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『プラダを着た悪魔2』が描いていたもの

2006年、映画『プラダを着た悪魔』のオープニングは、K.T.タンストールの『Suddenly I See』で始まります。

Suddenly I see,
why the hell it means so much to me
唐突に気づいたの、
私はああなりたいんだって

颯爽と街を歩く女性たちと、ベーグルを口に詰め込みながら地下鉄に乗るアンディが交互に映し出される。観客はそこに「階層の差」と「変身への予感」を重ねて見ます。野暮ったいジャーナリスト志望の娘が、シャネルのニーハイブーツを履き、ファッションというコード(暗号)を習得していく。そのプロセス自体が、物語の中心にありました。

では2026年公開の続編は、何を描いていたのでしょうか。

最も気になったのは、ミランダの「譲歩」でした。かつて安物素材を知的な高級品へと変貌させたプラダのように、アンディという原石に眼差しを向け形勢を逆転させてきた帝国の女主人が、今度はビジネスオーナーや数字を持つブランドに頭を下げる場面です。あれは単なる「権威の失墜」ではなく、誰が文化の文脈を作るかというゲームのルールそのものが変わった、という描写として見えました。 

ポール・マッカートニーが最近、「特に才能があるわけでもなさそうな人たちが有名になる」とインフルエンサー文化に苦言を呈していましたが、同じものを感じます。

思い出すのが、前作でミランダが語った「セルリアンブルー」の話です。あなたがおしゃれと無縁だと思っているそのセーターの色は、私たちが決めた、と彼女は言いました。文化には、見えない文脈の層があります。その積み重なりを「コード」として読める人間だけが、ある種の世界に入れた。それが前作の構造でした。

今作でアンディが纏うシャネルは、前作とは少し違う重さを持っているように感じます。コルセットから女性を解放し、自立して働く人間のためのスタイルを作ったシャネルが、アンディの変身の出発点にあったこと、前作でのそれが「解放のための鎧」だったとすれば、今作のそれは、もっと内なる何かです。大勢がスマホひとつでトレンドを消費し、翌日には使い捨てていく中で、彼女だけがコードのある服を着続けている。 それが抵抗なのか、執着なのか、映画では答えを出しません。

終盤、ナイジェルがアンディを「私たちの秘蔵っ子(Our little protege)」と呼ぶシーンがあります。「ファッションは移り変わるが、スタイルは永遠」とシャネルは言いました。

アニメや歌舞伎が繰り返し描いてきた、時代が変わっても自分の価値観だけは譲らない人物像——その「魂の座標」のようなものかもしれません。 

今語られる多くの物語に救世主やヒーローは登場しません。終わった、もしくは終わりゆく世界、アポカリプスの中でどうやってサバイブしていくかです。世界が「魂の座標」と向き合う局面なのかもしれません。

#プラダを着た悪魔2
#プラダを着た悪魔
#シャネル
#魂の座標


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