【1】戦争は、生きている人にも傷を残すー被爆死した大叔母の謎を解き明かす までの話
今年の1月、こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』、『この世界の片隅に』を読みました。
それで頭に浮かんだのが、被爆死した大叔母さんのことでした。
親族で唯一の被爆者なので、ずっと気にかかってはいたんですが、こうのさんの作品を読んで大叔母のことが一層気になりました。
でも、大叔母のことはほとんどわからない状態なんです。
そこから大叔母の謎を解き明かすことが始まりました。
大叔母は、私の祖母の姉にあたります。
何しろ、その祖母が姉である大叔母のことを、自分の子である父と叔母に話さないまま亡くなったため、どんな方だったのか詳細がわからないのです。
父いわく、祖母の生家ももう知らないだろうと。
小学生のとき、8月6日に「原爆ってどんなだったの?」と私は祖母に聞きました。
そしたら、顔色が変わって、すごくつらそうな顔をして「原爆は……いけんよ」と一言ポツリ言いました。
それから、ずっと黙って辛そうな顔して俯いたままで…
子ども心に「聞いちゃいけなかった」と思いました。
祖母の兄弟は、5人兄弟。
祖母はそのなかで一番末っ子の第5子で、姉にあたる大叔母は第3子。第4子はお兄さんです。
祖母と大叔母は姉妹では歳が近かったので、ある程度仲がよかったんだと思います。
だからこそ、祖母はショックでずっと姉の大叔母のことを封印し続けて生きたのかなと……。
残された手がかりはいくつかありました。
ひとつは、うちに嫁いできた母に、祖母が「生家の家族が広島にお姉さんを探しに行った」とぽつり話したこと。
見つかったのか、会えたのかは、母も当時、幼い私の子育てと仕事で忙しくて話を覚えていないとのことでした。
そしてふたつめは、父が昔、祖母の兄の戸籍謄本をとったときのもの。
これは大きい手がかりになりました。
大叔母さん(仮名・美津子さん)は、古川哲二さん(仮名)と昭和16年に結婚、とあります。原爆が落ちる4年前。美津子さん23歳のときでした。
そして、哲二さんの住む広島市寺町官有という場所に婚姻届提出、とありました。
官有というのは国の敷地内です。父いわく「旦那さんの哲二さんは公務員だったのではないか?」との考察。
みっつめの手がかりはネット検索。
住所がわかったので当時の地図を見ることができました。
当時の寺町官有には、多くの家が立ち並んでいました。
あまりに一軒一軒が狭いので、美津子さんは哲二さんと二人で広島市内に出て暮らしていたのは確実です。
つまり嫁ぎ先、哲二さんのご実家は別にあるということです。
そして、この住まわれていた寺町は被爆地です。爆心地から非常に近い場所でした。どう見ても逃げることはできない場所でした。
こちらが原爆が落ちる前の、美津子さんの家周辺、当時の寺町官有の航空写真になります。
右に見える太田川周辺に沢山の家が立ち並んでいることがわかります。その太田川沿いの家のどれかが美津子さん宅です。(昭和13年の地図(美津子さんが嫁ぐ3年前の地図)で断定できました。)

しかし、原爆が落ちたあとの地図をみると、美津子さんの家はもちろん、並んでいた全ての家がなくなっています…

美津子さん以外にも、沢山の人がいっせいに亡くなったのだ…という現実を突きつけられました。
ちなみに、この美津子さんが住んでいた家一帯、現在も全てなくなっており、Googleマップで見ると川の見える道路が続くだけです。

「今は何もなくても、かつては賑わっていて、その命のほとんどがいっせいに亡くなってしまったのだ…」と、航空写真を見るだけでとてもつらい気持ちになりました…。
そして、ファミリーサーチというサイトで美津子さんと哲二さんの名前を入れると…
二人とも県境のとある市に「埋葬」と書かれた書類が検索結果に出てくるのです。
でも怪しいサイトだったので、その書類は見ませんでした。
お墓があると書かれた市は、祖母と大叔母(美津子さん)の生家からはだいぶ遠い場所で、今でも行くのには1時間半以上はかかる場所です。
おそらく、哲二さんのご実家の古川さんのお宅の墓地だと思われます。
「祖母も1番上のお姉さんも、生家から近い場所に嫁いでいるのに、そんな遠い家に美津子さんだけなぜ…?」と疑問でした。
ですが、父いわく“当時は遠くても県内だったら親戚や知人の紹介とかでお見合いはあり得た”みたいで、偶然にも美津子さんだけ遠くに住む哲二さんに嫁いだのだろうとのことでした。
原爆が落ちて亡くなられたのは、美津子さん28歳のとき。
29歳の誕生日を迎える1か月前でした。
哲二さんとの間に子どもがいたのかはわかりません。
そして手がかりの最後のよっつめは、祖母が残していた写真です。
祖母が亡くなったあと、遺品整理していたら、タンスの中に写真が大事に閉まってありました。
その写真は当時戦争にいっていた第4子のお兄さんを除いて、祖母と美津子さんの母(曾祖母)を囲んで兄弟4人で撮った写真でした。
年齢順で並んでいるようで、後ろに上のお兄さんとお姉さんが、
曾祖母の両隣に祖母と美津子さんがいます。
この写真から美津子さんの顔だけはわかることができました。
美津子さんは眉毛が濃く、クールビューティー系の美人で、顔だけ見るとしっかりされた聡明な方のように見えます。
そしてこの写真の裏に「昭和十七年一月二十日 於 自宅 撮影ス」と祖母の字で書いてありました。
美津子さんがお嫁にいった7か月後のことです。
また、私の母曰く「私が嫁いだ1年目に、おばあちゃんから『嫁いだ初めの年には生家に帰ってもいい』と言われた。そういう風習がおばあちゃんの家にあったんだと思う」ということでした。
その風習で美津子さんが生家に帰り、普段なかなか生家の家族たちと会えないなか、特別な日に兄弟揃って自分のお母さんと写真を撮っていたということがわかりました。
また、この写真は祖母が18歳になる6日前に撮られたということもわかりました。
祖母がどういう気持ちで大事にこの写真をとっておいたのか…今思うと心が痛みます。
封印するような気持ちでタンスの中に入れてたのかな…
長くなりましたが、自力でわかったのはこれだけでした。
なので今回、広島市に死没者名簿に載っているのかだけでも確認をしました。
市から電話があり、美津子さんは死没者名簿に載っていることがわかりました。
それだけでも祖母と美津子さんの供養になったかと思い、ほっとしました。
祖母が美津子さんのお墓に行ったのかどうかはわかりません。
なにしろ祖母は出不精な人だったし…
祖母の家族が美津子さんを探しに行った日か、美津子さんがお墓に埋葬された時点で、祖母の生家と古川さん宅は断絶したでしょうから。
あのとき…私が祖母に聞いて「原爆は……いけんよ」と言って黙ったときの祖母の気持ちがやっとわかりました。
祖母はずっと「お姉ちゃんがあの家に嫁がんかったら…」、「広島市内におらんかったら…」そう思っていたんだと。
お姉さんの美津子さんは急にいなくなって亡くなってしまった。
「お姉ちゃんに、最後に何も言えんかった。生き別れてしもうた」
「お姉ちゃん、痛くてしんどくて辛かったじゃろうに、何もできんで…」
祖母はそう思っていたんだろうなあ…とやっとわかりました。
また、先述した写真にいなかった第4子のお兄さんは、写真の一年後、戦地の中国にて病死しています。
祖母は20歳で、一番年齢が近かった兄と姉を戦争のせいで亡くしていたのです。
祖母の生家は、戦争に巻き込まれ、つらい目にあった家だったのです。祖母はつらかったと思います。本当に。
私が聞いたあのとき、美津子さんと共にきっとお兄さんのことも思い出していたのだと思います。
そして、うちに嫁ぐまで、兄弟でいっぱいだった生家は、一番上のお姉さんも嫁がれ、兄弟は祖母と長男のお兄さんの家庭だけになり…
祖母は出不精ですし、晩年私と一緒に暮らしているのをみていた限り高等学校に行ったとは思えなかったので、娘時代はずっと家にいるだけだったのでしょう。
美津子さんが原爆で亡くなられて、うちに嫁ぐまでの2年間も家にいたようですから、その2年間がとくにつらかったと思います。
2年後、うちに嫁ぐ日に祖母の生家に祖父が迎えに来たそうなのですが、祖母は「行きたくない」と隠れたんだそうです。
その話、「おばあちゃんらしいな」と笑って思っていたのですが、本当は違ってたんだなと…
そりゃあ行きたくなくて当たり前です。たくさんの想い出がつまった家、亡くなったお兄さんお姉さんのいた家から離れたくなかったんでしょう。
祖母は、うちに嫁ぐまでの娘時代に、暗い過去があったんだと…。
いつも記憶のなかの祖母は、私を見て「まあじゃが」(広島弁で、呆れる、あれまあという意味)と笑っていたから、わかりませんでした。
語らなかっただけで「おばあちゃん、そうだったんね…」と思いました。
以後、【2】に続きます。
