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新卒で入った会社を辞めるまでの話

私は

グラフィックデザイン科がある専門学校を2年制で卒業後、
新卒で印刷会社のデザイン部署に入社、
4年耐えたのち、5年目に突入しようという春に退社した。
約12年前の話。

退社を決めた理由とタイミング

  • 祖父が亡くなった時に休みをもらえなかった

  • 夏風邪をこじらせて副鼻腔炎になった

  • 残業の日々で精神が結構ギリギリだった

  • 上司とは本当に合わなかった

残業は入社してからずっとだった。
定時で帰ったのを数えた方が早いくらい、
全然定時で帰った記憶がない。

残業、残業、残業…

仕事に慣れ出した2年目くらいからひどかった。
上司も先輩も営業さんも全員帰ったあとまで
一人残っていたことが何度もある。

会社の鍵を施錠してから帰ることが増えた。

終電に乗るため駅まで全力疾走。パンプスで。
最寄りは終電が無いので、1駅夜道を歩いて帰る。
車がちょっと走っているが、誰もいない。

終電すら失った日はタクシーで帰る。
毎回5000円かかってた。
会社に請求書を提出すると上司に
「遅かったんだね」と言われたが、それだけ。
残業に対する注意でもなんでもなかった。

しかし、それは当時覚悟の上でこの職業を望んだ。
こういう業界なんだって。それは想像に近かった。
けど、正直ここまでひどいとは思わなかった。
若い子たちからしたら昔ばなしに聞こえるかもしれない。

もちろん先輩を差し置いて
「帰る」などと言える空気でもなく、
「何か手伝いますか」と聞いたら「無い」と言われる。
「今日上がっていいよ」と言われた記憶がほとんどない。

夜遅く帰る。
夜に食べてすぐ寝ると太るのを気にして、
焼き魚だけ食べる日が続いた。
夜に炭水化物を食べないせいで
あっという間に痩せた。幸いまだ食欲はあった。

ちなみにメンバーは私をのぞいて全員男性だった。
事務所の反対側には営業さん数人とお局のデスクがある。

部署のメインの仕事はカーディーラー系。
毎週の様にチラシ・DM・イベント企画の提案。
私は先輩のおさがり案件をこなすのに必死だった。

4年目の暑い夏の日に祖父が亡くなり、
休みをいただきたいと申請したところ、
上司からびっくりする言葉をもらった。

返ってきたらこれ誰が対応するの?

え???

上司:あなたが休んだら、これ誰が対応するの?
私:営業さんには修正を提出したんですけど。
上司:すぐ戻ってくるんじゃないの?休むの?

ここから記憶が無いが、結局休みを貰えなかった。

正直唖然とした。
身内が亡くなったのに、たった1日くれればよかったのに。
私には休む権利無かった?人権無かった?
というか、有給とは???っていう状態だった。
上の上司に直談判すればよかったのか?とかよぎる。

ちなみに有給なんて腐るほど残ってた。
退職する際に有給消化したら
ちょっと使ったことがあったが、1ヵ月程度残っていた。

これが辞めた理由の中で1番デカい。

あとは残業続きで夏風邪をひいた。
夏風邪がなかなか治らなかった。
まぁそのうち治るだろうと思っていたら左の鼻をやられた。

風邪ひいたの?早く治さないと。
帰りな~とか一切無かった。
鬼だった。

社内の女性社員との対応の差

私のいた部署と、もう2つ連携を取っていた部署がある。
その連携を取っていた部署からやってきた人が上司だった。

社員旅行で元の部署にいた女性社員たちと楽しそうに
「久しぶり~元気してた?」とか会話していた。
私と話す時と随分と対応が違う。
まぁ顔なじみだからそんなもんだろ、とは最初思った。

別に明るく話してほしいわけではなかった。
なんかこう、テキトーというか、私に対して雑なのである。
言い表しがたい、雑さなのである。
これは私にしかわからないと思う。

精神ギリギリだった

朝、突然目が覚めなくなる。
気が付いたら8時を回って母に声をかけられ起こされる。
起きれない日がずっと続いた。

電車に乗るとお腹を壊しはじめた。
途中下車してトイレに行くと、ホッとする。
電話してちょっと遅刻しますという会話が増えてしまった。

先輩より先に出社しなきゃいけない、下っ端の宿命がつらい。
9時を過ぎて出社すると罪悪感が積もっていった。
そんな日が最後の1年は続いた気がする。

色んなことが積み重なった年末の休み、
大晦日から新年に変わった瞬間くらいだったろうか。
暖かいこたつで寝っ転がって休める幸せを
きっと噛みしめていたような記憶がある。

もう辞めたらいいんだ!

ちょっとひらめいてしまった!みたいなテンションで、
糸が切れたような、心がボキッと体に響くような嫌な音を
たてて折れたような。そんな感覚。

正月休みが終わって、会社が始まった。

「やっぱ辞めるのどうしよっかな」なんて微塵も思わなかった。
心療内科行ったほうがいいのかなとかは考えたけど
気付いたら辞めることだけしか考えられなくなってた。

この時は将来グラフィックデザイナーとして復職するとか
一切考える余裕が無く、ただただこの仕事から
離れないと私がどうにかなりそうとだけ理解してた。

うつ病一歩手前だったかとか今でも思うが、
うつ病の方は自分がうつ病だと気づかないらしいから
まだ私はうつ病では無かったとは思う。多分。

誰にも相談することなく、気が付いたら
辞表を書くためのレターセットとペンを買いに有隣堂に寄っていた。
仕事の合間に辞表の書き方を調べて、
会社のプリンターで堂々と印刷してやった。

両親には辞表を出した後くらいに
「会社辞めるから」と伝えたけど、何も言われなかった。
母はちょっと悲しそうというか、めっちゃ心配はしてた。

ただ一人だけ、理解者はいた

別の部署に、仕事で関わった先輩がいた。
上司と同じ立場にいる仕事がめちゃくちゃ出来る先輩。
何度か仕事をご一緒させていただいた。
この人とした仕事だけは人生の宝物と言いたいし、
この人に会うためにこの会社入ったのでは?と、
今では思いたい。

しかもめちゃくちゃ気が合う。
最初に配属先を聞かれたときに、こっちにしておけばと
人生でも数少ない「死ぬほど後悔」した。
選択肢を流石に間違えた自分を殴ってでも方向転換したかった。

けれども、こちらの部署もなかなかの残業。
こちらの部署へ通って残業してたら、
長い電車通勤でもっと寿命が縮まっていたかもしれない。

この部署の近くでの一人暮らしも一瞬考えたが、
もらっているお給料では、このエリアの家賃を払っていたら
餓死するんじゃないかと思った。余裕は絶対にない。
専門卒の給料なんてそんなもんだった。

私のいた部署と違う点は、この超絶理解者の先輩がいる。
中年の女性社員が多い&気の合うオジサマ集団だった。

本当に選択肢間違えたじゃん…!って何度も思った。

こちらの部署の人から電話がかかってくる。
私が電話に出る。

必ずと言っていいほど、
「お~〇〇さん元気だね!電話出るの早くていいね!」とか
電話に出るなり、私が真っ先に出るのをわかっていて
「何ラーメンが好き?笑」とか言ってくるのである。

声のトーンで私のメンタルを察してくるのである。
エスパーか???って思った。電話先で泣きかけた。

本当に電話先で先輩とオジサマ集団には癒されてた。
先輩とオジサマたち元気かな…
健康でいて欲しい…。
思い出したら本当に泣けてきた。

そして、この先輩は本当に気をつかってくれた。
仕事の出来る上司はこの人のことだって一瞬で理解した。
タイムカードを切っていないのが社内システムで
バレバレだったのでメールで「早く帰れよー」とか
言ってくれていた唯一の人である。神か。

先輩の爪垢、上司に本当に飲ませたかった…

辞めることを決めた後、先輩に報告のメールをした。
先輩は「こっちに異動願い出せば?」と言ってもらえたが、
先輩にも止められないくらい私の決意は固すぎた。
もう断頭台に登って、首をはめてる状態。
休職願いとか一切浮かばなかった。
辞めるのやーめたとかない。もう腹を括っていた。

辞表を出した日のこと

上司に「お時間ありますか?」と声をかけた1月末の夕方。
応接室に私と上司が入っていく姿を、
他の先輩たちがこちらを見て仕事をしながら
うっすらざわつくのがわかった。

私「3月で辞めたいです」と辞表を出す。
上司「急だね、どうしたの?」
私「あーでこーでこーしてこうこうこうで」
※結構適当なこと言っていた記憶しかないw
上司「そうなんだ…」
  「じゃあ〇〇さん(さらに上の上司)にこれを
   渡しておくね」
私「はい、急にすみませんがお願いします」

もうちょい会話はあった気がするが、覚えていない。
正直10分かからなかった気がする。

席に戻ると、他の先輩たちが
「え?辞めるの??」と驚いていた。
他にも何か聞かれた気がしたが正直記憶が無い。

私はこの時、
正直「この人たち、なんも気づいてなかったんだ」と思ったし、
「そうだよね、この人たち画面しか見てないもんね」とも悟った。
最初から会社にいる間だけのうっすい会話と
付き合いしかないのだからこうなるのは当然の結果である。
コミュニケーションを取れているつもりでいたのだ。

男性4人の中に女性が1人でいるという環境で
もうちょっと気遣いは欲しかったけど、そんな気遣いがあったなら
私はあの職場を、グラフィックデザイナーを辞めていない。

その日の帰り、足取りは軽かったのを覚えている。

しばらくして、上司のさらに上の上司が
「なんで辞めちゃうの!?」という顔をして
こちらの部署に顔を出しにきた。

私を面接してくれたときに、友達と私どちらを採用するか
悩んでいたところ、私を選んだのがこの上司だった。
専門学校からの推薦枠だったので、友達と一騎打ちだった。
私が受かった後、友達が遠くで泣いているのも見た。
申し訳なさはちょっとあったが、この子はその後も
卒業まで普通に接してくれた。

面接してくれたこの上の上司には
ほんの少し、申し訳ありません…って気持ちが滲んだ。

その後から引継ぎの話をした。
1月末に辞表を出し、今の仕事の引継ぎを3月いっぱいで終わらせ、
3月末に別部署の方も一緒にお別れ会を開いてもらった。
(全然中華好きじゃなかったし、プレゼントも嬉しくなかったけど)
わざわざ忙しい仕事の合間を縫って
みんな会いに来てくれたのは嬉しかった。

4月いっぱい有給を消化して、
私のグラフィックデザイナーとしての4年間は
桜が散って緑になる頃にそっと終わりを迎えた。

4年耐えた先には

インターンでお世話になって、ここで働くんだ…!って
私はあのときワクワクしていたのは確かだ。
お手伝いレベルの仕事をさせてもらうだけだったけど、
夏休みの1週間は充実していた。
このデスク、この景色で働くんだって。

けど、春になって入社したその日に想定外が起きた。
新しい上司の配属である。

初日からいい印象も全くなかったけど、
辞める日まで印象が覆ることも、良くなることも全くなかった。
上司は変えられない。替えられない。
最初から最後まで本当に苦手だった。

よく4年耐えたと思う。
全然心を開いてくれない人と仕事をするって
本当にきつい。しんどい。
でも。私がもっと割り切らなきゃいけなかったかもしれない。

少しでもこの人を知ろうとか、会話しようと
こちらが頑張ったところで歩み寄りが感じられなかった。
無理に歩まなくてもよかったのかもしれないけど。

今思えば、歩み寄る必要性は全くないのだ。
合わない人間は絶対にこの世に存在するし、
こちらががんばったところで、心を開くかどうかはわからない。
そして人を変えることは出来ないということは学んだ。

そしてこの上司は最初から最後まで好きになれなかった。
拒絶とか避けられているとかではなくて、
相手にされてない感じに近かった感じがする。

辞めると決めたのは私だ。
私だけの決断。誰に左右されたものでもない。
私の意思で辞めることを決意した。

けど、誰も助けてくれなかったな。
私が助けてって言ったら誰か助けてくれたのかな?
もっと大きな声出さなきゃだめだったかな。

先輩たちの「え?」は一体どんな気持ちの「え?」だったの?
でも「辞められたら困る」とか何も無かったから、
結局あなたたちも上司と同レベルに感じたよ。
気付いてもらおうって考えが甘いのかもしれないけど、
あの場に一緒にいて何も感じなかったのもどうかと思う。私は。

いてもいなくても、いいのである。
私じゃなくていいんだ。って思った。
代わりはいくらでもいるって思った。


「これ誰がやるの?」という上司の言葉は今でも忘れない。

4年耐えた結果、
私が勝手に体調崩して辞めたっていう事実だけ残った。

上司に引き止める素振りは一切無かった。
もうどうでもよかったんだろう。
一緒にいてやりづらかっただろうよ。
そこだけはアンタと同じ気持ちだよ、多分ね。
すげぇいやだけど。

今振り返ると

こんな昔の話、つらつら書いてて未練がましいと思う。本当に。
けど、今はそれだけ頑張ってたんだなとも思う。
時々仕事のことを思い出して未だにイラつくことがある。
必死にしがみついて、もがいてきた私に染みついた記憶。
頑固なシミなので今も取れる気配が無い。

4年間、ずっと握りしめてた手を開いたら何も無かった。

ろくに寄り道も出来ず、
休日にお金を使えずに貯まっていった貯金だけ残った。
今でもストレスを感じると奥歯を嚙みしめる癖が取れない。
夏風邪をひいてこじらせた副鼻腔炎はうっすら残ってる。
寒くなってくると鼻が詰まる。

私が4年間働いて得たものは一体何だったのか。
答えはいつか出るのだろうか。
この答えをいつか出せるのだろうか。
この悔しさみたいなものを活かすことは出来るのだろうか。
タダで終わらせてたまるかという気持ちだけはある。

私は不幸中の幸い、
まだ身近に家族がいた・実家があったから
今もどうにかなっている。

退職した後は家のリフォームのタイミングもあり、
ハロワに通って1年近く休職した。

くたくたに疲れ果てて、もうダメかもって何度も思った。
けど、人生を終了させるボタンだけ押さずに済んでいる。

今もまだ軽く絶望の最中にいるけど、
なるようにしかならないと
開きなおれるくらいには今は元気です。


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