見出し画像

温泉郷アルバトロス──湯気の向こうに帰る場所

霧の谷にひっそり息づく、“初めて来ても懐かしい”と感じる帰還の温泉郷。

山を三つ越えた先に、
霧の谷がひっそりと息をしている。
その谷の底に、
湯気が絶えず立ちのぼる温泉郷がある。
名をアルバトロスという。

朝は静かだ。
湯の流れる音が、
まだ眠る森の呼吸と重なり、
谷全体がひとつの生き物のように
脈打っている。

湯守の老人は、
湯の表面を手でそっと撫でる。
その仕草は、
まるで古い友人の肩に触れるような
優しさだった。

湯船には、
三匹のカピバラが肩まで浸かっている。
湯気の中で目を細め、
時折、鼻先だけを湯から出して息をする。
その音が、
なぜか胸の奥の古い記憶を揺らす。
遠い昔、川辺で聞いた水音に
似ているからかもしれない。

宿は古い。
木の柱は黒く艶を帯び、
床は歩くたびにぎしりと鳴る。

女将は湯気の向こうで微笑み、
「ここはね、初めて来ても懐かしいのよ」
と、まるで秘密を打ち明けるように言う。

谷に来た青年は、
湯に肩まで沈みながら、
湯気の向こうの景色をぼんやりと眺めていた。
湯の温度が心臓の鼓動と同じ速さで伝わり、
胸の奥の固くなったものが、
ゆっくりほどけていく。

青年は目を閉じた。
湯気が頬に触れ、
森の匂いが鼻をくすぐる。
その瞬間、
胸の奥に沈んでいた何かが、
ふっと浮かび上がるように軽くなった。

湯船の端で、
カピバラがひとつあくびをした。
湯気がその口元を包み、
まるで雲が笑ったように見えた。
青年は思わず微笑む。
その笑みは、
久しく忘れていた柔らかい笑みだった。

夕暮れになると、
谷はさらに静かになる。
湯気が橙色に染まり、
川の音が子守唄のように響く。

青年は縁側に座り、
夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
その風は、
どこか懐かしい匂いがした。
夏休みの終わりに吹いた風の匂い。
祖母の家の庭で嗅いだ土の匂い。
忘れたはずの記憶が、
湯気の奥からそっと手を伸ばしてくる。

「また来ます。」

青年がそう言うと、
女将は静かに頷き、
湯守は湯気の向こうで手を振った。

アルバトロス温泉郷は、
今日も静かに湯を湧かし続ける。
人も動物も、
疲れた心も、
ここではすべてがゆっくり溶けていく。

湯気の奥には、
いつでも“帰る場所”がある。


<用語解説>
・温泉郷アルバトロス
 山を三つ越えた霧の谷にある静かな温泉郷。
 湯気・森の匂い・古い木の音が重なり、
 訪れた者の胸奥に眠る記憶を
 そっと揺らす“帰る場所”。
 人も動物も心も、
 ここではゆっくり溶けていく。

・カピバラ
 温泉の常連。谷の湯船に肩まで浸かり、
 湯気の中で目を細める。
 鼻先だけを湯から出して息をするその音は、
 川辺の水音のように懐かしく、
 訪れた者の胸奥に眠る古い記憶を
 そっと揺らす存在。
 


──読んでくださった方へ──

インスタでは国やテーマごとにBGMを設定しています。その音楽を聴きながら物語に触れていただけたらとてもうれしいです。


いいなと思ったら応援しよう!