【第11回】 野忽那島 景色の魅力③ ~入り江・集落を歩く~ 週末離島暮らし
今回は、島の玄関口「入り江」と、島民が暮らす「集落」を歩きながら、
その風景と暮らしの歴史をたどってみたいと思います。
三津浜港を出るフェリーのデッキに立つと、潮の香りとさわやかな風を感じながら約1時間。
「野忽那島到着」のアナウンスが流れます。
車両甲板に降りると、いつもの船着き場と皿山の姿が、静かに迎えてくれます。
島の地形と入り江の全景

愛媛県中央地方局の許諾を受けて掲載しています。

忽那七島の、中島の大浦港を出発するフェリーから、野忽那島の入り江を正面に、全景を眺めながら到着までの約10分の船旅を楽しめます。
正面に見える島のかたちは、左に小高い「皿山」、
右に裾野を広げる「おいらん山」。
その間の低地に「集落」が広がっています。
遠くには「高縄山」の山並みが淡く霞み、島全体を見守っているようにも感じられます。
海と山、人の暮らしがゆるやかにつながっています。
1900年頃の入り江と集落

かつて、この入り江には今のような船着き場はなく、現在の船着き場は埋め立てによって形作られました。
小中学校も別の場所にあり、子供たちはそこへ通っていたそうです。
当時の風景を思い浮かべると、今とは違う入り江の様子が浮かびますー。
1970年頃の入り江と集落

1970年頃、小中学校近くに「中波止(なかばと)」に桟橋が整えられ、フェリーは沖に停泊するようになり、
そこからは伝馬船で人や荷物を運んでいました。
冬の荒れた海では波も高く、伝馬船が大きく揺れた記憶が残っています。
便利になった今を思うと、あの頃の不便ささえどこか懐かしく思えてきます。
現在の船着き場

現在の港は整備が進み、フェリーや高速船が行き交っています。
朝・昼・夕、それぞれの発着に合わせて響く汽笛は、
今も島の暮らしのリズムの一部として息づいています。
渡海船がつないだ時代
- 明治以前〜明治31年(1898年)ごろまで ー
明治の頃、「渡海船」または「チョキ」と呼ばれる帆船で海を渡っていたそうです。
運航は不定期で、風や波の影響で出帆できないことも多く、無風の日には櫓(ろ)で漕ぎ、乗客も力を合わせて海を渡った話が伝わっています。
急病人が出た際には「押し切り」と呼ばれる特別便が仕立てられ、島民が櫓を漕いで対応したこともあったようです。
島の暮らしは、そうした助け合いの中で、支えられていたことが伺えます。
~ 1898年から1948年~
明治末期までは和船の渡海船が主流で不定期だったそうです。
大正12年(1923年)に中島汽船(中島運輸)が三津浜港や高浜港を起点にした定期航路が始まると、島と本土の行き来は少しずつ安定して行っているようでした。
1919年以降、村民有志や村営主体の海運会社が設立され、運航の安定化や競争・調整があったようです。
ー 昭和23年(1948年)~(令和3年)2021年まで ー
昭和23年(1948年)に「渡海船(とうかいせん)」運航を開始。
当時は、地元の木造の三津浜港に通う「渡海船(とうかいせん)」が2隻(上田丸と八幡丸)と、北条に通う渡海船が2隻(有馬丸と小林丸)でした。

上田丸と八幡丸は「沖波止」に停泊、有馬丸は「荒木波止」に停泊、小林丸は小中学校近くの「中波止」が停泊場所でした。
~ 「渡海船」は島民にとっての生活の生命線 ~
渡海船は単なる交通手段ではなく、通院・通勤・生活必需品や物資輸送・冠婚葬祭など、生活の生命線とも言える重要なインフラ。
家族単位で運営されることが多く、船主と乗客の間には、自然と信頼関係が育まれていったという。
上田丸と八幡丸の運航は交代で行われ、独占を避ける配慮もあり、島ならではの距離感が感じられる。
昭和~平成~令和にかけ、3代にわたって渡海船営業をした船もあり、
人口減少などを背景に、2021年にその役目を終えたという記録があります。
中島汽船の誕生と現在

昭和33年(1958年)、旧中島町の「中島町営汽船」が設立され、
忽那諸島の6つの有人島と松山市を結ぶ生活航路が誕生しました。
約半世紀にわたり、島民の通勤・通学・通院・物流を担う大切な航路として活躍。
平成16年(2004年)、松山市との合併を機に民営化され、現在は「中島汽船株式会社」として受け継がれています。
入り江を歩く
ー 船着き場からの入り江 ー

ー 船着き場近くの「中波止」とタコつぼ ー


ー 旧野忽那小学校跡 ー

ー 宇佐八幡神社の鳥居 ー



かつて広がっていた入り江の砂浜は姿を変え、防波堤と階段が整えられ、懐かしい時代とは様子が変わっています。
かつては、潮が引き潮になると広い砂浜があらわれ、木造船の手入れをしたり、船底の貝殻やフジツボを「焼き落とし」していました。
子供時代は砂浜に集まって遊んだり、魚の餌となるゴカイを掘ったり、アサリを採ったりした記憶がよみがえります。
ー 入り江の南側から見る集落 ー




1970年頃の別荘は、島民の親族が所有。
海の潮の干満を利用した生け堀りがあり、海の魚が泳ぐ姿も眺められました。
今は、所有者が変わりモダンな別荘に造り替えられています。



右奥がぬかば浜。
ぬかば浜海岸は松が多くて、「白砂青松」の言葉のとおりでした。

夕暮れ時、「中波止」に釣り人が立ち、睦月島の向こうに沈んで行く夕日は、今も昔も変わらず、島の一日を静かに締めくくっています。


おわりに
第5回、第7回、第11回の、3回にわたってお届けしてきた「野忽那島の景色の魅力」。
今回(第11回)は、入り江と集落を中心に、過去から現在の変遷をお伝えしました。
島の歴史を知ることで、いつもの風景が少し違って見えるから不思議です。
そんな気づきもまた、筆者の生誕の島をより深く知る楽しみのひとつ
であり、野忽那島を想う人が少しずつでも増え、
その想いが島の未来へとつながっていくことを願っています。
次回予告
【第12回】2日間の暮らし方〔Part3〕~早春~ 週末離島暮らし
をご紹介します。
※)投稿順マガジンを選ぶと、投稿した順番に読むことができます。
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