小さな努力と、朝のコロッケ JS-TC線 車掌・中野翔太の夜勤明け
3中野の変化に気が付いた人達
――最近、中野が変わった気がする
安曇が朝のホームに出たとき、すれ違いざまに聞こえた声があった。
「Good morning… This train is bound for…」
(おはようございます。この電車は…行きです。)
ぼそぼそとした独り言。発声練習にしては珍しく“英語”だった。振り向かなくても誰かは分かった。
中野翔太。最近、妙に表情が締まっている後輩だ。
(お、また英語か。……あいつ、ハマってきたな)
数日前、控室でも英語のテキストを開いている姿を見かけた。
あいつはマラソンと自転車で体力づくりを続けているのは知っていたが、「勉強」となるとそこまで熱心にならないタイプだと、勝手に思っていた。
だが最近は違う。
ロッカーの棚には参考書、寮でも夜勤明けに英会話の音声を練習しているという噂まで耳に入る。
(どうした中野。誰かに触発されたか?)
――いや、心当たりはひとりだけ。
汐海遼一。
あの、妙に淡々としていて、黙っていても背中で後輩のやる気を引っ張るタイプの男だ。
気が付けば、中野の視線はよく汐海を追っている。別に“憧れます!”なんてあからさまに言うことはない。
ただ、動きや所作を真似しようとしているのが伝わってきた。
(影響されてるな。あれは完全に)
でも、悪いことじゃない。むしろ“良くなる方向”に進んでいる。
その日、安曇は書類の確認で控室に立ち寄っていた。
奥の座席に座った中野が、スマホに向かって口を動かしている。
「…Passengers transferring to the JS Rapid Line,
please change trains at…」
(JS快速線にお乗り換えのお客様は、お乗り換えください。)
発音はたどたどしいが、以前よりずっと滑らかだ。すれ違うと目が合い、慌てたようにテキストを閉じた。
「お、お疲れ様です、安曇さん」
「おう。……勉強か?」
「……はい、まぁ。ちょっとだけ」
すぐ顔が赤くなるところが、中野らしい。
「英語放送、今度やってみたいんです。まぁ…できるか分かんないですけど」
「いいじゃないか。あれは慣れだぞ。怖がらなきゃ、そのうちできる」
そう言うと、中野は少し驚いた顔をした。
「安曇さんって英語、綺麗ですよね。あの“Departure”の言い方とか本当に…」
「俺は昔、海外の人に褒められたのが嬉しかっただけだよ。単語の意味なんて半分分かってなかった」
「えっ、半分?」
「半分だ」
自然と笑いが漏れた。
「最初はそんなもんだ。汐海は別格だが、全員がああなる必要はない。“伝わるように言う”のが車掌の仕事だ」
中野はゆっくり頷いた。
(ほんと、変わったな)
数ヶ月前なら「無理っすよ俺」と笑って逃げていたはずだ。それが今は、真面目に英語と向き合っている。こういう変化は、無理した時には出ない。
“誰かに刺激を受けた時”に、自然と出てくる。
(汐海……お前、知らないうちに良い影響ばら撒いてるんだぞ)
本人は多分、全然自覚してない。
夕方の折り返し点検。
中野がホームに立ち腕時計を見たあと、深呼吸して発音練習をしていた。
姿勢が以前より良い。声も、少し自信が出ている。
「――Be careful when stepping out. The gap is… wide…」
たどたどしいけれど、気持ちがこもっている。
(うん。これは、本番で使える日も近いな)
ふと一連の動作を見かけた安曇は感心していた。英語が完璧になることが大事じゃない。「伝えたい」と思って声を出す心が大事だ。そして中野は、確実にそれを掴みつつある。
安曇はホームを歩きながら、ふっと笑ってしまった。
(よし、中野。このまま続けろよ。お前は、まだ伸びる。伸びしろしかない)
そして――
(汐海、たまには自覚しろ。お前のせいで、周りの後輩が勝手に育ってくんだぞ)
そんな心の中のぼやきが、小さな風の中に紛れて消えた。
その日の帰り道、安曇はふと思った。
(俺も負けてられんな)
後輩が頑張り始めた時、一番刺激を受けるのは、案外“先輩の方”なのかもしれない。
明日の点検は、少しだけ声を張ってみるか。
そんな気分になっていた。
4につづく
