麦茶の耐えられない甘さと色覚異常:断片2025.12.5
葉嗣が感じるように、麦茶…無論あとからなにも添加していない麦茶を甘くて我慢できないと形容する人がどれほどいるだろうか?
COVID-19による味覚障害の後遺症に見舞われた人がそうかもしれない。その多くの場合には何を口にしても甘かったり苦かったりで、その人が、もはや正常な味覚が自分には戻らないのでは?との不安に駆られ、人生の喜びの一部を無理やりにむしり取られたと嘆くことがあるとすれば、それは相応の嘆きだと思う。
物事から教訓を掘り出すことが好きな人は、ものそのものについてわれわれが感受できる直接的な真実などない、全ては初めから決まっている(または知らないうちに誰かに決められた)ことをトレースさせられているだけという、括弧入りの真実を見つけた気になるかもしれないし、現象学のエッセンスを理解したと思うかもしれない。
味覚があらかじめの嘘か幻でしかない甘さや苦さに覆われてしまって、何が本当なのかが分からなくなる不運。大仰な例を示せばミダス王の触れるものみな金になる苦痛は、過剰のもたらす苦しみでありかつ、この後遺症に悩む人々同様のむしり取られる苦しみであることは、少しでも想像してみれば理解できる。あるいは、過敏さ=過剰さと感覚の鈍麻=欠乏は同じ根を持つと言うことだってできるだろう。
しかし…何がほんとうなのかは不問のまま、うまさ=調和の快適さだけが重要だともいえる。あるいはそうではなくて、ほんとうのことを前に、調和も不調和も同じ偽物であるということに気付くことが大事なのか?
葉嗣の味覚は麦茶に過敏で、胃液を吐き戻したあとに水を飲んだときのあの甘い口を思い出させる。麦の香りとそれはまったく不調和で、口に含んだだけで吐き出すほどなのだが、それは麦茶に限ったことであって、棗の無言のからかいー葉嗣の前で美味そうに麦茶を飲みほして、彼の顔色をちらと窺うという、棗らしい残酷さを誘発するものなのだった。
そして彼の色覚異常。葉嗣はグレーとピンクの区別が困難だった。彼はピンク色の雲に覆われた曇天をいつも見ることができた。それからLa Vie en roseは、灰色の人生でもあり得た。
