見出し画像

【第11回】 野忽那島 景色の魅力③ ~入り江・集落を歩く~ 週末離島暮らし

今回は、島の玄関口「入り江」と、島民が暮らす「集落」を歩きながら、
その風景と暮らしの歴史をたどってみたいと思います。


三津浜港を出るフェリーのデッキに立つと、潮の香りとさわやかな風を感じながら約1時間。

「野忽那島到着」のアナウンスが流れます。
車両甲板に降りると、いつもの船着き場と皿山の姿が、静かに迎えてくれます。

島の地形と入り江の全景

野忽那島案内図
愛媛県中央地方局の許諾を受けて掲載しています。
野忽那島 全景(2025年筆者 撮影)

忽那七島の、中島の大浦港を出発するフェリーから、野忽那島の入り江を正面に、全景を眺めながら到着までの約10分の船旅を楽しめます。

正面に見える島のかたちは、左に小高い「皿山」
右に裾野を広げる「おいらん山」
その間の低地に「集落」が広がっています。

遠くには「高縄山」の山並みが淡く霞み、島全体を見守っているようにも感じられます。
海と山、人の暮らしがゆるやかにつながっています。

1900年頃の入り江と集落

1900年頃の集落 全景(筆者の父親が撮影)

かつて、この入り江には今のような船着き場はなく、現在の船着き場は埋め立てによって形作られました。

小中学校も別の場所にあり、子供たちはそこへ通っていたそうです。
当時の風景を思い浮かべると、今とは違う入り江の様子が浮かびますー。

1970年頃の入り江と集落

1970年頃の集落 全景(1970年筆者 撮影)

1970年頃、小中学校近くに「中波止(なかばと)」に桟橋が整えられ、フェリーは沖に停泊するようになり、
そこからは伝馬船で人や荷物を運んでいました。

冬の荒れた海では波も高く、伝馬船が大きく揺れた記憶が残っています。
便利になった今を思うと、あの頃の不便ささえどこか懐かしく思えてきます。

現在の船着き場

現在の船着き場(2025年筆者 撮影)

現在の港は整備が進み、フェリーや高速船が行き交っています。

朝・昼・夕、それぞれの発着に合わせて響く汽笛は、
今も島の暮らしのリズムの一部として息づいています。

渡海船がつないだ時代

- 明治以前〜明治31年(1898年)ごろまで ー

明治の頃、「渡海船」または「チョキ」と呼ばれる帆船で海を渡っていたそうです。

運航は不定期で、風や波の影響で出帆できないことも多く、無風の日には櫓(ろ)で漕ぎ、乗客も力を合わせて海を渡った話が伝わっています。

急病人が出た際には「押し切り」と呼ばれる特別便が仕立てられ、島民が櫓を漕いで対応したこともあったようです。

島の暮らしは、そうした助け合いの中で、支えられていたことが伺えます。

~ 1898年から1948年~

  • 明治末期までは和船の渡海船が主流で不定期だったそうです。

  • 大正12年(1923年)に中島汽船(中島運輸)が三津浜港や高浜港を起点にした定期航路が始まると、島と本土の行き来は少しずつ安定して行っているようでした。

  • 1919年以降、村民有志や村営主体の海運会社が設立され、運航の安定化や競争・調整があったようです。

ー 昭和23年(1948年)~(令和3年)2021年まで ー

昭和23年(1948年)に「渡海船(とうかいせん)」運航を開始。

当時は、地元の木造の三津浜港に通う「渡海船(とうかいせん)」が2隻(上田丸と八幡丸)と、北条に通う渡海船が2隻(有馬丸と小林丸)でした。

前方に見える波止が「沖波止」、手前が「荒木波止」(2025年筆者 撮影)

上田丸と八幡丸は「沖波止」に停泊、有馬丸は「荒木波止」に停泊、小林丸は小中学校近くの「中波止」が停泊場所でした。

~  「渡海船」は島民にとっての生活の生命線  ~
渡海船は単なる交通手段ではなく、通院・通勤・生活必需品や物資輸送・冠婚葬祭など、生活の生命線とも言える重要なインフラ。

  • 家族単位で運営されることが多く、船主と乗客の間には、自然と信頼関係が育まれていったという。

  • 上田丸と八幡丸の運航は交代で行われ、独占を避ける配慮もあり、島ならではの距離感が感じられる。

    昭和~平成~令和にかけ、3代にわたって渡海船営業をした船もあり、
    人口減少などを背景に、2021年にその役目を終えたという記録があります。

中島汽船の誕生と現在

中島汽船と船着き場からの入り江の風景(2025年筆者 撮影)

昭和33年(1958年)、旧中島町の「中島町営汽船」が設立され、
忽那諸島の6つの有人島と松山市を結ぶ生活航路が誕生しました。

約半世紀にわたり、島民の通勤・通学・通院・物流を担う大切な航路として活躍。
平成16年(2004年)、松山市との合併を機に民営化され、現在は「中島汽船株式会社」として受け継がれています。

入り江を歩く

ー 船着き場からの入り江 ー

船着き場からの入り江の風景(2025年筆者 撮影)

ー 船着き場近くの「中波止」とタコつぼ ー

中波止の風景(2025年筆者 撮影)
中波止近くのタコつぼ(2025年筆者 撮影)

ー 旧野忽那小学校跡 ー

中波止近くの野忽那小学校跡(2025年筆者 撮影)

ー 宇佐八幡神社の鳥居  ー

野忽那小学校跡近くの宇佐八幡神社の鳥居(2025年筆者 撮影)
中波止から南に移動途中 ーお寺近くの入り江(2025年筆者 撮影)
1900年頃 ーお寺近くの昔懐かしい砂浜の様子(1900年頃 筆者の父親が撮影)

かつて広がっていた入り江の砂浜は姿を変え、防波堤と階段が整えられ、懐かしい時代とは様子が変わっています。

かつては、潮が引き潮になると広い砂浜があらわれ、木造船の手入れをしたり、船底の貝殻やフジツボを「焼き落とし」していました。

子供時代は砂浜に集まって遊んだり、魚の餌となるゴカイを掘ったり、アサリを採ったりした記憶がよみがえります。

ー 入り江の南側から見る集落 ー

入り江の南側から見る集落①(2025年筆者 撮影)
入り江の南側から見る集落②(2025年筆者 撮影)
入り江の南側から見る沖波止と入り江の西側の景色(2025年筆者 撮影)
1970年頃の別荘と重ね岩➀(1970年頃 年筆者 撮影)

1970年頃の別荘は、島民の親族が所有。
海の潮の干満を利用した生け堀りがあり、海の魚が泳ぐ姿も眺められました。
今は、所有者が変わりモダンな別荘に造り替えられています。

重ね岩➁(2025年筆者 撮影)
浮き桟橋から見える重ね岩➂(2025年筆者 撮影)
集落の中所~ぬかば浜の景色(1970年頃 筆者 撮影)

右奥がぬかば浜。
ぬかば浜海岸は松が多くて、「白砂青松」の言葉のとおりでした。

阿弥陀仏(通称:あんだぶ)ー芋子水道から島への入り口付近(2025年筆者 撮影)

夕暮れ時、「中波止」に釣り人が立ち、睦月島の向こうに沈んで行く夕日は、今も昔も変わらず、島の一日を静かに締めくくっています。

中波止の夕景(2025年筆者 撮影)
睦月島に沈む夕日(2025年筆者 撮影)

おわりに

第5回、第7回、第11回の、3回にわたってお届けしてきた「野忽那島の景色の魅力」。

今回(第11回)は、入り江と集落を中心に、過去から現在の変遷をお伝えしました。

島の歴史を知ることで、いつもの風景が少し違って見えるから不思議です。

そんな気づきもまた、筆者の生誕の島をより深く知る楽しみのひとつ
であり、野忽那島を想う人が少しずつでも増え、
その想いが島の未来へとつながっていくことを願っています。

次回予告

【第12回】2日間の暮らし方〔Part3〕~早春~ 週末離島暮らし
をご紹介します。


※)投稿順マガジンを選ぶと、投稿した順番に読むことができます。


筆者執筆 関連記事

1.人生100年時代の賢い生き方「人生の羅針盤」の記事
  はこちら:https://note.com/tk_mentor_note


チップで応援してくださる方で、 
note未登録会員の方は以下の登録手順を確認ください!
👉 [チップ登録手順記事へのリンク]


いいなと思ったら応援しよう!

toyoken_ritogura_note 読んで共感いただけたら、気軽にチップで応援していただけます。 いただいたチップは離島振興の資金に充て、収支や使途を報告します。 応援が島の未来を支えます。