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第17章 カナの花嫁と花婿

『イエスという人の物語』
ホセ・イグナシオ・ロペス・ビヒル、マリア・ロペス・ビヒル 著
聖書を読んでピンとこなかった人やイエスの人間臭さに触れたい人に向けて語られたイエス・キリストの物語。南米で大ブームになったラジオドラマの邦訳(祐川郁生 訳)を音声で聴くことができます。

※本章は、聖書のヨハネ2章1〜11節について述べています(末尾をご参照ください)。


イスラエルの婚宴

イスラエルでは、婚宴は七日間に及ぶ。ぶどう酒はもっとも好まれた飲み物であり、婚宴には欠かすことのできない必需品であり、また、愛のシンボルでもあった。赤ワインが一般によく飲まれていた。婚宴の間は、大いに食べ、飲み、そして踊った。その年の待ちに待ったイベントとして、1週間にもわたるお祝いを期待して来る客たちを失望させないために、十分な食料とぶどう酒が用意されなければならなかった。

貧しい人々にとっては、婚宴は花婿の家庭に多大な経済的負担を負わせた。通常、贅沢で壮麗な祝いとして描写されるカナの婚宴ではあるが、実際には、イエスとその友人たちが属する貧しい人々の間で行われたことを忘れてはならない。オリエントの民族的なお祭りの時であり、興奮と喜びの時であった。

パオロ・ヴェロネーゼ作『カナの婚礼』

宴会のシンボリックな意味

婚宴の意味

ヨハネによる福音書だけが、カナの婚宴の物語を描いている。その福音書のスタイルや構造では、出来事が全てシンボリックな意味に包まれていて、イエスのメッセージの神学的なまとめとなっている。イスラエルの伝統、つまり旧約聖書に書かれている預言書や詩編では、メシアの到来は婚宴とたとえられている。

水とぶどう酒

メシアの宴では、ぶどう酒が豊富に供される(イザヤ書25章6節)。カナでは、イエスは水をぶどう酒に変えた。すなわち、水はユダヤ人の律法における清めを象徴している。「清め」とは、律法を遵守することによって救いを得られるという理解、外面的な規範に忠実であることをよしとする宗教観である。

そのような考え方はイエスによって終わりを告げられる。水がぶどう酒に変えられる。それは、イエスが告げた神の国の到来のしるしである。ぶどう酒は人々の心が解放され、共に分かち合い、自分を差し出すことで、神と一つになるというイエスの愛の生き方を祝うシンボルである。だから、この物語は奇跡という文脈ではなく、神の計画の告知として読んだ方が良い。貧しい者たちの宴の日、終わりのない祝宴が到来したのである。そのとき、神は乾杯のぶどう酒を切らすことなく注ぎ続けるのだから、その喜びは永遠に続くはずである。

神がいる場所

イエスは広い心の持ち主で、明るい性格であった。友人たちと歌い、踊った。単なる傍観者としてではなく、人々の中に入って祝いの席を共にしていたのである。むしろ参加者の一人として楽しんでいたのだ。神に出会うために、神殿や静かな場所に行く必要はない。神は喧騒の只中にもおられ、宴会したり踊ったりしている間にもおられるのだから。神は宴会を催す側である。婚宴を神が供する神の子の宴というように、イエスは再三たとえている。

マリアの役割

マリアがこの場面で人々の願いをイエスに取りなしたことは、神からの愛を受けるためにはマリアの取りなしが必要だという神学的な考えを後押しするのに用いられてきた。つまり、マリアがイエスへ、イエスが神へ取りなすことが必要だというような考え方である。一方で、キリスト教の伝統では、神と人間の仲介者はイエス・キリストだけであり、しかも復活を通してそれが成し遂げられたと教えられている。

カナの婚宴でのマリアの存在、またマリアの取りなしは、シンボルでもある。忠実なイスラエルの民を代表するマリアが、「もうぶどう酒はありません」と石で作られた水がめの中が空であることを告げた。石の水がめは石の板に刻まれたモーセの十戒(律法)を象徴している。つまり、律法は価値を失い、意味のないものになったというのである。

日常の中に起こりうる奇跡とは…

マリアの人生がイエスの人生と同じように、市井の中の日常にあったこと、隣人たちの嘆きや喜びを共にしていたことにも注目したい。マリアはでしゃばることなく、奇跡的な「しるし」の証言者となる。

ヨハネによる福音書の中で、「奇跡」という言葉は常にギリシア語の「セメイオン」(しるし)という語を用いている。この言葉は、この奇跡的な行為が単なるスペクタル的な不思議な出来事に還元されないような糸口となるかもしれない。聖書において、奇跡は神が人類を罪から、恐れから、死の悲しみから解放し、自由にすることの「しるし」である。

イエスの奇跡についても、何か非日常的なことが起きたか起きなかったかというところに注目するのではなく、その「しるし」が何を指し示しているのか、それによって何から解放されたのか、また現代の我々にとってどんな意味になりうるのかを、考えることが必要である。

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

ヨハネによる福音書 2章1〜 11節

本文は、「イエスという人の物語」章末の解説に依っています。


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