中に/向こうに、何かが/誰かが、いる/ある、という感覚について
今回の記事は「「自分」という言葉と自分」と緩やかにつなげてあります。
お急ぎの方は「まとめ」からお読みください。
自分であるはずなのに自分ではないもの
経験はないのですが、鏡の前でお化粧をするさまを思いうかべてみます。鏡の中にある像を見ながら、肉眼では見えない自分の顔を手探りでいじっていくにちがいありません。
目の前に見えるものと自分の指で触れているものが、ずれているのです。
そのずれを言葉にしてみます。
・目の前にいるのは、指で触れている自分であるはずなのに、その自分ではない。
・目の前に映っているのは、指で触れている自分であるはずなのに、その自分ではない。
・目の前に映っている自分そっくりな像は、指で触れている自分であるはずなのに、その自分ではない。
*
ずれは、それだけではない気がします。鏡を前にしたまま、目を閉じてみたときに感じるずれです。
・指が触れている自分は、指を動かしている自分とは別なような気もする。
・指が触れている自分は、指を動かしている自分であるはずなのに、別々なような気もする。
ややこしいですよね。
三つの自分
図式化してみます。
1)鏡に映っている、自分の顔を指で触れている自分。自分の鏡像・虚像。目に見える自分。
2)自分の指で触れられている自分。自分の指の触覚の対象としての自分。自分の指で触れられているさまを見ようと思えば見えるが、目を閉じても感じられる、指で触れられている側の物としての自分。
3)自分の指を動かし、その指で自分を触覚している自分。そのさまは目に見えるし、目を閉じても感じられる、指で触れている側の意識としての自分。
もっと簡略化してみます。
1)鏡像としての自分。
2)指で触れられている自分。
3)指で触れている自分。
要するに、三つの自分がいるのではないかという話なのです。あくまでも話です。与太話と受けとめていただいてもかまいません。じっさい、そうなのだろうと私も思うときがあります。
一方で、わざわざ記事として書いているわけですから、本気でもあります。
顔、顔面、面
お化粧をする習慣はないものの、鏡を前に自分の顔に触れてみるだけなら、自分でもやることがあります。
鏡の前では、顔面が鏡面に向うわけです。面が面に向う。face to face。
人が何らかの面に対する場合には、たいてい、顔面をその面に向けます。
紙面がそうです。文字を読むとか、文字を書くときには、顔面を紙面に向けます。
いま――目下とも言います――私の目の前にある画面もそうです。最近は、紙面よりも画面での読書が増えて、紙面に書くよりも画面に向って文字を入力するほうが多いです。
あいだに「何か」が「いる/ある」
紙面、画面、鏡面――。
目の前にある面とは、自分の外にある「何か」であるとも言えます。それなのに、人は紙面や画面や鏡面に目を向けるときには、心がその「何か」に向いているし、もちろん視線もその「何か」に注がれています。
ある種の分裂が起こっているのかもしれません。心(意識)と身体(視覚)、自分と「何か」(対象・相手)、「こっち」と「あっち」という具合にです。
*心(意識)と身体(視覚) :自分の中での分裂
*自分と「何か」(対象・相手):自分の心と身体が対する(向かう)外での分裂
*「こっち」と「あっち」 : 同上
*
上の図式をまとめると、次のようになるかもしれません。
*心(意識) ⇔ 身体(視覚) ⇔ 対象
心(意識)をいわば「中の人」と見なせば、対象との「あいだ」に身体(視覚)が「いる」と考えられるかもしれません。
あいだに「何か」が「いる」、という感覚です。「何か」は自分の一部ですから「いる」という感じ。
*「こっち」 ⇔ 「あいだ」 ⇔ 「あっち」
紙面、画面、鏡面において、「こっち」と「あっち」の「あいだ」にあるのは境界でしょうか。「さかい」です。何と呼ぶにしろ、自分の一部ではありません。
あいだに「何か」が「ある」、という感覚です。
*
紙面と画面と鏡面は、数ある面の中でも特に目線と意識が注がれる対象になりますが、そんな面ばかりがあるわけではありません。
壁面、床・地面、天井、窓ガラス、眼鏡……。それほど視線を注がれたりしない面もあるし、まったく注視されない面(見えないようにつくられているからですが)もあります。
いずれにせよ、誰もが面に向う日々を送っていることは興味深い事実だと思います。そういうことが気になる者もいます。ここにもいます。
顔面には目がありますが、目があるからこそ面に顔面を向ける気がします。だから、面というものは視覚と親和性が高いのでしょう。
・面:メン
おも・おもて・つら
・おもて【表】
【一】(「おもて(面)」と同語源)物事の、人の目にふれる部分。また二面ある物事のうち、人目につく面。⇔うら。
・おもて【面】
(「おもて(表)」と同語源)。
一 顔。顔面。顔だち。おも。
「中に/向こうに」「何かがいる/誰かがいる」感覚
さきほど上で述べたことを引用します。
「こっち」 ⇔ 「あいだ」 ⇔ 「あっち」
紙面、画面、鏡面において、「こっち」と「あっち」の「あいだ」にあるのは境界でしょうか。「さかい」です。何と呼ぶにしろ、自分の一部ではありません。
あいだに「何か」が「ある」、という感覚です。
引用した部分を読んでいると、なんだか懐かしい感覚がよみがえってきます。
絵本、図鑑、本、幻灯、映画、テレビ、パソコン、スマホ、ゲーム機――。
上の場合の「あいだ」とは、紙面、画面、鏡面なのですが、これは平面としてとらえるから面なのであって、現実には本やスクリーン(暗い場所にある幕)や機械という物であり、立体物なのです。
*
見る者の印象としては、そうした物の中に何かが「ある」というよりも、何かが「いる」、場合によっては誰かが「いる」のではないかという、懐かしい、わくわくどきどきする感覚の記憶がよみがえってくるのです。
・何かが「ある」
・何かが「いる」
・誰かが「いる」
上で「懐かしい、わくわくどきどきする感覚の記憶」と書いたのは、人にとって世界は「誰かがいる」からにほかなりません。だから、言葉をつかうのです。
言葉とは同類である人と話すためにだけあるのではありません。自分にとって他であり異である存在の森羅万象に息や唾を掛けるかたちで、呼び掛け、話し掛けるためにあります。
人の世界は森羅万象に呼び掛ける「あだ名」だらけではありませんか。
あだな【渾名・綽名】(「あだ」は「他・異」の意)
①本名とは別に他人を親しんで、またあざける気持ちから、その容姿・性質・くせ・挙動などの特徴によって付けた名。
以下の語義にある「その容姿・性質・くせ・挙動などの特徴によって付けた名」が当てはまります。
ナマ○モノ、サ○ノコシカケ、ゾ○リムシ、○そり座・スコ○ピウス、ア○ウドリ……。
どれもヒト目線のネーミングです。ヒトの言葉ですから、当り前と言えば当り前ですが、申し訳ないと言えば申し訳ない気持ちがします。
私の好きな言い方をすると、擬人とか、擬人を基本とする呪術です。⇒ 「決めた「同じ」、はかった「同じ」、はかられた「同じ」」
広義のプレイ(play)
擬人を基本とする呪術という言い方に抵抗を覚える方がいらっしゃるのは承知しております。
辞書で「呪術」を調べると、語義の説明に、たとえば「超自然的存在や神秘的な力」や「魔法」や「魔術」という言葉がつかわれている(広辞苑)のも知っています。
では、「魂」はどうでしょう? さらには「振り」はどうでしょう?
私は魂と振りという言葉を次のイメージでつかっています。ご覧のように、私のイメージする魂と振りは近くて、重なる部分も多いです。
・魂:
感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に自然物に宿る。人工物に宿る場合もある。何かに魂が宿るかどうかは、人が個人で、または集団で決める。信じるもの。
・振り:
感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に人工物が演じる。自然物が演じる場合もある。何かが振りを演じているかどうかは人が見てしまう(感じてしまう)。広義のプレイ(play)。
(拙文「人と同じ」より)
*
引用文に広義のプレイ(play)という言葉がつかわれていますが、わりとニュートラルなイメージを持つかもしれません。とはいえ、語感や五感は人それぞれです。人のあいだに互換性はないように思います。
「振りをする」というのは、広義のプレイ(play)だと言えそうです。以下に、私なりのプレイのイメージを挙げます。
・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。
プレイ(play)は振りからなる行為ですが、その振りの基本には「であるのにでない/でないのにである」と「あるのにない/ないのにある」があると感じています。簡単に言うと「あるをない/ないをあると演じる」のです。
なお、振りは「こうやってやるんだよ」と振りを教えて、振りを付ける、振付けをするものです。振りは真似て学ぶもの、つまり引用して伝わるものだと言えます。
*
とはいうものの、人には真似たり学ばなくても、つまり教わらなくても、なんとなくできてしまう振りもあります。
教わらないとできない振り、教わらなくてもできてしまう振り
二つに分けて説明します。
*教わらないとできない振り
・「猫」という文字
・「猫」という言葉(音声)
・「猫」というもの(事物)
文字と言葉と事物の三者が同じだと教わるのが教育です。というか、これがあらゆる教科の基本であり前提になります。
現在は学校が主たる教育の場になっています。そこでは、文字と言葉と事物が同じであることを体系的に、組織的に、そして効率的に教えるのです。
とはいうものの、「みなさん、文字と言葉とものは同じなんですよ。次のテストに出ますから、よく覚えておいてください」なんてふうには教えません。
結果的に、そうなっている感じではないでしょうか。
つまり、みんながそういう振りをしているのです。深くは考えないのが普通でしょう。もちろん、普通ではない考えの人もいます。ここにも、年食った者が一人います。
*教わらなくてもできてしまう振り
・写った像(印刷物や写真)と映った像(映画・テレビの映像・液晶画面に映る映像)。複製。
・現物・実物・本物。オリジナル。
うつった像とその現物や実物は、教わらなくても同じだと体感できます。
かといって、「ここに映っているものと、あれとは同じだよね」「そうだよ、同じだよ」みたいな会話は、あまり現実的ではない気がします。
現実にそうした言葉が交わされたとしても、あるあるみたいに頻繁に起きるとは私には考えられません。
この体感は、いちいち口にしたり文字にすることでもないほど、ありふれ化しているし、当たり前化もしていると考えられます。
つまり、みんながそういう振りをしているのです。
*
「これとあれは同じに見えるけど、これはうつっているもので、あれは実物というか本物なのだ、うんうん」なんていちいち思ったり、自分に言い聞かせているとは、私には考えにくいという意味です。
うつっているものと本物や実物とは同じとは言えないけど、同じものとして見なされている振りを、みんながしているのです。たぶん。
「たぶん」と書いたのは、誰かに面と向かって尋ねたことがないからにほかなりません。私にはそんな勇気はありません。
いくらまわりから変人と見られていても、です。そんなことを誰かに言ってご覧なさい。変人や偏屈では済みませんよ。絶対に。
そっくりではないけど同じ、そっくりだけど同じではない
どうやら、人の世界には、「そっくりではないけど同じである」という振りと、「そっくりだけど同じではない」という振りがある、みたいです。たぶん。
これも人に言ったことがないので、「たぶん」としておきます。私はこう見えても小心者なのです。
*
・そっくりではないけど同じ:
文字と言葉(音声)と事物。
教わる。知識。決まり。暗黙の了解。ルール。慣習。制度。掟。
・そっくりだけど同じではない:
写った像(写真)と実物。映った像(映像)と実物。
視覚。体感。暗黙の了解。習慣。習性。
現在、液晶画面で人が飽きもせずに眺めているのは、文字と映像ではないでしょうか。この現象は、いろいろな名称で呼ぶことができるにちがいありません。
それはともかく、そうした行為と行動をしていることは事実であり、それがいちばん大切だと私は思います。
*
ところで、文字と言葉(音声)と事物が同じだというのは習慣である、ということが、なかなか理解されないのは事実です。
「違うの? 同じでしょ。普遍の真理って、まさにこれですよ」とか「猫は猫。猫という文字も猫という言葉も猫という実物も、ぜんぶ猫なの。世界中で同じなの」――そんな声が聞こえてきそうです。
私は最近被害妄想がひどくて困っています……。
・「猫」という文字
・「猫」という言葉(音声)
・「猫」というもの(事物)
確かにそうです。ここでは。
でも、ကြောင် や قطة や кошка や cat という例も世界にはあるそうです。cat を除いて、その発音は知りません。
しかも、この四つのなかには、普通は左から右へではなくて、右から左に書く文字もあるそうです。どれなのかは忘れました。
*
つまり、大切なことは、
「猫」という言葉と文字は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている、
というのは、世界の一部の人たちだけの話というか、習慣だと言えそうです。
*
文字と音声は異質なもの、つまり別物です。各言語でルールとして(規則性をもって)ペアが選ばれて、両者が同じだと決められているだけです。
規則性は必然性ではありません。混同しやすいことは確かですけど。規則や規則性は、むしろ習慣や習性です。
誰もが規則と習性に縛られています。ひょっとすると、必然性よりも、必然っぽいかも。
規則や慣習が必然や宿命に感じられると喜劇や悲劇や惨劇が起こるので要注意です。戦争がいい例だと思います。
(拙文「よそは、うちにもいる」より)
*
とはいうものの、文字と音声と事物を同じと見なす仕組みは人の世界では不動のものとして働いています。
言葉と文字は、事物ではなく、事物に似ていないにもかかわらず、事物だとされて、事物としてまかり通っている、
というわけです。
*
話を戻します。
現在、液晶画面で人が飽きもせずに眺めているのは、文字と映像ではないでしょうか。
人の世界では、文字と映像のうつっている面の向こうには、またはその面の付いた物の中には、何かがいたり誰かがいるのです。
だから、飽きもせずに、人はそうした面や物を眺めているし、話し掛けたりするし、(文字を介して)対話したりしていると考えられます。さもなければ、なんで眺めているのでしょう?
まとめ
今回のまとめをします。
*
・絵本、図鑑、本、幻灯、映画、テレビ、パソコン、スマホ、ゲーム機。
・紙面、画面、鏡面。
・本やスクリーン(暗い場所にある幕)や機械という物であり、立体物。
・平たい面の向こうに、立体の物の中に、何かが「ある」、何かが「いる」、誰かが「いる」という懐かしい感覚。
懐かしいだけでなく、いまもいだくわくわくどきどきする感覚。
*
だから、呼び掛け、話し掛けるのです。また話し掛けられもするのです。あかちゃんも、こどもも、おとなも。
人だからです。もしも、呼び掛けて話し掛けなくなったら、また相手の声が聞こえなくなったら、人ではなくなるかもしれません。
恥ずべきことでも、恥ずかしがることでもないのです。
見える世界、見なす世界、振りの世界、ふれる世界
広義のプレイ(play)を「見る・見える」に絞って考えてみると、「見なす」という言葉とイメージが浮んできます。
・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。
みなす【見做す・看做す】
①(実際はそうでないと知った上で)それとして見る。見立てる。
②(実際はどうであるかにかかわらず)そういうものとして扱う。同類と考える。
人は「見える世界」ではなく「見なす世界」に生きている。そんな気がしてなりません。
・そっくりではないけど同じだと見なす(文字・記号)
そっくりでないし同じでないと見なす(文字・記号)
・そっくりだけど同じではないと見なす(写/映した影・像)
そっくりなだけなのに同じだと見なす(写/映した影・像)
そんな「見なす世界」に生きているのです。「見なす」のですから、「振りをしている世界」とか、「演じている世界」とも言えます。
*
ただし、演技である振りの基本には「であるのにでない/でないのにである」と「あるのにない/ないのにある」があります。そのために、体感と習慣、知覚と知識でのあいだでの行き来・迷い・揺れがあることを忘れてはなりません。
・そっくりではないけど同じだと見なす ⇒ ときどき振れる
そっくりでないし同じでないと見なす ⇒ ときどき振れる
・そっくりだけど同じではないと見なす ⇒ ときどき振れる
そっくりなだけなのに同じだと見なす ⇒ ときどき振れる
そっくりなだけでなく同じだと見なす ⇒ ぶれない?
振りは、ときに振れる(偏れる・狂れる)・ぶれるのです。だから、人は振りに振りまわされるのかもしれません。
