【短編小説】ビッグ・ベンの小箱― 鐘が鳴る前に
ビッグ・ベンの鐘が鳴る少し前。
彼は、コートのポケットを何度も探っていた。
ない。
小さな箱が、ない。
さっきまで確かにあったはずなのに。
人波に押され、立ち止まる余裕もなく、彼は時計塔を見上げた。
——まあ、いい。
今日は、そういう日じゃないのかもしれない。
彼はそう思うことにして、群衆の中に消えた。
⸻
十分後。
ベンチの下で、少年がそれを見つけた。
赤いリボンのかかった、小さな箱。
「……落とし物?」
でも、急いでいる。
家族と待ち合わせている時間が迫っていた。
少年はきょろきょろと辺りを見回し、
ちょうど通りかかった女性に声をかけた。
「あの、これ……。
僕、急いでるから、交番に届けてきてくれませんか?」
女性は一瞬戸惑ったけれど、
箱を受け取ると、にっこり笑った。
「分かった。届けるから安心して」
少年はそれで安心したように、走り去っていった。
⸻
女性は、しばらくその場に立っていた。
箱は軽い。
でも、なぜか手のひらに、重さが残る。
落とした人は、きっと大事なものだったんだろう。
さらに少しあと。
彼女は、ふと足を止める。
人波の向こうに、見覚えのある背中があった。
「……ねえ」
声をかけると、彼は振り返る。
「あれ?」
同時に、言葉が止まった。
⸻
「これ、さっき渡されたの」
彼女は、バッグから小さな箱を取り出した。
「ベンチの下で。誰かが落としたみたいで」
彼は、息を呑む。
「……開けてみて」
促されて、彼女は箱を開いた。
中には、指輪。
夜の光を集めたみたいに、静かに輝いている。
彼は、少し困ったように笑った。
「それ、君のなんだ」
⸻
鐘が鳴る。
人々が立ち止まり、空を見上げる。
指輪は巡り、
箱は戻り、
時間は、ほんの少しだけ遠回りをした。
でも、
必要な場所には、ちゃんと辿り着いた。
ビッグ・ベンの下で。
クリスマスの夜に。
了

