🌸【短編小説】アテネ行き、オリーブの窓辺で
失恋の痛みが胸の奥にまだ生々しく残っていた。
けれど、ギリシア行きの飛行機に乗った今、ようやく少しだけ呼吸が楽になっている気がする。アテネの青空や神殿の白い列柱を思い浮かべると、胸の奥がわずかに高鳴った。
「もう泣かない」そう決めて、ひとり旅を選んだのだ。
シートベルトのランプが消え、CAが飲み物のワゴンを押していく。夜便の機内は薄暗く、窓の外に広がる雲海の上には星が散っていた。
そのとき、通路を挟んだ隣の席から、じっとした視線を感じた。
視線の先にいたのは、都会的な雰囲気の美青年。年は同じ二十代くらいか、少し年下かもしれない。色白で、骨ばった指先や首筋まで透明感がある。モデルと言われても違和感のない横顔だ。
目が合うと、彼は小さく笑った。
低く澄んだ声がエンジン音に溶ける。
「ギリシア、初めてですか?」
「……はい。気分転換に」思わず正直に答えてしまう。
「それはいいですね。アテネは再生の街ですよ」
彼が軽く振り向いたとき、耳元に揺れるものが目に入った。
小さなオリーブの葉のような飾り。いや、装飾ではない。淡い光がほんのりと揺れている。
彼の髪にも、薄く金緑の筋が走っているように見えた。
不思議な気配に気づいて、わたしは言葉を失った。
彼は微笑んだまま、紙コップをこちらに差し出す。
「よかったら、どうぞ。オリーブティーです」
見れば、客室乗務員がそんな飲み物を配っている様子はない。
ただ、彼の指先からは、どこか森の香りが漂っていた。
ひと口飲むと、胸の奥に残っていた痛みが、ほんの少しやわらぐ。
不意に、彼の瞳の奥に古代の神殿のような光景が浮かんだ気がした。
「……あなたは――」
その言葉の先を言う前に、機内アナウンスが流れた。
「まもなくアテネに到着いたします」
降機の支度であわただしくなる中、彼の席はもう空になっていた。
代わりに、わたしの膝の上に小さなオリーブの小枝が置かれている。淡い光を宿したまま――。

