評価の飛躍:わたしが先生の「ロリータ」だったころ
先日、知人に勧められてナボコフ「ロリータ」を購入。ロシア語をやっていてロシア文学に興味があり、なおかつ少女愛者で、少女との恋愛経験のある私が、なぜ今まで読んでいないのか、驚かれた。
この記事の諸読者のなかには、まず私が少女愛者であることに、少女との恋愛を経験していることに、強い嫌悪を抱く方もいるのだろうと思う。社会通念や一般的倫理観などを鑑みれば、その反応自体はさして驚くことでもないが、しかしその類の反応が、ナボコフ「ロリータ」や、題にあるアリソンの体験談本の読書感想文に、“無条件に” 散見されることには、大きな問題がある。大きな飛躍がある。
アリソン読者たちの感想には、大抵こうある:
―大人と少女の歪な権力関係に嫌悪する。子供は支配と愛の区別ができない。「ロリータ」を美化して、それを恋愛の皮を被った抑圧と支配の関係に当てはめているのも、気持ちが悪い。ハンサムな若い年上の教師が、自らが少女の憧れの対象であることを狡猾に利用している。第一、子供を相手にすること自体、まともな大人のすることではない。
飛躍まみれ、偏見まみれである。
まず重要なことだが、ナボコフの本も、アリソンの本も、どちらも「こういう、精神的に異常な男がいた」という、個別の、個人の描写でしかないことである。
アリソンを支配した教師ニックは、「下着のサイズ」を訊き出し、「下着の趣味」も「進学先」も言う通り、趣味どおりにさせた。「意志に沿わないとヒステリーを起こして、少女に罪悪感を植え付けた」。「卒業後は出血のともなうセックスを強要した」。
ハンバートは「かつて愛した、自分と同年齢だったある少女を、今目の前にある少女ドロレスのなかに勝手に見いだして、ニンフェットであることを押しつけた」。
これはつまり、「こういうヤバいヤツがいました」という、異常事例、個別事例の報告書でしかない。
年齢差のある恋愛関係が、全て、一つ残らず歪んだものであって、実際には支配、抑圧、搾取の関係でしかないのだ、と総括して結論するのは、あまりに危険な飛躍だ。
もう一つ重要なこと。
この類の本を読もうとする層は、そもそも「少女愛に嫌悪を覚える」層なのである。そして、本の内容は”少女を狡猾に利用する男”の話。勿論のこと、その感想文は「やっぱり少女愛者は悪だ。年齢差のある恋愛などただの幻想で、結局は搾取だ」という、定型文のようなものになる。
嫌悪する人々が集まって、嫌悪する対象を共有して、嫌悪の感想を共有して、嫌悪の結論に戻ってくる。
―こういった犯罪が今も起きているかもしれない
―私の友達にも先生に恋してるひとがいた
―小児性愛者* はやっぱり異常者だ
正直、全くもって非建設的である。
全く不健全なエコー・チェンバーである。
この「嫌悪する層」は、(勿論、著者も含めて。トラウマゆえだが。そして勿論、か弱い被害者の主張は、同調する世間によって手厚くもてなされる。)はっきりいえば、ただのアレルギー患者である。
(*そもそも小児性愛という言葉の使い方も間違っているが、まあ些事であろう)
過激な体験談を選り好みして聞きかじり、自分の感覚に合致するからそれをもって持論の強化材料とし、つまり嫌悪を強くする。アレルギーの悪化。
過激な体験談の一例を自分勝手に帰納して、「小児性愛者・少女愛者は、権力差を利用して少女少年を性的に搾取する狡猾な悪人である」という、お定まりの結論を得て、満足する。
思考する気がない。
どうか、「搾取」だとか「グルーミング」とかいう言葉の濫用を、雑なラベリングを、どうか、しないで欲しい。
力の差がある関係では、搾取や、利用というのは、たしかに比較的容易で、可能なのかもしれない。けれども、ほんとうに狡猾に、搾取や利用を“実行” するかどうかは、別の話だ。
それこそ、個別のケースを具体的に精査していく必要がある。
純愛の関係だって、あるのかもしれない。
支配と抑圧、搾取のない関係も、人によってはあり得るのかもしれない。
ひたすらに友好的な、友愛に満ちた、穏やかな恋。ひたむきな愛。そういうものを、想像してみてほしい。
子供と大人が、少女と青年とが、対等に、人間同士として求め合うことも、稀にはあるのかもしれない。
検証ができないだけで、真実の愛も、どこかにはあるのかもしれない。
愛し合っているのに、社会によって苦しんでいるふたりがいるのかもしれない。
そういう思惟は、介在する隙間がない。
そういう思考は、大変で、面倒だから。
自分たちは「ものごとをわかっている」正義者側に立っていたいから。
「ファンタジーを嘘と見抜ける」知識人でありたいから。
自分の主観と感覚に合致する気持ちのいい嫌悪とアレルギーには、邪魔だから。
差別を差別と気づきたくないから。
さて、「ロリータ」を読もう。

