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忘れがたく焼きつくものーーギョーム・ブラック論

 先だって映画好きの友人と旅行に出掛けた際、フランス哲学を研究している私の趣味に合わせてか、友人が二本のフランス映画を、鞄に入れてわざわざ持ってきてくれたことがあった。一本はロベール・ブレッソンの『やさしい女』で、もう一本がギョーム・ブラックの『女っけなし』だった。私はそれまでギョーム・ブラックという監督の名前を耳にしたこともなく、その夜が、はじめて彼の作品に触れた夜だった。
 それから少し経ち、たまたま都内の映画館でギョーム・ブラック特集が組まれていることを聞きつけたので、仕事や学業の合間にちょこちょこ足を運び、観れるだけの作品を鑑賞した。『やさしい人』と『みんなのヴァカンス』だけは、どうしても都合がつかず、観ることができなかったが、『宝島』と『リンダとイリナ』と『また会えるよね』と『勇者たちの休息』と『7月の物語』は無事に観ることができ、その結果、すこしずつ、この監督と自分との関係が見えてきたような気がしている。

遅れてやってくる奇跡、あるいは「忘れがたく焼きつくもの」

 結論を先取りすれば、私にとってギョーム・ブラックは、「忘れがたく焼きつくもの」を描く監督なのだろうと思う。実をいうと、私はヴァカンスとビーチとナンパばかりが描かれる彼の題材には、あまりついていけていないのだが、それでも、たとえば黒人の兄弟ふたりが丘を越えて「最期にもここに来たいな」と兄が呟いて終わる『宝島』のラストシーンや、『7月の物語』で、リュシーが一緒に出かけたが仲違いしてしまった友人を待ち、そして合流する夕暮れの道、あるいはパリの留学生たちが奇跡のように息を合わせて踊るキッチンでのコンテンポラリー・ダンスのシーンなどは、いま思い返しても、まさに「脳裏に焼きついた」と語るのがまさに相応しいような記憶として蘇ってくる。これらのシーンはどれも作品の末尾にとっておかれている映像たちであり、前半が先ほど述べた題材との相性で、たいていあまり居心地の良くない思いをしている私のような観客にとっては、その苦虫を噛み潰すような展開の連続から、まさかこんなにも美しい一瞬が地続きにつながって現れるなんて、という奇跡を垣間見たような驚きさえ覚えてしまうのである。
 そういう意味で、「あまりに良い」としか感想が言えないギョーム・ブラックの作品を観た後では、私はどこか、敗北感すら感じながら席を立つことになる。してやられた、あの苦々しさはすべてあの美しい一瞬のための伏線だったのか、というような敗北感だ。だが思うに、これはおそらく私に限って起こっている感想であって、普通に鑑賞している場合には、こんなふうに前半部を終始内心は不満タラタラで観ている人の方が少ないはずであろう。おおむね、作品の三分の二が終わったあたりまでは、私は「この作品は好きじゃない」と思いながらギョーム・ブラックの作品を観ているのだから、おそらく人気監督に対してそんなふうに思う方が少数派に違いない。しかし、その残り三分の一で、いつも(と言いたいところだが、しばしばと言うべきだろう)逆転されてしまうのだ。まるで、奇跡が遅れてやってきたかのように。そして後には「忘れがたく焼きつくもの」だけがあわく残る。その味わいは限りなく切なく、そしてほのかに甘い。

涙一筋分の苦しみ

 もしかすると、ギョーム・ブラックはビーチボーイズのようなポエジーを持った作家なのかもしれない、と考えてみたこともあった。どちらも夏の透き通るような快活さを題材にしながらも、そのうちに秘められたものはあくまでも切ない作品を作っている作家である。この切なさという、一般的に考えればネガティブなものとして捉えられるであろう感情が、夏というポジティブ以外の何ものでもない季節の中でこそくっきりと際立って浮かび上がる、という逆説を、両者は共に描き、歌っていると言ってもいいだろう。凍てつくような冬だからこそ、一本の蝋燭が持つちょうど蝋燭一本分の暖かみが理解できるように、風まで爽やかに弾む夏だからこそ、一筋の涙が持つきっかり涙一筋分の苦しみがよくわかるのだ。冬はとどまる季節だが、夏は過ぎ去る季節である。雪がしんしんと降り積もることがない代わりに、風がなにもかもを運び去り、太陽が新しい一日の始まりを絶えず快活に告げる。夏では何ものも立ち止まることができない。どんなに深い喜びも悲しみも過ぎ去っていかざるを得ず、だからこそ、人はそれを引き留めたいと思い、避けがたく切なくなってしまうのだろう。
 ギョーム・ブラックは、少なくとも今の私にとっては、そのような切なさを描き出そうとし続けている作家のように見える。もっと踏み込んで、はかなさと言ってもいいかもしれない。私は随分前に、時間哲学の観点から「はかなさ」とは何か、ということの考察を行ったことがあるが、そのときのキーワードは「完了しつつある未完了」ということであった。私たちは、つねにすでに、未完了の現在を生きている。しかし生きながらも、いつもその生を「はかない」ものだと感じているわけではない。では、なぜ、私たちは時として「はかない」という感情を抱くのだろうか?当時の私がたどり着いたひとつの結論は、それは未来を先取りして、まだ動き続けているものを、動き終わったものとして認識してしまうところから来るのではないか、ということだった。しかしだからと言って、私たちは物事が終わってしまった地点にいるのではない。まだ物事はリアルタイムで進み続けているのに、なぜか意識だけは、その物事が終わった段階にも位置している。だからこそ、人は「はかない」と目の前の事象を見做してしまうのではないだろうか。「完了しつつある未完了」という言葉に私が込めようとしたのは、大略以上のような消息だった。

「完了しつつある未完了」としてのヴァカンス

 思えば、ギョーム・ブラックが繰り返し描くヴァカンスというものも、それ自体「終わりが決まっているパーティー」なのであって、完了することが定められている未完了なのである。だからこそ、ヴァカンス映画はおしなべて切ない。もしかすると、私たちはヴァカンスの映像を観るとき、無意識のうちに、「このお祭りには終わりが必ずある」ということを思ってしまっているのだろうか。そうでなければ、あれほどの馬鹿騒ぎを一瞬で虚しく観照することなど到底できはしないだろう。
 本来であれば、未完了の現在には完了の予告など存在しないものである。だからこそ未完了であることは生き生きとした、充実した生の条件にもなるのだが、そこに完了の予感が入り込んでくるとき、私たちの生は複雑な味わいを見せ始める。「はかなさ」とはまさにそれであり、ギョーム・ブラックも、ヴァカンスにはそうした「切ない」事情がふんだんに詰め込まれているからこそ、あんなにも飽きることなくビーチにカメラを構えてきたのだろう。
 それと同時に、ギョーム・ブラックは、そのような切ない日々の中に、その切なさを一瞬だけでも忘れさせるような、奇跡のような瞬間はたぶん訪れうるのだ、ということを、温かな視線でいつも見つめているような気も私にはしてならないのである。それは丘の向こうの景色のように、贈り物めいた突然の仲直りのように、あるいは即興のキッチンでのダンスのように、いつだって前触れもなく現れてくる。彼の映画はそのような「どういうわけか顔を出す奇跡」への信頼と、「忘れがたく焼きつくもの」のドラマツルギーによって、成り立っているのかもしれない。

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