【小説】……だけ(01)
〇月〇日
ままならない。この言葉の意味がいまほどわかる時はない。現実はままならない。夢もままならない。いまの僕には体はないけど、人にとって体は究極のままらないではないだろうか。人の体には脳や思いも含まれている。それがふつうの体だ。体のないいまの僕にとっては、現実と夢と思いがすべてなのだが、それがないに等しく思えてくる。ままならないものは、ないに等しい。
わかるだろうか。僕の体はどこかにある。そのどこかがわからない。体があったときのことを思いだそうとしてみる。体はままならないものだった。病気にもなるし怪我をするし老化していく。体は限界の内側でしか動かない。空を飛ぶわけにはいかない。僕がいまこうなっているのは、僕の体がままならないものだった結果にちがいない。体は脆いんだ。壊れやすい。
ひょっとして、年を取って衰弱していくとか、若くても死に近づくのは、こういうことなのかもしれない。だんだん記憶力が衰えていく。気のせいかもしれないけど、どうやら本格的に機能しなくなっているようだ。まず、覚えているはずのことが思いだせない。新しい知識が頭に入らない。言葉が出ない。この言葉が出ないというのは、言葉を探しているうちに何を探していていたのかわからなくなるという意味だ。
こうなってくると記憶力の問題だけはない気がする。認識力とか認知力の衰えなのだろうか。記憶だけが独立しているはずはない。そう考えると心もとない。寂しい。僕は言葉だけで存在してるようなものだから、自分の書いている文章が乱れてきたとなると、気になるし恥ずかしくてならない。自分の顔や身なりが気になるのと同じだ。顔と体があるなら鏡に向かって確かめることができるけど、文章については判断が難しい。
文章を読みかえすことはできる。でも、この文章がちゃんと書けているかどうかはわからない。君に宛ててメールを書いているとはいえ、アウトプットだけでしてリアクションがないからね。ふと思ったのだけど、もしいまのこの状態で僕に体があったとしたら、自分の顔を正しく認識できるだろうか。僕に見えるのは、どうやらネット上の映像だけらしい。「見える」と書いたが、これが本当に「見えている」のかどうかも疑わしい。
いま書いているこの文章は読める。読めるのだが、果たして目で見ているのかどうかとなるとまるで自信がないのだ。体と同様に自分の脳と体がどこかにあるという気はする。それは確信に近いものなのだけど、確信といってしまうと、かえってその気持ちが弱まるようで、僕は警戒してしまう。この用心深さは迷信に似ている。こんな不可解な世界にいるくせに迷信を持ちだす僕を君は笑うにちがいない。何をいまさらという感じだよね。
ごめんね。話が飛んでいるだろ? 支離滅裂だろ? そうだろうと思う。でも、そうかどうかはわからない。リアクションがないからだ。君に宛てたメールを書いているとはいえ、差出人不明でメールが返ってきているかどうかも不明なのだ。
でも、こうやって言葉だけがリアルである環境にいると、言葉の持つ力を軽視するわけにはいかない。言葉って人を超えた存在じゃないのかな。ここだけじゃなく、そっちでも。たぶん、そっちにいると言葉の持つ重さとか暴力性とかざらざらした異物性は感じられないのではないだろうか。そっちには体があるし現実があるからね。
言葉の重みを感じたとしても一時的なものであり、すぐに忘れてしまう。そして言葉なんてちょろいという無意識の思いにとらわれているにちがいない。それに対して、こっちは言葉しかないんだ。こっちは言葉の重みの中にいるんだ。
話が飛んでしまったから戻そう。自分の脳と体がきっとどこかにあって、痒かったり痛かったり何かに触れた感じがするのは、その脳と体にある知覚器官と神経が知覚しているのではないかと考えている。遠隔操作みたいなものかもしれない。遠隔操作というけど、操作する側と操作される側の距離は何センチであっても何万キロであっても大差ないんじゃないだろうか?
遠隔診療とか遠隔手術という言葉があるね。ネット上で検索すれば、その現場を撮影したり、イメージとして作成した映像がたくさんヒットする。そういう画像や動画を見ていて感じるのは、隔たってさえいればその距離の長短の程度は関係ないということだ。
操作すると操作されるとのあいだにある物理的な長さには大した意味はなく、むしろそのあいだにどれだけの障害や壁があるかが重要だと僕は思う。その障壁こそが距離なんだ。僕の場合には、知覚器官と脳のある場所と、知覚を意識している場所とのあいだにある障壁は途方もなく大きい、つまり距離はとてつもなく隔たっているようだ。なにしろ、僕には脳と体のある場所がわからないのだから。これほど大きな障壁はないのではないか。
僕は自分の脳と体を見ている夢をよく見る。その脳と体が置かれている場所のことなのだが、一定した場所ではないにもかかわらず、共通する部分があるから、ときどきそれが実際に見た場所の記憶のように感じられてならない。
〇月〇日
ここにいると、君と僕との間に起きた出来事が記憶ではなく小説のように思われてくる。僕がこうやって過去の出来事の記憶を言葉としてつづっているせいだろう。書かれた記憶は、まるで小説のようだ。自分の書いた文章を読み返していると、いったい誰が書いた物語なのだろうと不思議な気持ちになることがある。たしかに書いたのは僕だ。書いた記憶があるからね。ただいったん書きとめられ文章となった出来事の記憶を読み返すと、はたしてその文章は僕が本当に書いたのだろうかという思いが頭をもたげてくる。そういうときの僕はひどく疲れているのだ。
体がないのに疲れるのはおかしいと人は思うにちがいない。でも疲れるんだ。頭だけになった、いや正確に言えばおそらく脳か意識になったらしい僕なのに疲れは感じる。眠くもなる。そして眠りに落ちる。夢を見る。夢を見ない眠りもある。夢を見たのを覚えていない場合もあるにちがいない。そして目覚める。ここはどこ? 寝覚めが悪いと、決まってそう思う。少し考えて、ああいつものここね、とつぶやき、諦めとともに完全な覚醒を待つ。すっかり目が覚めると、ネット内をあちこち歩き回るか、考えごとをする。
考えごとばかりに耽っていると収拾がつかなくなっていらいらするから、こうやって思いを文書にする。言葉はその時々の思いや感情を文章という形で固定するから、支離滅裂になりがちな僕の思考を抑制しなだめてくれる。書かれた言葉を眺めていると不安が消えて気持ちが安定する。そんなわけで、文章を書いているときがいちばん生き生きする。いったん書かれた文章には妥協するしかない。いじり出すと収まりがつかなくなるからね。最近よく考えるんだけど、ただ書いているだけでは駄目だ。ただひとり言を書いているのと、君に宛てたメールを書いているのとは雲泥の差と言っていいほど違う。君に話しかけるとき、僕は幸せを感じる。
書くのに疲れると、例の感情に支配される。これは誰が書いた文章なのだという疑問だ。自分が自分以外の誰かの書いている物語の中にいるような居心地の悪い気分だ。いっそのこと自分が架空の存在だったらどんなに楽かと思うことがある。そんなときには自分を突きはなして見つめている自分を感じる。自分は突きはなされているのだけど、何か大きな存在に身を任せている安心感がある。
