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日記 大学院の話②

大学院生がどんな生活をしているか、日々の細々とした話を書いてみようと思います。こもって実験をしている時間が大半ですが、研究室のまわりで起きる小さなエピソードです。


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ラーメン食べすぎですよ

研究室の後輩に、週末食べたラーメンが美味しかった話をしたら、先輩はラーメン食べすぎですよ、と言われた。そんな、と思った。

同期に話すと「ぼくは週3で食べるけど、きみは多くても週1とかでしょ」と慰められた。それこそラーメンの食べすぎだと思う。もっと健康に気を遣った方がいい。大学の周りには学生が多い街ならではで、ラーメン屋さんと中華料理の店が多い。


進路を決める自信

後輩に「博士課程に行く自信がなくなってしまって...」と言われた。相談されていたのかもしれないし、愚痴のようなものを聞いてほしかったのかもしれない。励ましても薄情な気がしたし、逆に落ち込んでしまいそうな気がしたから「自分で決めるしかないねぇ」と答えた。

夏ごろに博士進学を考えていると言われて、先生と一緒ににこにこしていた。自分が博士に進んでから、研究室の後輩は誰ひとり進学していない。同期も先輩も後輩も、修士を終えて就職した。だから、後輩の進学希望を聞いたときはうれしかった。うれしいことは伝えたが、他人からの何気ないひとことで本人の意志がくしゃっと曲がってしまわないように、何気ないふりをしてきた。その後輩である。

後輩の話は、研究の終着点が見えないというものだった。自分だってどこで終わりが来るのかよくわからなくなることもある。ひとまず目指す目標に向かいつつ、想定外のことが起こりまくるので、適宜現在地を確認して目標もそれに合わせて調整していく必要がある。

きっと、「続けていくこと」が博士課程に行く自信なんだろうなと思う。このまえ博士に進んだ同期たちと話していたときに「我々は、こんな変な道を進んだ人たちだからね」と言われた。たぶん、何気なく言ったものだと思うが、皆なんとなく自覚しているのだ。人生が進むにつれてだんだんと同じような道をたどった人は少なくなり、最後にはひとりになる。道を歩いていくこと、継続すること、それでも険しいことなんだろうなと思う。そこを歩いていくことが、何者かになっていくことなのだろう。


見える苦しみ

久しぶりに分野の若手会に参加した。若手会というのは、近い分野の学生や、講師や助教といった若い先生たちが集まって、研究発表をしたり、先生を招いて講演会を開いたりする。一番大事なのはその後の懇親会パートで、普段は話す機会がない同世代たちと軽食やお酒をつまみながらいろんな話ができる。

サークルの後輩だった人が近隣分野の研究室に入ったらしく、学部4年生ながら参加していた。懇親会で話しかけたら「博士課程に進むか迷っていて、どうやって決めましたか。SNSを見ると苦しそうな院生ばかりが流れてきて悩んでいます」と言われた。自分も院生だし、SNSで苦しそうな院生を眺めている。ただそれで進学をやめようと思ったことはなかった。逆に、こんな辛い状況になり得るのかと知っていることで、いざ自分の身に降りかかりそうになったら、これが噂に聞いていたことかと興奮してしまう。「進研ゼミでやったやつだ!」と同じ。予習して想定できていれば現実は受け入れやすい。

同期にこの話をしたら、本当にまずい事態はネットに出てこないからね、と言われた。うっ、反論できない。おそろしい話だ。


思い出せない話

おどろくほど覚えていないことが多い。院試も覚えてないし、大学受験のことなんてもってのほかで、同級生からも怪しまれるくらいに覚えていない。本当に経験したのか自分でも疑いたくなってくる。ついに「お姉さんは何も覚えていないからねぇ」と同期から哀れまれるようになってしまった。

科目は何を選択したか、参考書は何を使ったか、いつから何をはじめたか、面接では何を聞かれたか、数学の勉強をどうやったか、赤点だった英語をどう克服したか、すべて曖昧にしか答えられない。ノートや本棚を見返せば確かめられるだろうが、自分の頭の中はぼんやりとしてしまって残っていない。

院試の選択科目は何にしましたか?と毎年初夏ごろ、研究室に入ってきたばかりの学部4年生に聞かれる。毎度、よく覚えている後輩に代わりに答えてもらっている。わたしが院試を受けたのはずいぶん前だから、もっと最近やった人に聞いた方がいいよ。過去問の解答と授業ノートなら見せてあげられる。


どこかに行きたい

このごろ、今いる環境に長く居すぎている感覚がどんどん強まっている。縛られているような気がする。それは大学だったりキャンパスだったり友人関係だったりする。

キャンパスを歩いていると、もういないはずの人を空目する。背の高さや歩き方、服装、カバンの持ち方、癖なんかで人を認識しているので、似ている人にあうとハッとしてしまう。通り過ぎていく他人をじっと眺めてしまう。同期、先輩、後輩、もう卒業してここにはいないはずなのに、どうしても目に付くと追ってしまう。

ものが部屋に溜まり続け、思い出もそこにずっと蓄積されていっている。愛おしくもなるが、息苦しさもある。きっと自分は巣立ちの時期を逃しているのだと思う。

これは仕方なくなのだけれど、学会や出張は1人で行くことが多い。だから観光するときもひとり。最近だいぶ慣れてきた。寂しいと思うこともあるし、景色を誰かと一緒に見たいと思ったりするけれど、ひとりで歩けるという感覚は充実感がある。ずんずんと歩く自分の身体に意識が向いている。その充足感。これが日々に足りないものだ。

すみずみまで見通してみたくて目を見開いて観察しているからこそ、今身に絡みつくしがらみを強く感じるのだろうか。ピンと張り詰めた弦のように、意識が構築されすぎてしまっている気がする。少しの変化でその弦が震えて、苦しく感じてしまうのが鬱陶しい。古い皮をスルリと脱ぎ捨てられたらいいのに。


秋晴れの日

駅から外に出ると、これが秋晴れですといった天気。空は青く澄んで、はらはらとケヤキの葉が舞い落ちる。三連休の最終日で、キャンパスに人はまばらだ。門を通ってから建物に着くまでに、4匹くらい犬の散歩とすれ違う。ふわふわと毛足の長い犬を見るとつい目で追ってしまう。医学部前の広場で遊ぶ小さい子に、二匹の犬が興味津々。きっと一緒に遊んでほしいのだろうな、それとも小さい友達だと思ったのかなと想像する。

こんなにも気持ちのいい晴れの日に、きっと自分は暗くなるまで建物の外に出ずに過ごすのだろうと思う。

研究室の入っている専攻の建物につく。坂がちな土地に立っているので、最後の短い坂を毎日えっちらと登っている。学生証をかざして自動扉を開け、正面の階段をトントンと上がって居室に行く。外が意外とあたたかかったので暖房をつけなくてもいいかな、と思ったりする。リュックをデスクの足元に置いて、コートを椅子にかける。椅子に座ってリュックからPCを取り出して、PCスタンドにどすんと乗せてパチリと電源ケーブルをつなぐ。デスクに立ててある実験ノートをとって実験室に降りる。

先週発注しておいた濾紙が届いていてうれしくなる。これで実験の続きができる。乾燥オーブンからファンネルを取り出してくる。ガラス製の筒のようなものだ。新しい濾紙の箱をパチンと開けて、水色の紙に挟まれた濾紙を丁寧に指で挟む。中心にくるように慎重に濾過ビンにのせ、ずれないようにファンネルもそっと乗せる。大きなクリップでぐっと固定する。ホースをポンプにつないで、反対の端を濾過びんに接続する。水場から純水ボトルを取ってきて濾紙をしめらせ、ポンプの電源を入れる。ぶぶぶぶぶとポンプが稼働して、シュッと小さな音がして湿らせた濾紙がぴたりとファンネルに吸い付く。濾紙が乾かないうちに、仕込んであったサンプルを取ってきて、磁石でスターラーが落ちないようにしながら濾紙の上に注ぎ込む。水滴がぽたりぽたりと、ファンネルの下から濾過びんにしたたりはじめる。これを仕込んだら一日以上待つ。

居室に戻る廊下を歩いていたら、先生がやってくるのが見えた。居室の隣が先生の部屋で、ドアを開けようとしているところに出くわす。着てる服の色が上も下も自分とお揃いだった。先生は青っぽいジーンズにカーキ色のパーカー、自分はセーターを着ていた。お互いうやうやしく会釈して隣同士の部屋に入る。居室に戻るとやっぱり少し寒いことに気づいて、暖房を入れた。

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最近は秋めいてきて、景色を眺めるのが楽しいです。少しずつ書いていきたいと思います。

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