見出し画像

【掌編小説】昨日の私へ⌇拝啓文芸部

この世界では、感情が完璧に管理されて
いた。


人々の胸には、生まれたときにペース
メーカーが埋め込まれる。


怒りすぎない。
喜びすぎない。
悲しみすぎない。


心拍も感情も、すべて一定。


その科学者も、例外ではなかった。


ある日、彼は古い写真を見つけた。


そこには、幼い頃の自分と、もういない両親が写っていた。


懐かしいような気がした。


けれど、胸は何も動かなかった。


笑うことができない。


涙も出ない。


科学者は初めて、世界のほうを疑った。


そして極秘に研究を始めた。


ある石を創ることにしたのだ。


笑涙石しょうるいせき」。


そう名付けた。


何年もかけて、何度も失敗して、ようやく、
ひとつの石が完成した。


もう長くはない科学者は、震える手でそれを強く握った。


その瞬間。


胸の奥で、何かが弾けた。


笑みがこぼれた。


涙が出た。


笑いながら、泣いた。


悲しい。


嬉しい。


寂しい。


懐かしい。


知らなかった感情が、一気に押し寄せて
きた。


「これが、人間か……」


科学者はまた笑った。


そして泣いた。


充分に笑って。


充分に泣いて。


満足したように、静かに息を引き取った。


壁には、文字が残されていた。


『昨日の私へ』


その下には。


『明日の私は、初めて笑い、泣くことに
なる。私は人間だ』


それから、100年。


人類は、ようやく自分たちの過ちに
気づいた。


感情を管理し続けた結果、人々は悲しみ方を忘れた。
喜び方を忘れ、誰かを愛することさえ忘れていた。


ある日、廃墟となった研究施設から、ひとつの記録が発見された。


「笑涙石」。


それは、失われた感情を取り戻すための石
だった。


これで、人類を救える。


研究者たちは、そう思った。


けれど、それは使用済みだった。


効力は一度だけ。


そして、量産方法も分からない。


研究者たちは、石を前に黙り込んだ。


100年前。


ひとりの科学者は、この石によって笑い、
泣いた。


そして、人間として死んだ。


研究者のひとりが、石を握った。


何も起こらなかった。


胸のペースメーカーが、規則正しく鼓動を
刻んでいる。


その音だけが、静かな研究室に響いていた。


誰かが、壁に残された文字を見つけた。


『昨日の私へ』


その先には、何もなかった。





お題に参加させていただきました。
Mr.Qさん、ありがとうございます。




#拝啓文芸部




いいなと思ったら応援しよう!

りゆう⌇不運だけど不幸じゃない 「不運だけど不幸じゃない」をテーマに、頭の中の考えや記憶、気持ちなどをぽこぽこと形にしています。ひとりじゃないんだなと思っていただけたら嬉しいです!

この記事が参加している募集