めた」
ではなく、
「鼻が短くなった」=「自尊心が傷つかなくなると思った」
「鼻が元の長さに戻った」=「自尊心が傷つかなくなると思った」
なのです。
鼻が短くなったときも、元の長さに戻ったときも、「自尊心が傷つかなくなると思った」から、「もう誰も哂うものはないにちがいない」という同じセリフをささやいているのです。
したがって、「長い鼻」に対する認識を改めた物語と解釈するのは少しずれていて、長い鼻に「短くなってほしい」と、短い鼻には「長くなってほしい」と、渇きを知らない欲望を描いた物語なのです。
そう考えると、『長い鼻』ではなく、『鼻』の方がふさわしいですよね。
みなさんはどのようにお考えでしょうか?是非、コメント欄で教えていただければなと思います。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
【#329】20220525
