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かわいそうと言われた瞬間に、何が止まっているのか

病棟で、虐待歴のある患者が入院してくることは珍しくない。
そして、そういう患者が「扱いづらい」ことも、正直に言えば多い。

態度が良くない。
促されても無視する。
ケアを受ける立場なのに、舌打ちをする。
手際が悪い、遅い、気に入らないと、平然と文句を言う。

こちらは人間だ。
頭にもくる。
「自分でできないくせに、その態度は何なんだ」と思う。
感情が動くのは当然だと思っている。

そんな話を、若い後輩看護師としていたとき、
彼女はこう言った。

「虐待されてきた人だからですよ。かわいそうなんですよ。」

その瞬間、私は何も言わなかった。
言えなかったのではなく、言わなかった。

今になって考えると、
それは「反論できなかった」からではない。
この話を、どこからどう説明すればいいのか、
そして説明したところで解決策がないことを知っていたからだと思う。

トラウマという言葉を使えば、
その患者との関わりで感じるストレスに、
一応の意味づけができる。
「仕方ない」「自分が悪いわけではない」と、
自分の中で納得ができる。

それは、支援する側にとっては
とても都合のいい理解でもある。


「かわいそう」は共感ではなく、停止の言葉ではないか

私は、「かわいそう」という言葉にずっと違和感がある。

それは一見、共感の言葉のように見える。
でも、実際には何も前に進めない言葉でもある。

かわいそう。
だから仕方ない。
だから期待しない。
だからこれ以上は求めない。

それは本当に、その人を尊重している態度なのだろうか。

虐待されていようが、
知的障害があろうが、
最終的にはその人は 一人で生きて立って生活していく しかない。

もちろん、支援や補助は必要だ。
教育も必要だ。
でもそれは、「一人で立って歩いていく」ことを前提にした支援でなければならない。

「かわいそう」という言葉は、
その前提を、無意識に消してしまう。

それは、

  • この人は自分では生きられない

  • だから期待しない

  • だから成長も求めない

と言っているのと、どこが違うのか。

言い換えれば、
見下している のではないか。
「この人は、ここまでの人間だ」と、
静かに線を引いているだけではないのか。


トラウマを理由に、今の行動を説明するということ

心理学の世界では、
トラウマをどう扱うかについて、長い間意見が分かれている。

たとえば、
過去の出来事が現在の行動を規定するという考え方もあれば、
過去を理由に今の行動を説明するのはおかしい、
という考え方もある。

アドラー心理学は後者だと言われることが多い。

過去に何があったかより、
今、その行動を何のために選んでいるのか を見る。

この考え方自体が正しいかどうかを、
ここで決めるつもりはない。

ただ一つ、はっきりしているのは、
心理学者の間でさえ決着していないこの問題が、
現場では一つの答えとして雑に使われているということだ。

「トラウマがあるから仕方ない」

この一言で、
議論も、判断も、線引きも止まる。


組織にとっての「ちょうどいい思考」

私は最近、こう考えるようになった。

大きな病院や組織にとって、
「かわいそうで終わらせる」思考は、
とてもちょうどいいのではないか、と。

自立を促す態度は、リスクがある。

厳しさを伴う。
期待をかける。
できるはずだと前提を置く。

もしその結果、
その人がうつ状態になったら。
自殺したら。

その責任を、組織は取れない。

だから、

  • 期待しない

  • 深く関わらない

  • 成長を求めない

「かわいそう」で止めておく方が、安全だ。

これは冷たい話ではない。
むしろ、自己防衛として合理的ですらある。

だからこそ、
現場の看護師に「善意」が丸投げされる。


親としてなら、かわいそうでは終われない

もし、自分の子どもが障害を持って生まれたら。

そのとき、
「かわいそう」で思考を止めてしまったら、
その子の将来は、その時点で最低になる。

障害にはグラデーションがある。

本当に寝たきりで、意思表示もできない人もいる。
でも多くの場合は、
普通に話せて、生活もできる。
ただ、知能が低かったり、理解が遅かったりする。

そういう人たちは、
「かわいそう」で止められた瞬間に、
成長の機会を奪われる。

障害がありながらも、
どうやって生活するか。
どうやって自立するか。
それは、期待と厳しさがなければ成立しない。

それは冷たさではなく、
愛情であり得る態度だと思っている。

だから、

  • 仕事として関わる人の自己防衛としての「かわいそう」

  • 親として向き合うときの態度

この二つは、同じ言葉でも、まったく別物だ。

むしろ、
親の立場で「かわいそう」で終わらせることの方が、
残酷ですらある。


看護師不足は、「かわいそう」で回してきた結果ではないか

ここまで考えて、
私は別のことにつながった。

看護師不足は、
人が足りないから起きているのではなく、

「かわいそう」と言って、
無限に肩代わりしてきた結果ではないか。

線を引かない。
返さない。
「それは私の仕事ではない」と言わない。

本当に大切なのは、
「それはあなたがやることです」と、
本人に返すことなのかもしれない。

極端な話、
支援職から看護師を外した方が、
医療資源の無駄遣いは減るのではないかとさえ思う。

これは、現場で働く看護師の
個人的な感想にすぎない。


それでも、このモヤモヤを放置できない

私は答えを持っていない。
個人で解決できる話でもない。

ただ、
現場で「かわいそう」という言葉が使われた瞬間に、
何か大事なものが止まっている気がしてならない。

うまくいっていない現実を表に出そうとすると、
社会はそれを責める。

だから皆、
黙って、うまくいっているふりをする。

この状況こそが、
私の思う「社会の安全が壊れている状態」だ。


この文章は、
正解を提示するためのものではありません。

同じ現場にいる人、
似た違和感を持った人と、
一緒に考えたいだけです。

もし、この感覚に言葉を持っている人がいたら、
ぜひ教えてほしい。

私自身も、
まだ答えを探している途中です。

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