しおりを作ればよかった。
娘は、ハンドメイドのアクセサリー作家をしている。
あるとき、
フランス・パリで開催されるジャパンエキスポに出店しないか、
という話が来た。
相談された私は、
迷わず背中を押した。
そして、
娘の付き添いとして、
私もパリへ行くことになった。
娘は、
パリへ持っていく作品を作らなければならない。
ポスターも作る。
ディスプレイも考える。
やることはたくさんあった。
だから私は言った。
「私はフランス語や英語を勉強するね」
観光する時間もあるだろうから、
旅行の計画も私が考える。
本を買って、
語学を勉強して、
行きたい場所を調べて。
私は、そのつもりだった。
本当に。
ところが、
そのころの私は、
仕事へのモチベーションがかなり落ちていた。
休日になると、
何もしたくない。
ひたすらだらだらして、
気づけば一日が終わっている。
明日やろう。
まだ時間はある。
そんなことを繰り返しているうちに、
あっという間に、
渡航まであと2か月になった。
そこから娘と、
ディスプレイや荷物など、
ジャパンエキスポの準備を始めた。
でも、
私がやると言ったはずの
語学の勉強も、
観光の予定も、
ほとんど進んでいなかった。
そして、
そのままパリへ行った。
ツアーで行くのが、
たぶん一番簡単だった。
でも、
節約意識の高い娘と二人で、
ホテルを探した。
飛行機も予約した。
ホテルは、
ジャパンエキスポへ行きやすいところを選んだ。
とはいえ、
会場まではタクシーも必要になる距離だった。
パリの中心部からも少し離れていた。
電車。
バス。
タクシー。
翻訳アプリ。
そして、
ジェスチャー。
分からないことだらけだったけれど、
なんとか移動した。
食事もなんとか調達した。
何度か外食もした。
「メルシー」
「ありがとう」
それだけでも、
意外となんとかなるものだった。
でも、
実際には、
ほとんど娘のアプリ頼みだった。
娘が調べて、
娘が確認して、
娘が道を探す。
私は付き添いとして来たはずなのに、
ほとんど役に立っていなかった。
そんな滞在中、
モンサンミッシェルへ日帰りで行こうという日があった。
電車に乗って、
到着したら数時間観光して、
また電車で帰ってくる。
そんな予定だった。
娘はずっと、
帰りの電車を調べていた。
少しイライラしているのが分かった。
私も一緒に調べ始めた。
そして、
事件は起きた。
乗り換えなければならない駅を、通り過ぎてしまった。
そこから、
どうすれば修復できるのか、
二人で調べた。
何度調べても、
同じ結論になった。
今からモンサンミッシェルまで行くことはできる。
でも、
行ったら、その日のうちにホテルへ帰れない。
駅員さんに泣きついた。
翻訳アプリも使って、
ホテルへ戻る方法を聞いた。
結局、
モンサンミッシェルには行けなかった。
電車代だけを使って、
何を見ることもなく、
ホテルへ戻った。
ホテルに着くころには、
二人とも疲れていた。
娘は、
お腹が空いていて、
何か食べたかったようだった。
でも私は、
先にシャワーを浴びたかった。
険悪な空気になった。
会話もなくなった。
シャワーから戻ると、
娘はベッドで、
私に背を向けていた。
仲直りするまでには、
かなり時間がかかった。
日本にいたころは、
二人でずいぶん話していた。
海外旅行、楽しみだね。
今度はどこに行こうか。
そんな話を、
何度もしていた。
でも、
日本へ帰ってきてから、
私は旅行の話を一切していない。
それくらい、
自分の中では、
失敗した旅行になってしまった。
でも、
フランスであったことが、
嫌なことばかりだったわけではない。
ジャパンエキスポでは、
忘れられない出来事もあった。
娘が作っているのは、
ディップアートのアクセサリー。
ピアス。
リング。
ブーケ。
いろいろな作品を並べて販売していた。
ある男性が、
娘の作ったリングを買ってくれた。
そして、その直後だった。
私たちのブースの、
本当に目の前で、
プロポーズが始まった。
男性が、
片膝をついた。
まるで、
映画のワンシーンのようだった。
私たちは、
何が始まったのかと、
くぎ付けになった。
そして、
プロポーズのあと、
周りから拍手が沸き起こった。
娘と私は、
すぐにそのリングのPOPを作った。
フランス語を調べて、
そこに書いた。
「このリングでプロポーズが行われました」
娘が作った小さなリングが、
知らない誰かの、
人生の特別な瞬間に使われた。
あの光景は、
今でもはっきり覚えている。
フランス語は、
結局ほとんど勉強できなかった。
それでも、
「メルシー」
で笑ってもらえた。
値段を聞かれれば、
あらかじめ用意しておいたプライスカードを指さした。
言葉が分からなくても、
なんとか通じることもあった。
うまくいかなかったことも、
うまくいったこともあった。
何もかも、
初めての経験だった。
楽しかったこともあった。
素敵な出来事もあった。
娘と二人で、
フランスまで行った。
それは、
間違いなく私の人生の中に残っている。
それでも、
モンサンミッシェルのことを思うと、
今でも胸の奥が少し痛い。
あのとき、
私が約束したとおりに、
もっと調べていたら。
電車の乗り換えを、
きちんと確認していたら。
娘だけに、
あれこれ調べさせていなかったら。
そう思う。
そして、
今になって一番思うのは、
とても単純なことだった。
しおりを作ればよかった。
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