「小説家は経験したことしか書けない」について、急に思ったこと。
たまに言われること。「小説家は経験したことしか書けない」問題について。急に思ったことがあるから、書いておく。
私は、そんなわけないじゃん、とずっと思ってきた。なんなら、そんな意見に呆れた気持ちもあった。
「ミステリ作家さんたちがみんな殺人犯だっていうの?ファンタジー作家さんたちは魔法使いなわけ?そんなわけないでしょ」と。
でも、今、ある小説を読みながら、なんだか唐突に「経験したことしか書けないって、そういう意味じゃないんじゃ?」と、突然思って、忘れないうちに書いている。
経験したことしか書けない、というのは、文字通り、「作者の実体験とそれに付随したものしか書けない」というような意味だと思っていた。たぶん、そういう意味なのかもしれないし、経験したことを書くとたしかに小説の強度が増す気がする。
でも、矛盾した言い方になるけれど、小説家にとって、小説はフィクションだけれど事実だ。著者がその世界を作り出しているのだから、現実ではないが、事実ではある。
それで、経験したことしか書けない、というのは、この事実のことなんじゃないか?
あーうまく言えないな。
今読んでいる小説を読みながら、私にこれは書けない。と思ったの。いや、書けない小説なんて山ほどある、というか、自分で書いているもの以外は書けないのだから当たり前なんだけど、技術とか文章のうまさとか文体とか、そういうものではないところにある「事実」が、私とぜんぜん違う、と思った。同じ題材で、同じ物語を書いたとしても、私はこうは書けない。私のなかの事実と違うから。
これは、想像力とか、発想とか、語彙力とか、そういうテクニカルなものではなくて、もっと、著者の根源に関わる、今すぐには作れない何か、としか言いようがない何かだ。生きざま……というのとも違うな。生かされてきかた?どういうふうに扱われて生かされてきたか?
つまりは、小説が著者にとってしっかり事実になっているかどうか、ということなのだと思う。その、著者にとっての事実というのは、実際に経験した実体験ではないのだけれど、でもやっぱり生きてきたなかで触れてきた何か、触れさせられてきた何か、直接ではなくともつながってきた何かが、実体験としては経験したことがないのにあたかも経験したかのような実態をともなって肉体に響くような。そういう瞬間があって初めて、フィクションなのに事実である「小説」が書けるのではないだろうか。
だから、私には一生書けないものもあるし、私が絶対に書けないものを書く人は、私の書くものは書けない。それぞれの事実が違うから。
私は、今からではもう受け取れない、経験できない、手遅れの事実がたくさんある。想像力だけでは補えない。これが私の事実だから。この、私のなかの事実たちが集まって小説になるのだとしたら、人はある意味ではやっぱり、経験したことしか書けないのかもしれない。それは、実体験としての経験ではなく、誰に大事にされたのかとか、誰かを大事に思ったのかとか、誰かを真剣に愛したのかとか、そういう根本的な経験。
うまく言えた気はしていないのだけれど、「経験したことしか書けない」の「経験」は、実体験ではなく、表面的な経験ではなく、魂が経験しているんじゃないか?みたいな、感覚。
小説家のくせに、うまく表現できないな。未熟者です。でも、今たしかに感じたことを、書いておきます。そんなことを考えさせられる小説に出会えたのもまた、素晴らしい読書体験ですね。
いいなと思ったら応援しよう!
おもしろいと思っていただけましたら、サポートしていただけると、ますますやる気が出ます!