【短編小説】 イルカのヘルツ
波の音なんて、耳障りなだけ。
ザザン、ザザン……。
バカみたいに四六時中、年がら年中、
絶え間なく響いてるじゃない?
波の上を飛ぶカモメの声が、
聞こえなくなるじゃない。
◆
あの子とあたしは、
姉妹みたいに育ったの。
あの子は7月、夏の生まれ。
あたしは8月、少し後に生まれた。
だからって訳じゃないけれど、
あの子はいつも姉みたいだった。
おっとり、流される浮き輪みたい。
そして世渡りが壊滅的に下手。
でも時おりお姉さんぶって、
お説教したりするのよ。
あの子の方が余程、危なっかしいのにね。
◆
水産加工場で、毎日魚を捌いていると、
自分が魚になったんじゃないかと思うくらいよ。
染み付いた臭いを感じるには、
もう鼻が慣れちゃった。
けれど、お風呂上がりの石鹸の香りを嗅ぐと
自分がどれだけ魚になっていたか気付く。
「イルカ、海行こう」
「待って、今ボディスーツ着てるとこ」
あたしのあだ名はイルカ。
あの子はカモメ。
湿気た本名で、呼ばれたくないもの。
◆
朝の海は、トビウオの背が輝いてるみたい。
サーフボードを浮かべて、海へ飛び出す。
照りつける太陽は、スーツから内側には
入って来れない。
あたしはカモメの濡れた頬と、
身体にピタッと密着したスーツと、
すこしばかりの胸の突起を見た。
触れられないものほど、
神々しく見えるのはなぜだろう。
彼女の背を追いかけ、波に乗る。
妹が、姉の後を追いかけるみたいに。
◆
「ねぇ、イルカ。
人魚の肉を食べたら不老不死になるのかな」
砂浜に座ってカモメが言った。
「えぇ、聞いたことあるわよ。
でも、おとぎ話ね。人魚なんていないもの」
波飛沫があたし達に降り注ぐ。
あたしは人魚に思いを馳せたけれど、
空想の人魚の顔は、なぜかカモメの顔だった。
カモメは続ける。
「わたし、人魚の肉食べてみたいなぁ。
別に不老不死になりたい訳じゃないけど、
どんな味かなって」
呟くカモメは、今にも
空に飛んでいってしまいそうだった。
「それなら、あたしは食べられてみたいかな」
遠くで聞こえない音が響いた。
◆
仕事で疲れた身体を引き摺って、
ふたりのアパートまで帰ってくると、声がした。
「いつになったら、金返してくれるんだ?」
スドウだった。ケチなヤクザ。
電子タバコの煙をふーっと吐き出す。
臭い。魚よりももっと。
やけに陽気なアロハシャツと、
膝丈のハーフパンツ。色のついたサングラス。
オールバックは時代から浮いているけれど、
彼の世界では最先端なのかもしれない。
「すみません、次の給料日まで待ってください」
カモメは俯き、震える声で言った。
まるで本当に、
カモメになってしまったかのような声。
「店紹介するから、いい加減あっちで働けよ?
まだその歳なら、バリバリ稼げる」
スドウのいい男崩れの顔は、腐ったマグロだ。
切り刻んで、海に沈めてやりたいわ。
◆
「ねぇ、イルカ。
わたし、一生のうちたった一瞬でも、
タトゥーみたいに擦っても擦っても消えない
うつくしい記憶があるといいなって思う」
カモメは風呂上がりの濡れた髪を解きながら、
あたしを見つめた。
「人魚の肉、食べてみたい」
あたしは頷いた。
窓の外からは、波の音が押し寄せてくる。
あたしとカモメの吐息を飲み込んで。
砂が乱れて散らばるように、
シーツの模様も変わっていく。
遠くで鳴き声が聞こえる。
キィキィ、キィキィ。
◆
翌朝、カモメはいなかった。
小さな書き置きには、
『イルカのヘルツ、ありがとう』
あたしは波打ち際に立つ。
カモメの声が遠くなりそうで、
波の音なんて、消えて欲しかった。
了

◆シロクマ文芸部
◆お題:波の音
