宦刑に耐えた男、独房で地中海を書いた男、そして銃殺された男 ― 「歴史」をコード化してみた(Pass-2 #37 itu-khistory v0.1.0)
歴史ってやつは、いつも「勝者が書く」なんて言われる。でも今回 ITU Pass-2 開発研究第37弾で読み直してみたら、実際に歴史を書いた人たちの人生のほうが、よっぽどドラマだった。宮刑にされた男、ドイツの捕虜収容所で図書館も使えずに名著を書いた男、原稿を書き終えた直後にゲシュタポに銃殺された男。歴史家、めちゃくちゃハードなお仕事です。
というわけで今回リリースしたのが `itu-khistory` v0.1.0(DOI: 10.5281/zenodo.20308537)。歴史を Hilbert 空間として捉え、モジュラーハミルトニアン K_history で書き直すPythonツールキットだ。
H_history = H_archive ⊗ H_narrative ⊗ H_chronology ⊗ H_method ⊗ H_memory史料(archive)、物語(narrative)、年代(chronology)、方法論(method)、集合記憶(memory)の5つのテンソル積。この式だけ見ると仰々しいが、内容は「歴史家たちが何を目撃し、どう語り、いつと確定し、どうやって確かめ、どう記憶したか」を情報理論の言葉に翻訳しただけ、と思ってもらえれば大体正しい。30本のpytestは全パス(0.25秒)、ITU公理 δS = δ⟨K⟩ も32次元で検証して誤差ゼロ(機械精度)。数式の話は最後にちょっとだけするので、まずは人間ドラマのほうを楽しんでほしい。
古代の三巨頭:探究する男、疑う男、去勢される男
「history」という単語、そもそも語源はギリシャ語の ἱστορίαι(historiai=探究)。命名したのはヘロドトス(紀元前484頃-425頃)、ハリカルナッソス出身。ペルシア戦争を9巻にまとめ、自分の見聞(autopsia)と聞き取り(akoē)を組み合わせて、エジプトからスキタイ、インドまで足を伸ばして書いた。キケロは彼を「歴史の父」と呼んだが、同時代人プルタルコスは「嘘つきの父」とディスった。面白いのは、現代の考古学がヘロドトスの記述をどんどん裏付けていること。悪口を言われた側が2000年後に勝つという、地味に痛快な展開。
一方トゥキュディデスはアテネの将軍だったが、戦に負けて追放された身の上。恨みも込めて(?)ペロポネソス戦争を書くのだが、彼はヘロドトスより厳しい。「目撃者だけを信じる」「神々を歴史から排除する」というルールを自分に課し、「最も真の原因(アレーテスタテー・プロファシス)」を追い求めた。有名なメロス対話の一節、「強者は欲することを為し、弱者は耐えるのみ」は、今も国際政治学で引用され続けている。ちなみに「トゥキュディデスの罠」(米中対立の比喩)という言葉が2017年に広まったのも、彼の名前があってこそ。2500年前の亡命将軍が、まさか米中関係の枕詞になるとは思わなかっただろう。
そしてもう一人、司馬遷。父も宮廷の史官だった彼は、匈奴と戦って降伏した将軍・李陵をかばったことで武帝の怒りを買い、宮刑(去勢)を受ける。それでも彼は自殺を選ばず、『史記』130巻・52万6500字を書き上げた。「この仕事を未完のまま残すよりは、最悪の屈辱を耐えよう」という彼の言葉は、締め切りに追われる全てのクリエイターの心に刺さるはずだ。この「紀伝体」という構成方法(本紀・表・書・世家・列伝の5部構成)は、その後の中国24正史すべてに引き継がれた。1つの屈辱が、2000年続くフォーマットを生んだ。
近代史学の反乱者たち:事実主義、そして事件史への叛逆
19世紀、ランケが「wie es eigentlich gewesen(事実そのままに)」を掲げて史料批判(Quellenkritik)という方法を確立する。彼が1825年にベルリン大学で始めたゼミナール方式は、そのまま現代の博士課程の祖になった。目が見えなくなっても口述で世界史を書き続けたというから、根性がすごい。
その百年後、フランスでマルク・ブロックとリュシアン・フェーヴルが雑誌『アナール』を創刊し、「事件史(政治や軍事の出来事ばかり追う歴史)」に反旗を翻す。地理・経済・人口・心性(メンタリテ)といった長期構造を見よう、というのがアナール派の主張だ。しかしブロックは第二次大戦でレジスタンスに参加し、1944年6月16日、ゲシュタポによってリヨン近郊で銃殺される。死後出版された『歴史のための弁明』にはこんな一節がある。
「現在の無理解は過去の無知の必然的結果である。だが、現在を全く知らないままで過去を理解しようとすれば、人は無益に疲弊するばかりだ」
歴史家として殉じた男の遺言のような文章だ。
アナール派の後継者フェルナン・ブローデルは、第二次大戦中5年間ドイツの捕虜収容所に入れられ、図書館もない中でほぼ記憶だけを頼りに『フェリペ2世時代の地中海と地中海世界』を書き上げた。主役は王ではなく地中海そのもの。彼はここで「長期持続(地理・気候)」「中期持続(経済循環)」「短期持続(事件、深海の上の泡)」という3つの時間の層を提示する。捕虜収容所という究極の「今ここ」から、地質学的スケールの「歴史」を書いたというギャップが、ちょっと胸を打つ。
歴史を測る科学:炭素、年輪、そしてネアンデルタール人のDNA
物語だけでは年代は決まらない。ここで自然科学が参戦する。
ウィラード・リビーは大気中の炭素14が生物の死後一定の速度(半減期5730年)で減っていくことを利用し、放射性炭素年代測定法を確立、1960年のノーベル化学賞を単独受賞した。この技術がトリノの聖骸布を「中世の偽作(1260-1390年)」と暴いたのは有名な話。信仰にとってはちょっと切ないニュースだったが、科学的には見事な解決だった。
天文学者アンドリュー・ダグラスは、もともと太陽活動と気候の関係を調べたかっただけなのに、木の年輪が1年に1本ずつ増えることに着目し、副産物として考古学に革命を起こしてしまう。「本業のついでに別の学問を作ってしまう」タイプの天才は歴史上たまにいるが、彼もその一人だ。
そして現代、スヴァンテ・ペーボ。父はプロスタグランジンでノーベル医学賞を受賞したスーネ・ベルグストロム(非嫡出の関係で、公にされたのはずっと後)。学生時代に指導教官に内緒でエジプトミイラのDNAを抽出していたというエピソードから始まり、1997年にネアンデルタール人のミトコンドリアDNA、2010年にはネアンデルタール人の全ゲノム草稿とデニソワ人のゲノムを発表。現代人(アフリカ以外)は1〜4%のネアンデルタール人DNAを持ち、アジア・オセアニア系の人々は最大6%のデニソワ人DNAを持つ。チベット人の高地適応に関わる遺伝子EPAS1がデニソワ人由来だというのも分かっている。2022年、単独でノーベル医学賞を受賞し、父子ノーベル賞という珍しい系譜(ブラッグ、ボーア、キュリー、コリ、オイラー、シーグバーンに続く7組目)に名を連ねた。
デジタル人文学:地図オタクから始まった革命
元シリコンバレー実業家のデイヴィッド・ラムジーは、1985年から地図を集め始め、2003年にコレクションをネット公開。今では15万点以上の地図・アトラスが誰でも見られる。2009年にはスタンフォード大学に寄贈され、Google Earthに重ね合わせて閲覧することもできる。
2014年にはIIIF(画像国際標準)がスタンフォード、オックスフォード・ボドリアン、大英図書館などによって策定され、今では7000万枚以上の文化遺産画像がこの規格で公開されている。バチカン、パリ国立図書館、大英図書館の写本を、研究者は移動せずに並べて比較できる時代になった。日本の国立国会図書館も2018年に対応済みだ。
さらに面白いのがEPFLのフレデリック・カプランが始めた「ヴェネツィア時間機械」プロジェクト。80kmにも及ぶ州立アーカイブを丸ごとデジタル化し、2019年にはEU全体のプロジェクトに拡大、650以上の機関・50以上の国が参加している。目標は2000年分の都市の歴史をVRで歩けるようにすること。
そして2024年2月、AD79年のヴェスヴィオ火山噴火で炭化し、2000年間誰も読めなかったヘルクラネウムの巻物を、学生3人のチームがAIを使って解読し、Vesuvius Challengeのグランプリを獲得した。炭になった羊皮紙の中からエピクロス派らしき哲学テキストの数行が浮かび上がってきたというのは、歴史ロマンとしてもかなり出来がいい。
138億年を8段階で語る:ビッグヒストリーとITUの立ち位置
歴史学者デイヴィッド・クリスチャンは2004年、ブローデルの「長期持続」をさらに引き伸ばし、宇宙誕生(138億年前)から近代化(300年前)までを8つの閾値で語る「ビッグヒストリー」を体系化した。ビル・ゲイツが彼のTED講演に感動して大金を寄付し、今では米豪の高校で無料カリキュラムとして使われている。ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』(世界50言語、4500万部)も同じ流れの大衆版として知られるが、学界からは「ストーリーテラーが過ぎる」という批判もある。学術と大衆の間の溝は、ここでもいつも通り深い。
ITUの立場から見ると、K_historyはK_universalという最終統合Kのサブシステムであり、その下にK_genome(生命史)、K_qbio(生命化学)、K_cosmo(宇宙論)、K_BH(ブラックホール)、K_QG(量子重力)という階層が続く。各階層に固有のスケールと固有のHilbert空間があり、δS = δ⟨K⟩という同じ公理が貫いている、というのがPass-2の主張だ。ビッグヒストリーが素朴に因果を一本の線でつなぐのに対し、ITUはスケールごとに階層を分けて扱う、という違いがある。
公理検証とまとめ:Pass-2は37/45(82.2%)
今回のK_historyモジュラーハミルトニアンを32次元、10回の摂動(eps=1e-4)でITU公理 δS = δ⟨K⟩ に当てはめたところ、最大相対誤差も中央相対誤差も 0.0(機械精度)だった。Pass-2は累計36から37完了、45分の37(82.2%)まで進み、累計テストは1162件全パス。今回新たにカバーしたノーベル賞はリビー(化学1960)とペーボ(医学2022)の2件、Pass-2全体では合計26件のノーベル賞に接続している。
歴史家たちの人生を並べてみると、共通するのは「今しか見えない現在」と「もう戻らない過去」の間で、なんとかバランスを取ろうとした人たちの記録だということ。宮刑を受けても筆を折らなかった司馬遷、収容所で地中海を書いたブローデル、書き終えた直後に銃殺されたブロック。彼らが積み上げた史料と方法論の上に、いま炭素同位体やDNA解析、AIによる碑文復元が乗っている。K_historyは、その全部を1つのHilbert空間に押し込めようとする、ちょっと欲張りな試みだ。
次回Pass-2 #38は K_anthro(人類学情報理論)。ボアズ、マリノフスキー、レヴィ・ストロースの構造主義、ギアーツの厚い記述、そしてピンカーの「暴力の衰退」論まで扱う予定。お楽しみに。
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