🌸【短編小説】秋桜の丘で
大正の世。秋風に吹かれ、丘の秋桜が一斉に揺れていた。
薄桃色の花びらが空に舞い、遠くには赤煉瓦の女学校の屋根が見える。
私は十七、白い襟のセーラー服にえんじのリボン。
勉強は好きだが、家柄のせいでいつもひとりきりだった。
その日、見知らぬ青年に呼び止められた。
「君の父上の会社が、俺の家を潰した」
青年の声は冷たく、握る拳銃のグリップに見慣れぬ紋様が彫られている。
秋桜の花びらのように繊細なその紋。
「花霞の……?」思わず呟くと、彼は息を呑んだ。
青年は二十歳前後、黒い外套にマフラーを巻き、どこか時代遅れの和洋折衷の装い。
髪の隙間に秋桜の花びらが絡んでいる。
「俺の家は、かつて花霞の御家と呼ばれた。花と風に仕える一族だった」
苦い笑みを浮かべたその横顔が、なぜか胸を締めつけた。
風が強くなり、秋桜の中に小さな光が見えた。
花びらをまとった少女が、無邪気に笑っている。
秋桜の精──ふわりと風のように現れ、青年の腕に絡みつく。
「ねえ、あなた、また心を閉ざして人を傷つけようとしてるの?」
「うるさいな、放っておいてくれ」
青年は顔をそらすが、拳銃を握る手が小さく震えていた。
私はその震えに気づき、胸が詰まった。
(この人、本当は撃てないんだ……)
「あなたを止めたい。あなたを救いたい」
自分でも驚くほどの声が出た。
青年がはっとして私を見た。
拳銃の銃口はいつの間にか下に向いていた。
秋桜の精が笑いながら、二人の間に花びらを撒いた。
「散らない花なんてないけど、散る前に咲くこともできるんだよ」
その声が胸の奥にすとんと落ちた。
青年は拳銃を下ろし、目を伏せた。
「……バカなこと言うな」
でもその声は、もう脅すものではなく、弱々しい吐息のようだった。
私は彼の手にそっと触れ、震える声で言った。
「一緒に……生きましょう」
風が再び吹き、秋桜の精は無邪気な笑顔を残して消えた。
丘に残ったのは、彼と私と、花霞の紋が刻まれた拳銃と、舞い上がる秋桜だけだった。
──後年、彼は血のにじむような努力で財をなし、立場を変え、彼女の前に現れることになる。
あのとき秋桜の丘で吹いた風の香りだけが、二人を結ぶ秘密だった。
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