見入る、魅入られる、見入られる
今回は「鏡がある限り、文字がある限り」の続きです。
文字、映像、鏡像
文字と映像と鏡像――。この三つは私にとって不思議だし不可解なものです。それでいて、当り前のように毎日目にしています。
*文字
文字であれば、紙面上の文字を見るのが主流だった時代がかなり長く続いていたようです。それが、それほど前ではない時期から画面で見るのが当り前になり、いまに至ります。
かつては印刷物として写っていた文字が、いまでは液晶画面に映っているのです。
・文字を手で書いて写す(書写・筆写・写経・写本)。※さらに言うと、こうした文字は物としてあるから移す(移動させる・運ぶ)。
↓
・文字を道具や器械や機械をつかって写す(印刷・電報・テレックス・複写・コピー機?・ファクス?)。※基本的に文字は紙面上にあるため、移す(移動させる)が続いている。
↓
・文字を紙面や画面に映す(フォトコピー?・コピー機?・ファクス?・テレビ放送・ワープロ専用機・パソコン・携帯電話・スマホ・タブレット)。※ここまで来ると文字は、もはや物ではなくデータ(情報)である。つまり、映すしかない。
(※「?」の付いているものは、紙に写しているとも、ある種の撮影という意味で映しているようにも思えるという意味です。)
まとめます。
手で書いて写す(移す)⇒ 道具や機械で写す(移す)⇒ ネットに接続された機械で映す(ネット上でほぼ瞬時に同時に投稿=複製=拡散=保存される・見入る=見入られる)
*映像
映像はと言えば、比較的新しいもののようです。大昔には絵として描かれていたものが、広義の像だったと言えるのかもしれません。
この絵というか像が、文字のように手で描き写すものから、光学的な器械や機械による撮影によって、紙に写したり、画面に映したりするものへと進化していったと言えそうです。
粗雑というか曖昧な言い方で申し訳ありません。
とにもかくにも、いまではスマホやタブレットやパソコンの画面に長時間見入る人たちがたくさんいる時代に、私たちは生きています。
長時間飽きもせずに見入っているのですから、魅入られていると言ってもかまわない状況になっているわけです。
*鏡像
鏡と鏡像について言えば、これは大昔から、あまり変わらない気がします。
瞳(相手の瞳のことです、一種の鏡ですよね?)、水面、金属製の鏡、ガラス製の鏡、ガラス以外の鏡……。
こんな感じでしょうか。もっとも、カメラ(アナログ ⇒ デジタル?)での自撮りを鏡だと見なさないでの話です。自撮りの経験はないので、ここでは触れないでおきます。
見入る
「みいる・見入る」を複数の国語辞典で調べてみると、現代の日本語では、
①見つめる。見とれる。
②取りつく。魅する。
という二つの語義が定着しているようです。
②の場合に「魅入る」とも表記され、その例文として「悪魔に魅入られる」がよく出てきます。決まり文句と言えそうです。
*
私たちは画面に見入ると同時に、魅入られてもいる――。これは決して誇張でも皮肉でもないだろうと私は思います。自分を観察していると、その思いは確信になります。
見入るとき、見えないものに魅入られる
私たちが文字と映像と鏡に見入るときには、見えないものに魅入られている(取り憑かれている)――。そんな話というかテーマについては以前に「鏡がある限り、文字がある限り」で書いたことがあります。
要約してみます。
*文字
私たちが文字に見入るときには、目の前には見えていない意味や解釈やストーリーや光景や意図を追い求めている。つまり、目には見えないものに魅入られている(取り憑かれている)。
つまり、目は文字を追いながら、そこには見えていない(紙面や画面に見えるのは文字だけ)、比喩的に言うなら、文字の向こうにある意味や解釈やストーリーや光景や意図を、心や意識が追っている――。このように言えば、分かりやすいかもしれません。
文字を読みながら人がいだく意味も解釈もストーリーも光景も意図も、目には見えません。各人の頭の中だけにあるものだから当然です。人によって、いだくものも異なります。
*
目に見えないからこそ、文章の意味や解釈やストーリーや光景や意図をめぐって、ああでもないこうでもない、ああだこうだ、とすったもんだが絶えないのです。
そうやって、誰もが自分の中にある、見えないものを他人に押しつける。「ちょっと、あなた、愛(or 平和 or 正義 or 真理)とはこういうものなの」、「これはそういう意味ではない」、「それは誤解というより誤読です」、「そんなこと書いてないでしょ」、「ちゃんと読んでる?」
文字は見えるのに、意味は見えないから(各人の頭の中にしかないものだから)、すったもんだが起きます。
すったもんだどころか、争い、紛争、そして戦争まで起こるのは残念だし情けないし悲しいことです。
こんなことをやっていれば、愛(or 平和 or 正義 or 真理)とは何なのかは、力関係(権威・権力・武力)で決められるのではないでしょうか? 現にそうなっている気がします。
人類の歴史は、そういうふうに進んできたようです。
*映像
私たちは映像に見入るときには、いまその時、目の前には見えていない世界を見ようとしている。つまり、目には見えないものに魅入られている(取り憑かれている)。
だから、しきりにスクロールしたりスライドしたり、タブやサイトやアプリを変えながら、長時間映像に見入る。できるだけ長く全体を、そして続き(世界)を見ようと焦る。もっともっと長く、できればすべて(世界)を見たいと願う――。このように言えば、分かりやすいかもしれません。
「全体」「続き」「すべて」(どれもが「世界」と同義です)など見えるわけがありません。
*
人の目にする空間的な枠は限られていて、一度に見える範囲は有限どころかきわめて狭いのです。「いまここ」の「ここ」だけと言えば分かりやすいかもしれません。
それは人が小さな存在だからに他なりません。人は自分が考えるよりずっと小さいのです。
時間的な枠も限られています。人が一度に見えるのは「いま」だけなのです。
「いまここ」だけの枠で、世界が空間的も時間的にも掬えるでしょうか。「いまここ」をどんなに更新したところで、死すべき存在である人間が世界を掬い取れるわけがありません。
*
人が「世界」と言うとき、それは「界隈」なのです。世界(ぜんぶ・全体)を見た人なんていません。一生かかっても無理です。
界隈(身のまわり・一部)だけしか見えないのです。
「○○界隈」という意味で「○○の世界」(ある特定の分野・専門領域・テリトリー・縄張り)という言い方がありますが、その界隈も世界的規模で考えると広いだろうと思います。
テリトリー[territory]
①領土。領地。
②受け持ちの区域。専門の領域。
③動物のなわばり。
「なわばり」は「縄張り」と書くとイメージがくっきりと見えます。ヒトの言う「世界」とは、「うちらの縄張り」のようです。
世界地図を見ると世界が縄張りであることが見えてきます。実際にはない線が引いてあるからです。
*
世界地図が世界よりもはるかに小さいものであることを思いだしましょう。地図には縮尺というものがちゃんと付いているではありませんか。
世界地図を見て世界を見ていると言うのは、事実誤認というか錯覚というか、言葉の綾にほかなりません。平面でもありますし。
世界のニュースや世界史というように、「世界の○○」とか「世界○○」というのは、すべて言葉の綾だと私は思います。
*
見えない線が世界地図には引いてある。見えないはずの世界が地図と称して見えるかたちで存在している。
世界では「ない」のに世界で「ある」振りをしている。
「ない」のに「ある」振りをしている。誰もそれを疑わない。(※あとで触れますが、世界では「ない」のは知っているのです。知っていて忘れた振りをしている。つまり、すっとぼけている。)
あるのにない
ないのにある
であるのにでない
でないのにである
これが振りをするという行為の基本型です。
(拙文「であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある」より)
*
界隈の隈は、すみっこです。私たちは世界に住んでいるとも言えますが、隅っこに暮らしているとも言えます。
隅っこにいて世界を見ようと、しきりに画面を人差指でスクロールやスライドしている。自分を見ているとそんな気がします。
かつてしきりに人差指で紙面をめくっていた自分と重なります。同じことをしているのです。
*鏡像
鏡については、「鏡がある限り、文字がある限り」から引用します。
どうして、私たちは鏡の前に立つのでしょう? どうして、鏡を覗きこむのでしょう?
自分が見えないからだと思います。自分の姿を直接見た人はいません。世界で一度も会ったことのない人は自分なのです。
それなのに、人は鏡に映っているのは自分だと思っています。鏡像であり虚像なのに、です。
たとえ、自分の姿が鏡に映っているとしても、目の前に見えるのは自分ではありません。
そんなふうに言葉でくり返し自分に言い聞かせても、なかなかそうだとは納得できないのが人情でしょう。
鏡がある限り、私たちは鏡に「見入られている」ことになります。
「魅入られている」と言うべきでしょう。「取り憑かれている」と言っても大差はなさそうです。
目に見える鏡像を映す、目に見える鏡という物で、私たちは目に見えない自分を見過ごし会いそびれるしかない。そんな気がします。
画面に見入り、魅入られ、見入られる
私たちは、文字や映像や鏡像を見るために、紙面や画面や鏡面に見入り、魅入られもするという話をしてきました。
それだけには、とどまらないのです。
*
鏡面はさておき、文字と映像を見たり読んだりするために見入る画面に話を絞ります。
私たちは、画面に見入り、魅入られ、同時に、見入られてもいるのではないでしょうか。
これもまた自分を観察していると、そう思わざるをえないし、確信しざるをえないのです。
見入る、魅入られる、見入られる
「ミイラ取りがミイラになる」という成句を連想するなと言われても私には無理です。
*
つなぐ、つながる、つながれる
現在映像や文字や音声を視聴するためにつかわれている画面は、携帯電話の進化したものです。つまり、ネットに接続されています。
接続という漢語をつかうとぼやけてきますが、要するに「つなぐ」は「つながる」であり、さらには「つながれている」状態が続いているのです。
常時つながれている、いつもつながれている。これからもつながれていくだろう――。こういうことだろうと思います。
*
By watching screens connected to the Net, we're being watched being bewitched.
いつもつながれた状態で、私たちは画面に見入り(watching)、魅入られ(being bewitched)、さらには同時に見入られている(being watched)のではないでしょうか? それが続くのではないでしょうか?
同時に見入られているというのは、見られている、しかもじっと見られていると言い換えると体感できるかもしれません。
・私たちが何に見入り、何に魅入られているかを、見入られている。
・私たちが何を見つめ、何に魅せられているのを、じっと見られ記録されている。
なぜ記録されているのでしょう? 私たちひとりひとりが見つめる癖のあるもの、つまり魅せられる癖のあるものを選んで与え、さらに見つめるように促しているのかもしれません。
でも、なぜ?
まさかサービス精神旺盛な「何か/誰か」が私たちを楽しませてくれるためだとは思いません。
*
Big Brother is watching you
何かに/誰かにつながった文字と映像に見入る、魅入られる、見入られる。 こうした状況は、よく考えると広義の鏡に見入る行為が始まったときに、既に始まっていたようです。
不思議、不可思議、不可視
鏡を見てください。覗きこむという意味です。そこには鏡があるはずです。そこには自分=Iという他者=眼が映っているはずです。
瞳は鏡。
ひとみは人見。ひとみは日止視。※諸説あり。
自分はI。
他者は眼。
(※めめ(おめめ)、meme(英語の「ミーム」)、même(フランス語の「メム」:……自身・同じ・同一)
ちなみに、虹彩は英語で iris です。iris の二つの i(eye) の点が目に見えてきて(涙を流した目)、目が点になります。
こういう馬鹿なことをやっていると、eye も顔に見えてきます。e y e
そこに見えないはずのものが見えてしまう。それが見入るであり魅入られるかもしれません。たぶん、ヒトの特技です。
*
冗談はさておき、人が毎日見入る習慣のあるものを三つ並べてみると、見入る、魅入られる、見入られるという現在の状況は、大昔に始まっていたような気がしてきます。
そうです、広義の鏡のことです。さきほど上で書いたことを引用します。
鏡と鏡像について言えば、これは大昔から、あまり変わらない気がします。
瞳(相手の瞳のことです、一種の鏡ですよね?)、水面、金属製の鏡、ガラス製の鏡、ガラス以外の鏡……。
こんな感じでしょうか。もっとも、カメラ(アナログ ⇒ デジタル?)での自撮りを鏡だと見なさないでの話です。自撮りの経験はないので、ここでは触れないでおきます。
鏡に見入るとき、そこには顔があり目があるはずです。その目をよく見ると、瞳に人の顔が映っています。
それは自分の目だとは頭で分かっています(正確に言うと「(そう教わったから)知っています」です、知識なのです)。分かってはいる(知ってはいる)のですが、体感的には不思議で不可思議なことが起こっている気がします。
少なくとも私にはそんな気がするのです。見えていることが見えなくなっていると言えばいいかのか……。不可思議が不可視に転じると言うか……。
不思議 ⇒ 不可思議 ⇒ 不可視
見えるようで見えていない。
*
この記事は「辞書を読む」という連載での文章ですから、辞書を引いてみましょう。
「不思議」は「不可思議」の略だそうです。
・ふかしぎ【不可思議】
①仏語。ことばでいうことも心で思いはかることもできないこと。ことばも心も及ばないこと。(……)
「不可思議」ですから、確かに「思い議ることができない」と読めます。
*
「不可視」の場合には、「視ることができない」と読めるわけですが、この「視」を漢和辞典で調べると「注意して見る」(大修館書店『新漢語林』)と説明されています。
英語の watch に近いのです。例の Big Brother is watching you の watch です。
一方の「見」は、「目にみえる」とか「おめにかかる。会う」(大修館書店『新漢語林』)とあり、英語の see に近いことが分かります。
watch している Big Brother は「不可視」なのです。見えるようで見えていない。
私たちは、画面に見入り、魅入られていながら、その魅入り、魅入られているさまを「見入られている(being watched)」ことが見えているようで見えていないのです。
でも、知っているはずです。
見入られていることを知っていても、忘れているのです。ある意味、すっとぼけていると言えそうです。
すっとぼけている
ここからは、さきほども引用した「であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある」から引用します。
考えない、気づかない、忘れている
一度教わったはずのことを、考えない、気づかない、忘れているとは、どういうことでしょう?
自分のことながら情けなくなります。
知識としては脳のどこかに記憶されているはずです。記憶されているからでしょう、ふいに考えたり、気づいたり、思いだしたりはします。
考えない振りをする、気づかない振りをする、忘れた振りをする
このように言ってもいいような気がします。すっとぼけているのです。
であるのにでない振りをする
あるのにない振りをする
であるのにでない振りをする
あるのにない振りをする
これを私は振りの基本型と呼んでいるのですが(振りとは演じることですから当り前のことを言っているだけなのですけど)、どうして人はこういう振りを演じてしまうのでしょう。
考えない振りをする、気づかない振りをする、忘れた振りをする
どうしてこうなってしまうのでしょう。
どうにも止まらない
分かっちゃいるけど、やめられない
みんながやっているから
自分を観察していると、そんな理由が考えられます。おそらく、見えないものに魅入られているのです。
