逸脱の芸術論 アウトサイダーと都市の美学3
第二章 アール・ブリュットからアウトサイダーアートへ ― 戦後の理性批判
1. 制度の外部に宿る火―デュビュッフェとアール・ブリュット
1944年6月6日、連合軍がノルマンディーの海岸線に上陸。その銃声をきっかけにして、西ヨーロッパ全土を覆っていたナチスの鉄の支配が崩れ始めた。1940年6月から、4年にわたって占領下に置かれたパリは、ナチスの検閲と弾圧の中で息をひそめ、市民と芸術家たちはレジスタンスとして地下に身を隠し、解放の日を待ち続けた。そしてついにその夏、ノルマンディー上陸作戦から2ヶ月後の8月25日、シャルル・ドゴールが凱旋し、パリは歓喜とともに自由を取り戻した。それに続くベルギー、オランダの解放。アルデンヌの激戦を経て、翌年1945年5月、ベルリンでのヒトラーの自害、そして終戦へと歴史は大きく動いていく。
この暗黒のパリ占領時代、40代だったジャン・デュビュッフェは20年近く離れていた画家としての活動に再び身を投じた。この決意自体がナチスの文化、芸術、人権に対する弾圧への強硬なる抗議だった。彼の周囲には秘密裏に活動する知識人や芸術家たちが多くいた。彼はジャン・ポーラン、ポール・エリュアールなど、レジスタンス知識人の核となる人物達と行動を共にしながら、芸術の新しい地平を模索していた。彼はその圧政の重圧の中で、教育や制度の外にある「生の表現」にこそ真の創造が宿ると確信するようになる。そして、戦後すぐにアンドレ・ブルトンなど、名のあるシュールレアリストの支持を獲得し、その理念を公に発表。やがて「アール・ブリュット」と呼ばれる新しい芸術運動へと結実していく。
デュビュッフェが「アール・ブリュット」と呼んだのは、教育や伝統の刷り込みから解き放たれた剥き出しの創造のことである。精神病院の患者、子ども、素人の職人や手工芸家——権威に凝り固まった芸術界の外部にいるがゆえに、既成の美学や様式に縛られない表現。彼はそこに頻繁に現れる閃きを見抜いていた。それは「未熟さ」ではなく「最初の火」、生命の根元から湧き上がる力だった。ただし重要なのは、そうした閃きを見出し、選び、保存し、言葉を与え、配置して見せるという、この「枠組み化(フレーミング)」こそがその本質で、それが「アール・ブリュット」であったということである。子供の絵や、精神病患者の絵は、当然、それだけではただの子供や精神病患者の絵なのだ。デュビュッフェは、その「無垢」を損なわせない最小限の言葉で、それを近代芸術の外部に「置き直す」方法を模索したのである。
パリ解放後、ドゥビュッフェはまず、戦時中から関心を寄せていた病院や施設を訪れ、周辺に生きる人々の作品を収集、記録し、アーカイブ化した。スイスやフランスの精神科医が保管していたコレクションは早い段階から彼の編成に組み込まれた。また南仏サン=タルバン病院を訪れ、収容者オーギュスト・フォレスティエらの作品と出会う。そこは戦時中からポール・エリュアールなど、レジスタンスの知識人たちが出入りした避難地。のちにプーランクの《人間の顔》(Figure humaine)に結実した、あのエリュアールの詩に出てきた避難地だ。
そして、1947年にはパリ、ヴァンドーム広場のルネ・ドルワン画廊の地下にて、収集された精神病患者や未訓練の作り手たちの作品群が初めて体系的に公開された。この時、涼しげな美術館的枠組みではなく、地下室の熱気そのままに、ついに姿を表した「アール・ブリュット」が人々の心を揺さぶったのだった。
翌1948年にアンドレ・ブルトンなど、著名なシュールレアリストたちと共に Compagnie de l’Art Brut ( アール・ブリュット・カンパニー) を正式に立ち上げ、収集・展示・出版を統合する拠点が整った。こうしてアール・ブリュットは、個人の問題提起を超え、持続的な運動体としての基盤を築いたのである。
ここでシュールレアリズムについて触れないわけにはいかないだろう。1924年に出版された「シュールレアリズム宣言」において、詩人アンドレ・ブルトンは、夢や無意識、狂気を芸術の源泉と位置づけ、自動記述や偶然性の実験を通じて、理性中心であった当時のヨーロッパ文化を乗り越えようと呼びかけたのだった。Sur réalisme (シュールレアリズム) とは英語で Over real-ismで、 オーバー・リアル、つまり通常、現実だと考えられていることを超えたところに真実を見出そうという芸術運動である。
これは、当時ヨーロッパの知的階級で空前の流行だったフロイトの心理分析、夢分析にヒントを得ている。彼らは夢に現れる象徴など、無意識の世界に属することを扱うことで「理性の世界」という非常に限定された枠組みを超えて真実に迫れるのではないかと模索したのである。
これは1920年代のパリでとても大きい芸術運動に発展し、詩人ではブルトンの他に、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアールが追従し、画家では、ミロやサルバドール・ダリ、また写真家ではマン・レイなども参加している。
少し時代が前後してわかりにくいが、「シュールレアリズム宣言」を出版した当時のブルトンは若干28歳で、戦後、デュビュッフェがアール・ブリュットを提唱した時には、この両者は2人とも40代である。つまりブルトンは、若い頃から芸術界の中心にいた有名人で、ある意味「思想的なスター」だったわけだが、その当時芸術界に完全に背を向けていたデュビュッフェと同世代なのである。
戦前にシュールレアリズムが「狂気」や「病的」などと言われていた像を芸術の源泉としてすくい上げていなかったら、戦後すぐにアール・ブリュットが理解されることはなかっただろう。そういう意味でアールブリュットはシュールレアリズムの系譜から発展した一形態と見ることができる。事実、完全に無名だったデュビュッフェがそれを提唱した時、ブルトンの理論的威信が加わってこそ、運動として社会的に広く認知されたのである。
ただ、この2つの運動には決定的な違いがあり、それを強調しないわけにはいかない。シュールレアリズム運動が芸術界の内部で革命を志し、あくまで知識人の間での芸術運動だったのに対し、デュビュッフェは徹底的に芸術界の外部に留まることにこだわった。権威に一寸でも交わってしまえば、全てが形骸化する。そこにこそ、デュビュッフェの信念があったのである。
歴史を俯瞰してみた時、この芸術運動が一体何だったのか、そして何をもたらしたのかということを判断する事は可能だ。シュールレアリズムが持ち出した問題意識というのは、フロイトの心理学が西洋文化において「無意識」を「発見した」ことに依っている。そして芸術運動として、無意識の世界の広大さや、それまで見捨てられてきたその価値の大きさを再認識しようとしたわけである。それは非常に本質的で不可欠な運動であっただろう。しかし、彼らが採用した方法論、自動記述や、夢日記、偶然性の実験、コラージュなどを挙げてみると、残念ながらそれは幼稚としか言いようがないものだった。東洋では少なくとも3000年前から無意識の領域を扱う技法が確立している。様々な瞑想法や内観、身体技法の体系が精神を統御し、深層意識にアクセスするため、連綿と受け継がれてきたのである。そして釈迦・仏陀による哲学的な類型としても完全に整備されたそれらの技法は、芸術のみならず、職人、武術など、あらゆる文化の中に継承され、使用可能なものとして生きてきた。これらと比べてしまうと、シュールレアリストたちが試みた事は、技法という点においてはまさに素人の遊びに過ぎなかったのである。東洋の伝統ではむしろ無意識の領域を自在に扱えてこそ一人前として認められ始める。それは日本でいえば、剣術や人形浄瑠璃の達人などと言わないまでも、極端な話、我々が日常に触れることができる寿司職人の世界ですら、そのレベルに到達する為の方法論が明らかに確立しているのである。
アール・ブリュットは我々に理性や先入見、権威を志向する意思など、一般的社会人にはまず取り払い難い「ノイズ」がいかに決定的に芸術の表出を阻害するかを明らかに見せてくれた。そして、その理性に阻まれてくすぶっている「原初の炎」を列挙することによって、それらがどのような味わいを持っているのかをまざまざと可視化してくれた。しかし、デュビュッフェがやったのは、芸術そのものではなく収集と提示であり、歴史を振り返れば、それは何か反商売的な芸術商か、特異なキュレーターの仕事に過ぎなかったのである。
しかし、彼らの試みの成功と失敗の過程そのものが美しいのである。そして彼らの通った道が、現代に生きる我々に非常に重要な示唆を与えているのは、東洋人である我々自身も、現代においては理性以外を判断する物差しを持っておらず、本来我々が得意だった筈の無意識の世界の絶大なる力を使役することを忘れつつあるからだ。
2. 理性への反旗―スーザン・ソンタグ「反解釈」の思想
時は流ね、1度は焼き付くされた西ヨーロッパも東ドイツ問題の緊張を除けば概ね復興を遂げた。一方、アメリカは黄金時代に入り、欧米の戦勝国としての栄華が盤石となりつつあった60年代、もう一つ無視して通ることのできない理性批判の芸術論が展開される。
スーザン・ソンタグの「反解釈」(1964年)である。
ソンタグは、当時隆盛を誇っていたマルクス主義的、またフロイトの精神分析的にあらゆるものに解釈を加える傾向に真っ向から異を唱えたユダヤ人女流思想家である。マルクス、フロイトは近代思想の潮流を完全に変えてしまうほどの影響を与えたが、「すべてのことを知性で飼い馴らすことができる」という信念を欧米にもたらしたこの2人のユダヤ人のやったことは「近代の傲慢」であると、ソンタグは噛み付いたのである。
彼女はそのように、思想界で最も強大な力にこそ、反旗をひるがえす、英雄的な思想家、絶対的ヒロインだった。
当時、映画にしても、小説や絵画でも、常に「それが何を象徴しているのか」「その背後にどんな意味ががあるのか」ということが問われ、話題にされる傾向があった。それは、まさに「マルクス、フロイト的に解釈を加えなければ知的とは言えない」という暗黙の重圧が文化人の間にあったたからで、そのような態度である限り作品そのものがまるで二次的なものになってしまう、とソンタグは言うのである。そこには意味こそが本質で、作品は二次的なものであるという逆転が起こってしまうのだ。
彼女にとって、芸術とはまず「感じるべきもの」であり、意味として解体する以前に、その身体的・官能的なインパクトを全身で受け止めるべき対象だったのである。
彼女は言う「肉体的活力と感覚的能力の犠牲において、知性が過大に肥大するという典型的な矛盾に既に侵されているのが、私たちの文化である。」
また、
「芸術に対して、知性が恨みを果たそうとするという試みが、すなわち解釈なのだ。そればかりではない。解釈とは、世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。」
「反解釈」本文からの引用であるが、なんとヒロイックで強い言葉だろう。惚れ惚れしてしまうほどである。
蛇足になることを恐れずに彼女の言葉を解説すれば、すべてのものに解釈を加えるという事は、物の本質を知性、つまり非常に限定された「意識された世界」のみで捉えるということになっているではないか。それでは、世界そのものの豊かさを限定的に捉えることになっているではないか。つまり世界を萎縮させることになっているではないか。と言うのだ。
彼女はこうも言う。
「本物の芸術は、我々の神経を不安にする力を持っている。人は、芸術作品を飼い馴らす。解釈は芸術を手に負えるもの、気やすいものにする。それはあるがままにほっときたがらない俗物根性である。」
この主張は、同時代に台頭しつつあったポップアートやミニマルアートとも共振する。アンディ・ウォーホルの大量複製の絵画や、ジョン・ケージの偶然性の音楽は、意味を探ろうとすればするほど空虚に思えるが、逆に「意味を求めるのをやめる」ことで、初めて純粋な感覚の強度が立ち現れる。「解釈を拒否すること」で初めて、その現代性と強度を発揮したのだ。ソンタグの批評は、そうした現代芸術のリアリティーを非常に的確に言語化していた。
戦後の「理性批判」の系譜は、ヨーロッパのデュビュッフェやブルトンから、アメリカのソンタグへとバトンを渡された。アール・ブリュットが「制度外の表現の火」をすくい上げたのに対し、ソンタグは「作品を制度的解釈から救う」という方向で、同じ問いに立ち向かった。このようにして、ヨーロッパは近代から現代にかけて、理性を絶対視する支配的勢力の強権と、それにあがらう思想家、芸術運動のせめぎ合いで構成されてきた。
現代において、そのどちらに理があるのかということを問い直すことが、いかに本質的問題であるかを読者諸君も感じてくれることと思う。
