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「私は世界でナンバーワンだから」——草間彌生さん、本当に世界一になりましたね

草間彌生さんが亡くなった。

草間彌生美術館と草間彌生記念芸術財団の発表によると、2026年8月14日、都内の病院で永眠された。97歳だった。亡くなる直前まで絵筆を手放さなかったという。

今日その知らせを知った時、現代アートの一つの時代が終わったのだと思った。

同時に、僕の頭に最初に浮かんだのは、かぼちゃでも水玉でもなかった。

1995年、父の画廊に突然入ってきた、一人の女性の姿だった。

1995年、ハワイ留学から戻った僕が、父の画廊で草間彌生さんに初めて会った日の記憶。

1995年、僕はハワイ留学から帰ってきたばかりで、父が経営していた画廊の留守番をしていた。

その時、画廊では、父の画廊で作品を扱っていた作家の展覧会を開催していた。その作家は草間さんと親しくしていた。

ある日、一人の女性が画廊に入ってきた。

今思えば本当に失礼な話なのだが、当時の僕は草間彌生という作家を知らなかった。派手なメイクが少し崩れ、どこか危うい雰囲気をまとったおばあさんが入ってきた、くらいにしか思わなかった。

すると二階から、その作家と父が慌てて降りてきた。

「草間さん、草間さん」

二人とも大はしゃぎである。

僕は、なぜこの人が来ただけで、父たちはこんなに喜ぶのだろうと不思議に思っていた。

それが、僕と草間彌生さんとの最初の出会いだった。

その後、何度か草間さんと食事をする機会があった。新宿のスタジオの近くで、コージーコーナーにもよく行った。

その頃から、草間さんはいつも言っていた。

「私は世界でナンバーワンなのよ」

僕の記憶の中では、何度も、はっきりそう言っていた。

その作家が「二人展をやりましょう」と誘った時も、草間さんはこう答えた。

「私は世界でナンバーワンだから、あなたとやるわけにはいかないのよ」

もちろん、これは30年以上前の僕の記憶である。一字一句を記録したものではない。

ただ、その言葉の強さは今も忘れない。

当時の僕には、大げさな自信のように聞こえていた。しかし今振り返ると、草間さんは冗談を言っていたのではない。営業のために自分を大きく見せていたのでもない。

まだ世界中の人が草間彌生を知る前から、草間さん自身だけは、自分が世界一になることを疑っていなかったのだと思う。

そして実際に、世界が後から追いついてきた。

1957年の渡米、1959年のインフィニティ・ネットを経て、身体的・反戦的ハプニングは主に1960年代後半に展開された。



今回あらためて調べ直し、僕の記憶の中で混ざっていた年代も整理できた。

草間さんがアメリカへ渡ったのは1957年。翌1958年にニューヨークへ移り、1959年にはブラタ画廊でニューヨーク初の個展を開き、大作の《インフィニティ・ネット》を発表している。

身体を使ったハプニングが本格化するのは、その少し後、主に1960年代後半である。

1966年、草間さんはヴェネツィア・ビエンナーレの会場に、1500個の鏡面球を敷き詰めた《ナルシスの庭》を非公式に持ち込み、「あなたのナルシシズムを売ります」という趣旨で一個2ドルで売ろうとした。

1967年からはニューヨークの公園などで、参加者の身体に水玉を描く「ボディ・フェスティバル」や、裸のダンサーを伴う「アナトミック・エクスプロージョン」を展開した。翌年には反戦のメッセージを前面に出し、1969年にはニューヨーク近代美術館の彫刻庭園で、許可を得ずに《死者を目覚めさせるためのグランド・オージー》を行っている。

絵画だけではない。

彫刻、鏡の部屋、映画、ファッション、新聞、路上での行為、そして自分自身の身体まで、表現のために使った。

草間さんは「日本の女性作家」という枠の中で評価されるのを待っていた人ではなかった。日本人であることを捨てたという意味ではない。日本やアメリカという国の枠に、自分の表現の大きさを決めさせなかったということだと思う。

誰かに前衛芸術家として認めてもらってから、前衛になったのではない。

自分で前衛の場所をつくり、そこへ世界を呼び込んだ。

草間彌生は、自分にしか見えなかった世界を、観客が身体で経験できる場所へ変えた。



草間さんの絵は、技巧だけで説明できるものではないと思う。

もちろん、あれだけの反復を一つの画面に成立させる集中力も、身体性も、色彩感覚も、決して簡単な技術ではない。

けれど、中心にあるのは「上手に描こう」という欲望ではない。

草間さんには、自分に見えるもの、自分を襲ってくる感覚、自分の中に湧き上がる恐怖や執着を、外へ出さずにはいられない切実さがあった。

網も、水玉も、突起物も、鏡の中で無限に増殖する光も、その切実さから生まれている。

草間さんは、見えたものを絵にしただけではない。

自分にしか見えなかった世界を、観客が中に入り、自分の身体で経験できる場所に変えた。

だから、作品の前で美術史の知識を試される必要がない。子どもでも、初めて美術館へ来た人でも、その異様さ、美しさ、楽しさ、怖さを受け取ることができる。

分かりやすいのに、薄くない。

ポップなのに、根にあるものはとても暗く、孤独で、切実である。

草間彌生という作家の強さは、その両方を一つの作品の中に成立させたことだと思う。


1995年は、1993年ヴェネツィア・ビエンナーレと1998年の大規模再評価のあいだにあった。



僕が草間さんに初めて会った1995年は、今から見ると非常に興味深い時期だった。

草間さんはすでに1989年、ニューヨークの国際現代美術センターでアメリカ初の回顧展を開催していた。1993年には第45回ヴェネツィア・ビエンナーレで日本館を代表し、日本館で初めての作家単独展示を行っている。

1995年には、オオタファインアーツで個展「自殺した私」が開催された。翌年以降、ニューヨークでの個展は国際美術評論家連盟アメリカ支部のベスト・ギャラリー・ショーに選ばれている。

そして1998年、ロサンゼルス・カウンティ美術館とニューヨーク近代美術館を中心に「Love Forever: Yayoi Kusama, 1958–1968」が開催され、1960年代のアメリカ美術における草間さんの重要性が、大きな美術史の中へ戻されていった。

つまり1995年の草間さんは、決して無名ではない。

しかし、今のように水玉とかぼちゃを世界中の誰もが知り、美術館に何十万人も押し寄せ、ファッションブランドとの協働が街を覆う存在になる、その途中だった。

僕は何も知らずに画廊の店番をしていた。

草間さんだけは、その先を知っていた。




それからしばらく経ち、2004年。僕は自分の美術事務所を持っていた。

その頃、草間さんのかぼちゃを描いた小さな絵を三点買った。僕の記憶ではサムホールほどの大きさで、赤、青、黄色の三色だった。

一点20万円。三点で60万円。

それを三つつなげるように額装し、75万円で売った。

15万円の利益が出て、いい商売ができたと喜んでいた記憶がある。

今思うと、少し目眩がする。

近年の公開オークションでは、同じサムホールに近い大きさのかぼちゃの原画が、一点で一億円に迫る水準で取引された例がある。

2022年には、2001年制作、22.9×16.2センチの《Pumpkin》が51万6600ポンド、落札当時の為替で日本円にして約7900万円で落札された。

2023年には、1991年制作、15.8×22.7センチの《Pumpkin》が444万5000香港ドル。こちらも落札当時の為替で約7600万円になる。

もちろん、作品の年代、図柄、色、来歴、登録カード、状態が違えば価格はまったく変わる。僕が扱った三点の現在価値は、作品を特定して確認しなければ断定できない。

それでも、「今なら三点で二億円を超えていてもおかしくない」という僕の感覚を、単なる昔話として笑うことはできないほど、市場の桁は変わった。

美術市場とは、本当にそういう場所である。

その時は正しいと思った商売が、20年後には途方もない話になる。

ただ、悔しいというより、草間さんが本当にそこまで行ったことの方がすごいと思う。

観客動員、市場、世界的認知。草間さんが語った「世界でナンバーワン」は、もう誇張には聞こえない。



芸術に公式の世界ランキングはない。だから、誰が一位かを数字だけで決めることはできない。

それでも、草間さんが「本当のスーパースターだった」ことは、感想だけではない。

2024年末から2025年にかけてオーストラリアのビクトリア国立美術館で開催された回顧展は、57万537人を動員し、同館史上もっとも多くの来場者を集めた有料展覧会となった。

市場では、1959年の《Untitled(Nets)》が2022年に1049万6000ドルで落札され、現在も草間作品の公開オークション最高額として確認できる。

オオタファインアーツ、ヴィクトリア・ミロ、デイヴィッド・ツヴィルナーという複数のギャラリーが東京、ロンドン、ニューヨークで作品を世界へつないだ。2021年には三者が同じシリーズの新作を三都市で同時期に紹介している。

そして何より、現代美術に関心がない人でも「草間彌生」という名前を知っている。

「私は世界でナンバーワンなのよ」

コージーコーナーで何度も聞いたあの言葉は、今では誇張に聞こえない。

草間さん、本当に世界一になりましたね、と僕は思う。

セカンダリー市場に関わる美術商として、相場の話より先に伝えたい感謝。



草間さんの訃報を聞き、これから市場がどう動くのかは、正直に言えば気になる。

ただし、作家が亡くなったからといって、作品の価格が自動的に上がるわけではない。短期的には出品が増えることもある。今後は作品の質、年代、来歴、登録、保存状態に加え、財団やスタジオがどのように作品と記録を守り、美術館がどう研究を深めるかが、これまで以上に重要になる。

けれど、今日は相場の予想より先に言いたいことがある。

草間さん、ありがとうございました。

僕らのようにセカンダリー市場に関わるギャラリーが、これまでどれだけ草間彌生の作品で商売をしてきただろう。

ギャラリーには、それぞれ大切にしている作家がいる。それでもセカンダリーをやる以上、市場全体を動かすスーパースターの存在は必要である。

一人のスーパースターがいることで、美術に初めて触れる人が入ってくる。作品を売りたい人と買いたい人が出会う。そこから別の作家へ関心が広がり、若い作家の作品が売れることもある。

草間さんは、世界中の美術館に観客を運んだだけではない。

現代アートの市場に入口をつくり、僕ら美術商にも、長いあいだ仕事を与えてくれた。

これは綺麗事ではなく、美術商としての率直な感謝である。

亡くなる直前まで絵筆を手放さなかった97年。最後まで、作家だった。

草間さんの人生は、簡単に「成功した作家」の一言でまとめられない。

1950年代に海を渡り、1960年代のニューヨークで身体を張り、帰国後も制作を止めず、再評価を待ち、90代になっても新しい絵を描き続けた。

草間彌生美術館の発表には、亡くなる直前まで絵筆を手放さなかったとある。

最後まで、作家だった。

「アーティスト」と聞いた時、未来の人々が思い浮かべる名前の一つに、草間彌生は必ず残ると思う。

1995年、画廊に入ってきた草間さんを知らなかった僕にも、今なら分かる。

父とその作家が、なぜあれほど慌てて二階から降りてきたのか。

なぜ草間さんが、世界でナンバーワンだと言い続けていたのか。

あの人は、自分の未来を誰よりも早く知っていたのだ。

草間さん、本当にお疲れさまでした。

そして、本当にありがとうございました。

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・草間彌生美術館「当館創設者、草間彌生の逝去のお知らせ」(2026年8月27日)
https://yayoikusamamuseum.jp/news/news20260827/
・草間彌生公式サイト「BIOGRAPHY」
https://yayoi-kusama.jp/biography/
・Ota Fine Arts「草間彌生」略歴・1995年展示歴
https://www.otafinearts.com/usr/library/documents/main/artists/72/yayoi-kusama.pdf
https://www.otafinearts.com/exhibitions/year/1995/
・The Museum of Modern Art「Love Forever: Yayoi Kusama 1958–1968」
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/216
・MoMA PS1「Narcissus Garden by Yayoi Kusama」
https://www.moma.org/calendar/exhibitions/4995
・Whitney Museum of American Art「Yayoi Kusama archival material」
https://whitney.org/media/845
・Hirshhorn Museum and Sculpture Garden「Yayoi Kusama: Infinity Mirrors」
https://hirshhorn.si.edu/kusama/the-exhibition/
・National Gallery of Victoria「Yayoi Kusama sets the record…more than 570,000 visitors」
https://www.ngv.vic.gov.au/media_release/kusama-in-the-spot-light-yayoi-kusama-sets-the-record-for-ngvs-highest-attended-ticketed-exhibition-with-more-than-570000-visitors/
・David Zwirner「Yayoi Kusama: Press Release」(2021年)
https://www.davidzwirner.com/exhibitions/2021/yayoi-kusama/press-release
・Phillips「Yayoi Kusama, Untitled (Nets)」「Pumpkin」落札記録
https://www.phillips.com/detail/yayoi-kusama/NY010322/11
https://www.phillips.com/detail/yayoi-kusama/UK010222/125
https://www.phillips.com/detail/yayoi-kusama/180926/
・落札時の円換算に使用した参考為替(2022年3月4日 GBP/JPY、2023年3月31日 HKD/JPY)
https://www.poundsterlinglive.com/history/GBP-JPY-2022
https://www.murc-kawasesouba.jp/fx/past/index.php?id=230331

※1995年の画廊での出会い、新宿での食事、「世界でナンバーワン」という会話、2004年の作品売買は、井浦歳和の個人的な記憶に基づきます。会話は録音等による逐語記録ではありません。日本円は各落札日の参考為替による概算です。作品価格の比較は個別作品の査定ではなく、市場規模の変化を示す参考です。

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〖「かぼちゃの人」だけじゃない!〗草間彌生を語るなら“インフィニティ・ネット”を見よ
https://note.com/roidworksgallery/n/nf15923b814fa

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