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本に愛される人になりたい(111) 半藤一利「幕末辰五郎伝」

 この「本に愛されたい」シリーズの第109話では村上元三「勝海舟」を、第110話では村上元三「次郎長三国志」を取り上げ、今回の第111話では、浅草を中心とした一帯を仕切った「を組」の同組の棟梁、新門辰五郎の伝記、半藤一利「幕末辰五郎伝」の話となります。
 第110話の冒頭に書いたとおり…「近々執筆を始めたい小説のために、勝海舟、新門辰五郎と清水次郎長の関連資料を読み込んでいて」、今回は本書の話となりました。
 新門辰五郎(中村金太郎)が父を亡くした後、浅草十番組「を組」の頭、町田仁右衛門の元へ身を寄せ、火消や喧嘩の仲裁などで活躍する金太郎を仁右衛門が目にかけ婿養子にし、辰五郎の名を与えられたところから本書の話が始まります。やがて、後の徳川慶喜に目をかけられ、終生慶喜を手助けする人生を送ることになります。幕末から明治維新にかけての日本史の小説は数多くありますが、江戸の火消しの大親分だった新門辰五郎の生き様から見たその歴史の流れは、新鮮でもあり、そして、江戸っ子のきっぷの良さ溢れる心地よさも感じられます。私たちが忘却しているとても大切な、庶民のスジをとおす生き方のひとつも学ぶことができます。
 幕末から明治維新という時代が大きく変わるとき、新門辰五郎は絶えず徳川慶喜の側に仕え、慶喜が京都にいるときは同じく京都に別宅を構え、大阪でもまた大阪城に篭ります。鳥羽伏見の変で幕府が敗北し慶喜が大阪から船で江戸へと戻るとき、幕府軍が馬印を大阪城に忘れたことを知り、乾分たちとともに辰五郎は、燃え盛る大阪城に入りその馬印を手にするや、東海道を江戸へと帰還する話は、なかなか感動ものです。
 朝敵となった徳川幕府の本拠の江戸へと官軍が迫るなか、勝麟太郎は新門辰五郎と相談し、西郷隆盛との江戸城無血開城の会談が不調に終われば江戸に火をつけて欲しいと、勝麟太郎は新門辰五郎に話をします。作戦決行の合言葉は「虎虎虎」、中止なら「豚豚豚」だったようです。
 さて、ここからは、本書には詳細が語られていない新政府誕生後の話で、しかも日本人のほとんどが知らない話。新政府から「旧幕臣を10日以内に江戸から退去させよ」という厳しい要求に対し、勝海舟は民間や個人のネットワークをフル活用して数万人にのぼる旧幕臣とその家族の陸路・海路での大移動を成し遂げました。江戸から駿府まで、三万人近い幕臣や家族を移住させるという大事業でした。勝海舟から依頼を受けた新門辰五郎は陸路の先導と安全確保を受け持ちました。江戸の町火消し(を組)を率い、裏社会や侠客にも絶大な影響力を持っていた新門辰五郎は、主に陸路(東海道)の移動を先導しました。 例えば、①道中の警護と道割:当時はまだ戊辰戦争の最中であり、東海道には新政府軍や過激派がたむろしていました。辰五郎は自身の火消しの人脈や子分たちを動員し、幕臣の家族や荷物が安全に通れるよう街道の警備を行いました。そして②宿場町との調整:途中の宿場町に対して事前に交渉を行い、大量の移動者が寝泊まりできるよう宿や食料の手配(道割)を進めました。この勝麟太郎の大事業を成し遂げるため、陰になり支えたのが新門辰五郎でした。
 そして、清水次郎長。
 清水次郎長は、勝海舟や新門辰五郎の要請を受けて、静岡へ移住してきた大量の旧幕臣たちの「生活の基盤(職と食)」と「現地の治安」を支える大黒柱の役割を担いました。 例えば、①牧之原台地の大開墾(職の創出):慣れない土地へ移住した旧幕臣たちの多くは、武士としての身分を失い困窮していたので、お茶の開墾プロジェクトのため、広大な牧之原台地(現・島田市や牧之原市など)の開墾を進めました。これが静岡名産のお茶に繋がります。②清水港の警備と治安維持(ロジスティクスの確保)のため、
当時、清水港の警備、そして物流の安全確保を行いました。さらに③旧幕臣の精神的・経済的サポート:次郎長は単なる現場監督にとどまらず、私財を投じて元武士たちの生活をケアしました。特に、静岡で孤立しがちだった旧幕臣たちを温かく迎え入れ、現地の住民とのトラブルが起きないよう仲介役も務めました。さらに、本シリーズの第110話で書いたとおり、咸臨丸事件は、清水次郎長のスジの通し方が如実に現れています。そのくだりは…「咸臨丸事件です。慶応4年8月、旧幕府軍の『咸臨丸』が清水港で新政府軍に襲撃され、多くの乗組員が戦死しました。官軍を恐れて誰も死体を葬ろうとしないなか、「死ねばみな仏」と手厚く葬ったのが清水次郎長です。咸臨丸は勝海舟が渡米の際に乗った、海舟にとって極めて思い入れの深い軍艦なのはいうまでもありません。そして、もうひとつは、江戸無血開城により徳川家の何万人もの旧幕臣やその家族が江戸を追われて駿府へ移り住む「幕臣移民」が発生したとき、清水次郎長は自身の人間関係と子分をフルに活用しました。清水港に上陸した旧幕臣たちのため清水で炊き出しや宿の手配をし、生計を立てるための職の斡旋をし、失業対策として富士山麓の開墾事業を行い、また、これからの時代を見据え、次郎長は旧幕臣の知識人を招き、清水に日本初とされる民間主導の英語塾を開設し、旧幕臣たちの高い知性を地域文化や貿易の発展に活かす場を提供しました。この、旧幕臣の駿府への移住に汗をかいたのが勝海舟です。徳川家長(徳川家達)をリーダーとする「静岡藩」の実質的な最高責任者の一人として、旧幕臣たちを駿府へ移住させ、彼らの生活を成り立たせるために極めて重要な役割を果たしました。」
 世の中が落ち着いたある日、清水に住居を構える新門辰五郎は、清水次郎長と語り合います。「『…殿さんのお供をして船で水戸を離れたのが慶応四年の七月十九日だったと思いやす。ここ駿府(静岡)の宝台院についたのがたしか二十三日。それからはずっとこの地にお世話になって、新 しい明治という時代を追えるなんていままで思ってもみませんでしたよ。嬉しうござんすねえ。朝夕きれいな富士のお山を拝めるなんて…。そのうえに、海道一の親分とうたわれるお手前さんにもお会いする光栄に浴することができた。長生きの甲斐があったと いうもんでやすな』 辰五郎が問われるままに淡々と語っているのは、清水の豪商松本平右衛門宅である。時は明治二年の十二月。慶応四年は九月から明治元年となったから、辰五郎が静岡に居住してから一年半 近くたって、ということになる。六月に駿府は静岡と改められた。話を聞いているのは辰五郎七十歳、次郎長五十歲…そんなことより、清水の、お前さんの一家がやりなすった『死んでしまえば官軍も幕府軍もな いみんな仏さまだ』と、海の上に浮いた幕府側のサムレエの死体を、新政府側が何をいおうと かまわずに、引き揚げなすったという話。あっしはすっかり感じいりましたぜ。さすが東海道一の親分だと」
 幕末から明治にかけ、数多くの小説や映画やテレビドラマがこの時代を描いていますが、どれもこれもが日本史の教科書的に、私には映っています。もちろん、それはそれで面白いのですが、勝麟太郎、清水次郎長、そして新門辰五郎の視点から見えるこの時代は、とても新鮮味溢れており、混乱をきたしている当時のリアルな日常のひとつを感じ取れるものです。
 さて、私の新作小説はどうなるやら。実は、さらに重要な人物が現れ、彼が主人公の物語となります。乞うご期待。中嶋雷太

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