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神武東征は4世紀史実—日向熊襲がヤマト王権を乗っ取った征服劇だ。

神武東征
神武東征は史実なのか?。神武東征といわれるような史実はあったと考える。
それはわざわざ日向を舞台にする神話があることが物語ってる。これが史実でないなら大和を中心にした神話を造れば簡単だっだ。わざわざ日本の辺境の日向を舞台にする必要はないのだ。
「東に日本を統治するのにいい土地があります」「そこが国の中心だ」という翁の助言で「東征」するというのはありえない。大和までの旅は命がけなのだ。そんな理由で「東征」するとは思えない。
また急に日本全体を統治すると言い出すのも腑に落ちない。「そこが国の中心だ」とすでに確定していたのだ。

日向という国
最近、西都原や宮崎周辺から紀元前後から紀元1世紀ごろの鉄剣や銅鏡が多数出土した。紀元前後~紀元1世紀ごろの鋳造跡が多く発見された。土呂久遺跡(高千穂)から紀元前後ごろの鉄や鏡を製造した跡が発見されてる。鉄や銅・すずを生成してたらしいのだ。日向の浜砂は火山系でそうした金属を多く含み、砂から鉄生成するタタラ製法(日本独自の製法)の初期のものや、銅とすずは坩堝炉精錬(砂銅を小型陶器炉で溶解・合金化)で製作されたとしている。紀元前後にはすでに鉄が豊富にあったという事だ。
また、神武東征時に美々津でスロープを作ってクレーンみたいな器具で馬を船に積み込んだという逸話が美々津に残っている。また日南の駒宮神社には神武天皇と愛馬「龍石号」の逸話が残っている。少なくとも神武東征時には日向で馬が繁殖していたのだ。のちに日本一の馬種として天皇ご用達となっている。この馬は朝鮮経由で入ってきた馬とは系列が違って古い南方系とされている。

神武天皇と愛馬「龍石号」


4世紀には鉄を装備した騎馬軍団がいたわけだ。
紀元前後から7世紀の日向は北九州や大和とは違う3~4世紀も先行する日本一の軍事強国だったのだ。

徐福伝説
日向は徐福伝説(紀元前210年)が色濃く残る地域だ。特筆すべきは「徐福が海より来て高千穂に定住す」という伝承があることだ。高千穂(土呂久)は鉱脈が露出していた。そこで日本独特の砂から鉄を製錬するタタラ製法が開発されたのではないか。また徐福は中国の文化一式を積み込んだ大船団だった、家畜や馬も積んでいた。日向に駿馬がいるのもうなずける。

日向から「東征」した理由
古代に日向が繁栄していたのは西都原古墳群でもわかるように3~7世紀の事と思われる。記紀では「熊襲」と呼ばれる勢力である。「熊襲」が記紀に出てくるのは景行天皇による「熊襲征伐」である(4世紀ごろの事)。景行天皇は日向に上陸した(この地名はこの時に景行天皇が命名したと伝わっている)。だが、日向(西都原古墳群)の熊襲の記述はないのだ。鹿児島(隼人)や熊本の熊襲の記述はあるのにだ。
西都原古墳群は日本有数の古墳群であり、九州最大の前方後円墳である「男狭穂塚古墳」「女狭穂塚古墳」がある。これは宮内庁が陵墓の可能性があるとして管理している。景行天皇の墓だとする説がある。
景行天皇が「熊襲征伐」に来て熊襲最強の西都原熊襲に負けて殺されたというのだ。馬や鉄が潤沢にあり、騎馬軍団がいた。大和軍は青銅だったと思われる。軍事力も規模も全く違ったのだ。

天皇軍を倒した西都原熊襲の王はヤマトに大和朝廷という既に確立された権力基盤があることを知り、その地の支配権を狙って乗っ取ることにした。そのために景行天皇が行おうとしていた「熊襲征伐」を継続して九州統一をすることにした。他の熊襲(隼人・熊本)を征伐した。景行天皇軍は実質西都原熊襲軍だった。隼人や球磨をからめ手で打ち取ってる。同じ入れ墨をしている熊襲人だからこそからめ手が使えたのではないか。またその際熊本の熊襲王から熊襲最強の称号「タケル」をもらう事になった。もし景行天皇の王子が「ヤマトタケル」だとすると蛮族と蔑んでいる熊襲の名前を継承するかは甚だ疑問である。同じ熊襲人だからこそ最強の称号の「タケル」を継承したのではないだろうか。そして「大和」を冠に「ヤマトタケル」と名乗ったのだ。

紀元4世紀初め神武天皇(西都原熊襲の王)は日向から大和朝廷を乗っ取るために、大和まで「東征」したのだ。
初めから大和が目的地だった。大阪で負けて南に大回りしてでも「大和」」に入る必要があったのだ。
(神武東征の航路は腑に落ちないことがある。大分からわざわざ北九州に寄ってるのだが、これは大和から「熊襲征伐」に来た景行天皇の航路を逆行したものと考えられる。大和から九州に入るにはまず北九州に行くだろうと考えられる。)(また、寄っている地域や地名が紀元前660年のものか甚だ疑問だ。4世紀前後の地域や地名ではないかとする意見が説得力がある)

そうして入れ墨をしている自分たちを正当化するために、大和にあった神話の頭に「神武東征」に連なる神話をくっつけたのだ。(だから日向から姫を貰ったり、欠史八代が人ならざるものだったとしたりしてカモフラージュしたのだ)

大和の文化断絶
これが大和の4世紀以降の古墳から馬具と鉄が突然出土し始めた理由になる。(騎馬民族征服説の反証)
前方後円墳が急に出現した理由かもしれない。(日向の前方後円墳は3世紀半ばの古墳がある)
また4~5世紀のヤマトの古墳から文身埴輪(刺青をしていると思える埴輪)が出土する理由でもある。それは熊襲が「入れ墨」をしていた可能性が高いからだ。(魏志倭人伝には邪馬台国や周辺の国は「入れ墨」をしていたと書かれていて、少なくとも隼人は史料に「入れ墨」をしていたと書かれている)西都原熊襲の一族が存命の間は文身埴輪が作られた。それも「入れ墨」の終息と共に廃れることになった。
近畿を中心に4世紀以降に日本独自の砂から鉄を製鉄するタタラ炉の完成形が突然出土する。開発過程の炉は出土していない。
これらの事は神武東征が紀元4世紀すぐに起こったとするなら一本につながるのだ。


「隼人」が大和朝廷に
これが決定的だが、大和朝廷の複数の要職に「隼人」がついているのだ。(記紀に記述あり)
なぜ敵で熊襲と蔑称で呼んでいた「隼人」が大和朝廷の中枢にいるのか。普通はありえない。
それはやはり同族である西都原熊襲王(神武天皇)が大和朝廷を乗っ取ったとしか考えられない。
そして山幸彦(天皇の祖先)に海幸彦(隼人)が服従するという神話を作って正当化したと思われる。


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