家政婦は刑事(デカ)#01
あらすじ
身寄りなく育ち、国のために生きてきた公安諜報員の女性。新たな任務は、脅迫を受ける政治家の家に「普通の家政婦」として潜入することだった!
相棒は、「紅蓮」の異名を持つ元ヤンキーの最強家政婦。いわくつき案件専門の家政婦事務所でバディを組まされた二人は、正反対にして最悪の相性。
家事完璧・戦闘最強・でも隠れラノベオタクの諜報員と、喧嘩無敗・人情一直線・でも料理は焦がす元ヤンキー。凸凹バディが守るのは、家の平和と、家族の絆。
第一話「最強の『普通』、参上」
1
玄関のドアが、蹴破られた。
「亜美ぃぃ! いるんだろ! 開けろって言ってんだよ!」
男の怒鳴り声が、都内港区の2LDKの新築マンションに響き渡る。白いリビングの隅で、依頼主の女性(坂下亜美、二十六歳)が悲鳴を呑み込んでしゃがみ込んだ。スマホを握る手が真っ白だ。警察には三度相談した。接近禁止の警告も出た。それでも男は来る。だからどこの家事代行サービスも、この家の依頼を断った。
「大丈夫ですよ」
その横で。
北野まどかは、棚の埃を拭いていた。
「もうじき終わります。換気のため、窓は開けたままにしますね」
「そ、そんな場合じゃ……っ、来ちゃった、あの人、来ちゃった……!」
「ええ。床のワックスがまだ乾いていないのに。困った方ですね」
まどかは雑巾を畳んだ。きっちり八つ折り。角と角がぴたりと合う。
廊下を踏み鳴らす足音が聞こえた途端に、リビングのドアが乱暴に開く。すぐに目が据わった男が入ってくる。殺意のオーラを纏った男の手には、何か光るものを持っている。
「亜美、おまえ、誰のおかげで…!」
亜美は固く目をつぶった。
かすかな風を感じたと同時にがたん、と何かが倒れる音がした。
それだけだった。
恐る恐る目を開けると、男は床にうつ伏せに倒れていた。白目を剥き、泡を吹いて、ぴくりとも動かない。その横でエプロン姿の家政婦が、何事もなかったかのように雑巾がけを再開している。
「……え? え?」
「ワックスで滑られたみたいです」
まどかは振り向かずに言った。
「危ないので、靴下でうろうろなさらないでください、とお伝えしようと思ったのですが。間に合いませんでした」
「え、でも、いま、音が、一瞬で」
「派手に転ばれましたから」
嘘である。
正確には、男が刃物を構えるより早く、まどかは雑巾を絞る動作の延長で男の手首を極め、肘の急所に二指を入れ、声帯が音を出すより先に頸動脈を三秒締めた。所要時間、〇・八秒。亜美がまばたきを二回する間の出来事だ。
玄関から、ゴミ袋を両手に提げた上下ともに黒い服に白いエプロン姿のすらっとした長身の女が戻ってきた。黒鉄亜鈴。十九歳。家守が誇る「強い家政婦」のひとり。本人は知らないが「黒猫」という通り名が付いている。本日の現場担当として、まさにこの瞬間のために配置されていた人材である。ゴミ出しに行っていた九十秒の間に、すべてが終わっていた。
黒鉄は、倒れた男を見た。まどかを見た。ワックスのかかった床を見た。
「……床、滑りますね」
「ええ。よく滑ります」
寡黙な十九歳は、それ以上何も言わずに警察へ通報した。
―家政婦は見た、というレベルの話ではない。
通報を聞きながら、まどかは窓の桟を指でなぞり、残った埃を確かめる。合格。彼女の仕事に、拭き残しはない。表向きも、裏向きも。
北野まどか。三十二歳。職業、家政婦。
所属、警察庁警備局・公安。潜入任務、通算九件目。
ただし、それを知る者は、この街にひとりもいない。
2
同時刻。同じ都内でも竹ノ塚の裏側、下町の古い一軒家。
「だーかーらー」
物干し竿に、洗いたてのシーツが翻る。その向こうで、夏目朱雀はため息をついた。
「ばあちゃんの年金日に合わせて取り立てに来るの、やめてくんない? 洗濯もんが湿気る」
庭先に、ガラの悪い男が三人。要介護の祖母と女子高生の孫がふたりで暮らすこの家には、死んだ息子が残した借金があった。法的にはとっくに無効の、払う義務のない金だ。だが男たちは毎月来る。金がなければ孫の方を海外に売り飛ばすぞ、と言ってくるようになった。あまりのたちの悪さにどこの家事代行も、この家を断った。
「あぁ? 家政婦は引っ込んでろ。俺らはこの家の娘に用が―」
「あたしが今この家の台所預かってんの。つまりあたしの家も同然なの」
朱雀はシーツの皺を、ぱん、と伸ばした。
「で、人の家の庭に、土足で入ってきて、デカい声出して」
ぱん。
「うちのばあちゃん昼寝中なんだけど」
ぱん。
「––起こしたら、どうなるか分かってるんだろうなァ?」
シーツの皺を、ぱん、と伸ばすたびに朱雀の声が低くなっていく。
男のひとりが舌打ちして、胸ぐらを掴みにきた。
三十秒後、三人は庭の外に積み上がっていた。物理的に。きれいに俵積みである。朱雀は最後のシーツを干し終え、手を叩いて埃を払った。身長百七十二センチ。ショートカットの下の双眸が、午後の日差しにぎらりと光る。
かつてこの界隈で、彼女は「紅蓮の朱雀」と呼ばれていた。喧嘩で負けた回数、ゼロ。今の肩書は、家政婦。ただし―
「いわくつき案件専門・ハウスキーパー家守。『強い家政婦』の夏目です。うち、こういうのも込みの料金なんで」
積み上がった男たちに営業スマイルで名刺を置き、朱雀は縁側に戻る。孫娘がお茶を出してきた。目に涙が浮かんでいる。
「いーのいーの。それよかあんた、ちゃんと食べてる? 顔色悪いよ。今日、肉じゃが多めに作ってくから」
エプロンのポケットで、スマホが震えた。社長からだ。
『新しい相棒の件。明日、事務所に来て』
朱雀は眉を上げた。前の相棒が産休を理由に辞めて、ふた月。気心の知れた「普通の家政婦」と組むのが、家守のバディ制だ。
「新人かぁ。……どんな子かねえ」
3
ハウスキーパー家守。世田谷の大きめの一軒家。一階が事務所で二階が住居。その表札には家守、その隣に「ハウスキーパー家守」のロゴの看板。丸いロゴに家守のヤモリのキャラクター。
その自宅兼事務所の玄関の扉には、額装された一枚の書が飾られている。曰く―
「他社さんが断る案件、うちがやります」
ストーカー被害者宅。反社が出入りする家。事故物件。脅迫状が届く豪邸。幽霊が出る屋敷(※専門スタッフが対応します)。世の中には、「家事」のついでに「何か」が必要な家が、思いのほかたくさんある。家守はそこに、二人一組で家政婦を送り込む。
腕に覚えのある「強い家政婦」と、家事の達人である「普通の家政婦」。一対一のバディ制。
「―というのが、うちのシステムです。北野さん、もう現場で体感されたと思いますけど」
説明しているのは小此木暁、二十歳。家政科の大学生にして「普通の家政婦」枠の家政夫だ。彼の淹れたお茶は、悔しいが美味い、と「強い」側の面々に評判である。ここにバイトに来てから一年しか経っていないのになぜかベテランのような安心感がある。
「黒鉄さんと組んだ昨日の現場、どうでした? あの人、無口だから大変だったでしょう」
「いえ。よく喋る方より、ずっと働きやすかったです」
「あはは、北野さんもなかなか言いますね……ん? よく喋る方……?」
事務所の奥、社長席。守家社長、黒髪を後ろ一つに束ねた四十前後の女性で、現場には出ない、この所帯の指揮官―が、書類からちらりと目を上げた。
入社五日目の新人、北野まどか。経歴書は完璧だった。面接も完璧だった。家事の実技試験は、完璧すぎた。三十年この稼業を見てきた社長の勘が、小さく囁いている。無言でカラーレンズの眼鏡を外して磨きながら、
(この子、何者かしらねえ)
だが、いわくつき専門の家守である。ワケありはお互いさま。社長は囁きを書類の下にしまい、声を張った。
「北野さん。あなたの正式なバディが決まりました」
ドアが、勢いよく開いた。
「おっはよーございまーす! 社長、新人ちゃんって、どの子……」
入ってきた長身の女が、まどかを見て、ぴたりと止まった。
夏目朱雀。家守の「強い家政婦」筆頭。
朱雀はつかつかと歩み寄ると、挨拶より先に、まどかの両手を取った。じっと見る。手の平を返す。指先を見る。
「……いい手してんね」
「は?」
「水仕事してる手だねー。けど荒れてないし、手入れが行き届いてる。爪も短い。右手の人差し指にペンだこじゃない位置に薄いマメ。––あんた、できる人でしょ!」
(包丁だこ、と思ってくれたらしい)
実際それは長物の、職務上の訓練の痕としてのマメだったが、まどかは微笑んだ。
「恐縮です。夏目さん」
「朱雀でいーよ。あたしもまどかちゃんって呼ぶし」
「初対面ですが」
「二回会ったら初対面じゃなくなるでしょ。はい二回目〜」
一度離れて戻ってきただけである。距離の詰め方が、尋常ではない。まどかの頬が、ぴくりと引きつった。馴れ馴れしい人間関係は、この世で三番目に苦手だ。
社長が咳払いをして、一枚の依頼書をデスクに置いた。
「ふたりの初仕事。––九条誠司衆議院議員のお宅よ」
事務所の空気が、すこし変わった。
九条誠司。テレビで顔を見ない週はない。「反社会的勢力の資金源を、根こそぎ断つ」―組織犯罪の撲滅を旗印に掲げる、与党の改革派。クリーンで、良くも悪くも正直な性格。それ故に敵が多い。
「三年前に奥様を亡くされて、男手ひとつで高校生の息子さんを育ててる。家のことは通いの家政婦さんに頼ってたんだけど―先月から、脅迫状が届くようになった。前の家政婦さんは怖がって辞めた。大手は軒並み辞退。で、うちに回ってきた」
「なるほどね。いわくつきだ」
朱雀が依頼書を覗き込む。
「通い、週六、二名体制。家事全般と『家の安全に係る範囲での対応』。つまり、何かあったらあたしの出番ってわけだ」
「夏目さんが盾、北野さんが家事の柱。よろしくね」
まどかは依頼書の文面を、感情のない目で三秒読み、頭を下げた。
「承知しました」
(承知も何も。この依頼がここに来るように仕向けたのは、こっちだ。)
4
その夜。駅前の量販店、カプセルトイ売り場の奥。
まどかは古いコインロッカーの前に立ち、鍵を回した。中には、菓子の紙箱がひとつ。箱の底に、小さなイヤホン。耳に装着すると、三秒で声が来た。
『状況を』
「家守への入職、完了。本日付けで九条邸の担当に配置。計画より二日早い」
『さすがだ』
声の主は、公安の運用担当官。顔は知らない。知る必要もない。
『改めて任務を確認する。マル対―九条誠司。議員立法「組織犯罪資金規制法案」の中心人物。可決されれば、複数の犯罪組織が資金経路を失う。連中が議員を潰したがっている、という情報がある』
「手段は」
『不明。ただし暗殺ではない、というのが分析班の見立てだ。殺せば法案は弔い合戦で確実に通る。連中が欲しいのは九条の「死」ではなく「失脚」。スキャンダルだ。攻撃は、議員本人ではなく―』
「家庭、ですか」
『そうだ。家の中から崩される。守れ。九条誠司の議員生命を』
「了解」
『以後、定時連絡は不要。緊急時のみこの回線を。……北野』
「はい」
『今回の偽装身分は長期になる。"家政婦"だ。家庭というものに、せいぜい馴染んでおけ』
通信が切れた。
まどかは端末を箱に戻し、ロッカーを閉めた。
(家庭に、馴染むか…無茶を言うな)
家庭。その単語を、まどかは間取り図のような知識として知っている。食卓には四人掛けのテーブル。冷蔵庫には子どもの絵。玄関には大きさの違う靴。任務で何度も「演じた」から、誰よりも正確に再現できる。
知らないのは、中身だけだ。
帰り道、カプセルトイの機械の列の前を通った。一番端の機械に、黄色くて丸っこい動物のキャラクターが並んでいる。
まどかの目がわずかに見開いた。まどかの足が、〇・五秒だけ、止まった。
―止まっただけだ。
誰も見ていないことを確認するように小さく息を吐き、家政婦は夜の街に消えた。
5
九条邸は、坂の上の古い洋館だった。
豪邸というより、年を取った家、という感じがする。門扉の蝶番は油が切れかけ、庭木は伸び放題で、金木犀の花が散らかっていた。けれど玄関には誰かが毎日掃いているらしい箒の跡があった。三年前まで、この家には女主人がいた。その人が死んでから、家は少しずつ、古さを増してきた。要するに手入れが足りていない。
「おーはーよーうーございますー!」
玄関前。朱雀は大きな声で挨拶しながら呼び鈴を連打する。すると中から足音がした。
家の音をまどかは情報として聞く。足音から人を割り出し、床の軋みからは動線、ドアの音は建付けと侵入経路。それ以外の聞き方を知らない。
「––おはようございます。家守から参りました、夏目と」
「北野です。本日からお世話になります」
玄関で出迎えた九条誠司は、テレビで見るより小さく、そして深く頭を下げた。
「こちらこそ、お願いします。……こんな物騒な家を、引き受けてくださって」
五十二歳。仕立てのいいスーツに、黒く染めた髪にはほんの少し寝癖。その根元から生えた白髪が少し見える。それに気づいたまどかが見ていると、視線に気づいた九条は照れたように髪を押さえた。
「すみません。朝は、息子の弁当を作っていて。いつも時間が」
「議員さんが、お弁当を?」
朱雀が目を丸くする。九条は、少し笑った。
「妻がやっていたことなので。せめてそれくらいは、と。……まあ、息子は最近、残してくるんですが」
その時、階段の上から足音がした。
制服姿の少年が降りてくる。九条蓮、高校二年。その特徴的な詰襟の制服で名門校と分かる。気の弱そうな痩せ気味の少年だが、父親と同じ形のいい眉。ただし目の下に、高校生にあるまじき隈。
「蓮。今日から来てくださる家政婦さんだ。ご挨拶を」
蓮は二人を見た。正確には、二人の顔を〇・五秒ずつ見て、すぐに逸らした。
「……どうも」
それだけ言って、靴を突っかけ、弁当を受け取らずに出ていった。玄関のドアが、必要より大きな音を立てて閉まる。
「……すみません。あの年頃なので」
九条は弁当の包みを持ったまま、力なく笑った。政治家の顔ではなかった。ただの、困っている父親の顔だった。
「議員さん」
朱雀が、その弁当をひょいと取った。
「これ、預かります。学校って、駅の向こうの玄武高校でしょ。うちの近所の子も通ってるんで、届け方は心得てます。––昇降口の事務室経由なら、年頃男子の体面にも関わんないんで」
「は、はあ……」
「あと、明日からあたしらが弁当作るんで、議員さんはちゃんと寝てください。クマ、息子さんとお揃いになってますよ」
九条は目を見開き、それから、今日いちばん深く頭を下げた。
主が出勤すると、家は二人のものになった。
そして、戦争が始まった。
「朱雀さん。アイロンから煙が出ています」
「ワイシャツってさあ! なんでこんな、シワが、こう、立体的に!?」
「貸してください。––朱雀さんは二階の窓拭きを。高所と力仕事はお任せします」
「あいよ! ……てかまどかちゃん、あんたアイロン何その速さ。新幹線?」
家事における二人の戦力差は、絶望的だった。まどかが完璧で、朱雀が壊滅的なのである。それで家政婦として必要最低限はこなせる程度。洗濯物の畳み方は「気合」、掃除は「物理的に強い」。料理の味だけは最高なのだが「量と火力でなんとかする豪快飯」なので台所は散らかし放題、三人の息子を育てている主婦のはず…と怪訝そうに見るまどかに、朱雀は胸を張って言った。
「うちはダンナも家事担当。あたしは細かいの全部ダメ。だから『強い家政婦』やってんの。適材適所!」
「家政婦なのに、家事は苦手なんですか」
「やるよ?あーそれでも分担制だよ? 害虫駆除(物理)と、力仕事と、散らすから嫌がられるけど料理も、あとはー子どもと遊ぶの。そういや、うちの三バカがさあ」
昼休憩。縁側で、朱雀は夫が持たせたという弁当を広げた。おかずはきれいに並んでいるのに、おにぎりがやたら大きいし海苔がお世辞にも綺麗に巻かれていない。家事が分担制だということは一目でわかる弁当だ。
「下の子が小学校上がってさ。三人とも昼間いないわけ。そしたら急に家が静かでさー、なんか、こう、手持ち無沙汰? で、家政婦始めたんだよね。やっぱあたし、誰かの世話焼いてないとダメみたい」
「……賑やかなんでしょうね。お宅は」
「うるっさいよ〜。毎晩レスリングだもん。あ、そうだ、今度まどかちゃんもうちに飯食いに––」
「結構です」
「え!即答!?マジかよ!」
まどかは自作した、写真のように美しい自分の弁当に視線を落とした。
朱雀の弁当の卵焼きは、すこし焦げて、不格好で端が崩れていた。彼女が巻いたのだろう。三人の息子の分を作った残りの卵で。
(……)
視線が一瞬だけ、揺れた。
それを、隣の女が見ていないはずだった。朱雀は卵焼きを頬張りながら、空を見ていた。ただ、それ以上「家の飯」の話をしなかった。代わりに、どうでもいい話を始めた。商店街のコロッケが値上がりした話。それは朱雀なりの、距離の取り方だったのかもしれない。
まどかは気づかないことに、した。
(家庭は、任務地だ)
胸の内で、規則を読み上げるように繰り返す。
(それ以上でも、以下でもない)
まどかは自分の弁当を九分で食べ終えた。完璧な栄養バランス。完璧な彩り。味は確認しなかった。味とは、品質の指標であって、楽しむものではない。
6
午後三時。二階、奥の部屋。
「蓮くんの部屋は、掃除だけお願いします。物には極力触れないでやってください。あの子、母親を亡くしてから、自分の領域に敏感で」
九条にそう頼まれていた。まどかは掃除機を片手に、少年の部屋のドアを開けた。
高校生男子の部屋としては、片付いている方だった。教科書。ゲーム機。バスケットボールが一個、ホコリをかぶっている。壁に、三年以上前の家族写真が数枚。母親が笑っている。少年も、笑っている。今朝の顔と、同じ人間には見えない。
まどかは掃除機をかけ始めた。
家政婦として、完璧に。
公安として、完璧に。
視線が部屋を走査する。床の摩耗、家具の配置、ゴミ箱の中身(コンビニの袋、エナジードリンク二本、レシートなし―現金主義? 高校生が?)。カーテンレールの埃(窓からの出入りの形跡なし)。そして。
(……学習机)
掃除機の音は止めないまま、まどかは目を細めた。
机の一番下の引き出し。閉まり方が他と違う。ほんの一ミリ、浮いている。引き出しの中に何かを敷いて、底を上げ底にした時の浮き方だ。
触るな、と言われている。
家政婦ならば、触らない。
まどかは掃除機のヘッドを、引き出しの真下、机の脚元に差し込んだ。がた、とヘッドが脚に当たる。当ててみせる。その振動で、一ミリ浮いた引き出しが、二ミリ開いた。
(不可抗力、です)
指一本で、引き出しが滑る。
中には、参考書が詰まっていた。その下。上げ底の隙間に。
真新しいスマートフォンが、一台。
蓮のものではない。蓮のスマホは今朝、本人のポケットで見た。これは契約シールも保護フィルムの跡もない、いわゆる「飛ばし」の端末だ。そしてその横に、厚みのある封筒。中身を確かめるまでもない、この厚みは、札だ。十万はある。
高校二年生の、机の底に。
(……)
その時。
スマートフォンが、震えた。
画面が光る。通知が一件、浮かび上がる。差出人の名前はない、ただ一行。
『今夜23時 いつもの場所 遅れたらわかってんだろうな』
まどかの目から、家政婦が消えた。
代わりに別の何かがそこに宿る。
脅迫の文面に飛ばしの端末、出所不明の現金、レシートのない現金主義、目の下の隈、残される弁当。―点が、線になっていく。この家に届いた脅迫状よりも先に、もっと深いところに、何かがもう入り込んでいる。
家の外からではない。
この家は、内側から、開けられようとしている。
「まどかちゃーん?」
階下から、能天気な声がした。
「三時のお茶にしよ! あたし羊羹切っちゃった! 切ったというか手で割った!アチョーってね」
社長がおやつに食べてね、と持たせた竹の皮に包まれた大きな羊羹には気遣いと下心がその四角い塊にみっちりと詰まっているのをまどかは感じ取っていた。
まどかは〇・五秒で引き出しを元に戻し、掃除機を持ち直した。鏡を見なくても分かる。次に瞬きをした時には、そこに完璧な家政婦の顔があることを。
「––はい。いま参ります」
ドアを閉める、その最後の一瞬。
机の上の家族写真の中で、母親に肩を抱かれた少年が、笑っていた。
