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音楽から“魂”が抜けていく──高度に洗練された表現は、本当に豊かなのか

ボーカルについて。

Richard Manuelが歌う、The Band版の “I Shall Be Released” を聴かれたことはあるだろうか。私は聴くと、時々、感情的にまともに受け止めきれなくなる。

あれは「歌が上手い」とか、「表現力がある」とか、そういう言葉で整理できるものではない。

私はThe Bandが好きである。そして言うまでもないが、The BandにはLevon HelmもRick Dankoもいる。三者三様の圧倒的な歌があり、他のバージョン、たとえばJoe Cocker版の “I Shall Be Released” も、それはそれで素晴らしく、大好きだ。

それでも、である。Richard Manuelの声には、別種の破壊力がある。

あの歌は、救済を信じている人の歌というより、救済を信じなければ壊れてしまう人間の訴えに聴こえる。

"Any day now, any day now, I shall be released."

その繰り返しが、希望の宣言ではなく、希望という言葉にしがみつくための祈りに変わる。

聴き手は、もはや歌を鑑賞しているのではない。人間の内側から漏れ出た何かに、真正面から触れてしまう。そんな感覚だ。

そして私は、こうした音楽に出会う機会が、現代では著しく減ってしまったように感じている。


“良質な音楽”が、なぜ時に心を動かさないのか

もちろん、現代にも優れたミュージシャンはいる。以前も触れたが、皆一様に演奏が巧い。音も良い。編曲は洗練され、リズムも和声も高度で、過去の音楽を踏まえたうえで新しい響きを作ろうとする誠実さもある。

だが、それでもなお、心の深部までは届かない音楽が多い。

それはなぜか。

一つには、近年の“良質な音楽”が、高度に精錬された表現へ寄りすぎているからではないかと思う。そして前にも書いた「生成がなくなった」こともある。

歌も、昔に比べれば"歌唱法的に"上手い人が増えた。音程は安定し、声は整えられ、抑揚は精密に設計される。感情の置きどころも分かりやすく、どこで切なくなり、どこで高揚すればよいかが、よく分かるように作られている。

それは確かに、高度な仕事である。

しかし私は、そうした音楽を聴いていて、ふと冷めてしまうことがある。

“感情があるように、よく作られている”

と感じてしまうからだ。

私が音楽に求めているのは、心と感情の vibe で繋がれることだ。

歌い手が「ここで泣かせよう」としていることではなく、この人は、そう歌う以外に自分を保てなかったのではないかと思わされる瞬間に、私は強く動かされる。

Richard Manuelの “I Shall Be Released” は、その極点の一つである。


「高度に精錬された表現」を良い音楽と定義してしまう危うさ

問題は、歌唱技術や洗練を否定したいということではない。

高い技術は、もちろん尊い。整った表現が深い感動を生むこともある。

問題は、高度に精錬され、制御され、洗練されていることを、音楽的価値の中心へ据えすぎることである。

その基準を強くしすぎると、何が起こるか。

Richard Manuelの声は、危うすぎる。
Rick Dankoの歌は、整いすぎていない。
Tom Waitsの声は、きれいとは言い難い。
John Fogertyの叫びは、粗い。
Otis Reddingは、端正に歌い上げる人ではない。 Todd Rundgrenは、時に声の美しさよりも、感情の切実さを前へ押し出す。
James Taylorは、時に「一本調子」とすら見える抑制の歌い方をする。

では彼らは、音楽的に劣っているのか。
もちろん、そんなはずはない。

むしろ彼らは、“整っている”こととは別の次元で、圧倒的に音楽的である。

Tom Waitsのしゃがれた声は、歌唱の欠陥ではなく、歌の世界そのものを決定づける音色である。 John Fogertyの声は、CCRの音楽に湿地と労働と苛立ちを刻み込む。 Otis Reddingの歌は、滑らかさよりも、全身で前へ出てくる衝動が価値になる。 Todd Rundgrenの声には、器用さやポップ職人性だけでは説明できない、どこか剥き出しで、こちらへ不用意に触れてくるような感情の瞬間がある。 James Taylorの抑制は、感情表現の不足ではなく、感情を爆発させないことでしか成立しない深さである。

もし “Fire and Rain” が、現代的なエモーショナル歌唱の作法に従って、要所で声を震わせ、明確な山場を作るように歌われたら、あの曲はたちまち嘘くさくなるだろう。

音楽は、技巧を見せることでのみ深くなるのではない。

その歌が、その人の身体を通ったことでしか成立しないものになっているか。

そこに、音楽の決定的な価値がある。


Rick Dankoのような歌手は、精錬主義の中では生まれにくい

The BandのRick Dankoは、その象徴のような存在だと思う。

彼は、いわゆる“きれいに歌い上げる”タイプのボーカリストではない。Richard Manuelのような天上的な危うさとも違い、Levon Helmのような土着的な語り口とも違う。

しかし、“It Makes No Difference” をRick以外が歌って、あのどうしようもない喪失感が生まれるだろうか。

あの歌は、失恋の歌を上手に歌っているのではない。

もう何をしても変わらない、と悟ってしまった人間が、 それでも言葉だけは続けている。

そう聴こえる。
音程がより安定した歌手、声がより整った歌手、抑揚をより洗練させた歌手なら、技術的には“上手く”歌えるかもしれない。

だが、それであの曲が深くなるとは思えない。

むしろ、Rick Dankoの声にある微妙な脆さ、胸の奥を掻きむしるような響き、完全に整い切らない人間の体温こそが、曲を代替不能にしている。

Robbie Robertsonの作曲能力がどれほど巨大であっても、The Bandの歌は、Richard、Rick、Levonという声を得て初めて、単なる優れた楽曲を超える。そしてRobbieはそれを知っていて適切な表現方法として使い分けていたのである。

ここに重要なことがある。

最高の構築は、最高の“生身”を必要とする。

技術の精錬そのものが問題なのではない。
精錬が、生身を包むためではなく、生身の代替物として持ち上げられ始めることが問題なのだ。


“魂”とは何か──歌い手固有の不可逆性である

ここでいう「魂」とは、精神論や根性論ではない。

私は、こう考えている。

音楽における魂とは、 技術や設計によって完全には回収されない、 歌い手固有の身体、声、傷、衝動、人生感覚が、 曲の中に不可逆に刻まれている状態である。

同じメロディを歌うことはできる。 同じ歌詞をなぞることもできる。 音程をより正確に取り、声をより美しく整えることもできる。

しかし、Richard Manuelの “I Shall Be Released” は、Richard Manuelでなければあの歌にはならない。 Rick Dankoの “It Makes No Difference” は、Rick Dankoでなければあの痛みにはならない。 Otis Reddingの “I’ve Been Loving You Too Long” は、Otis Reddingでなければ、あの“止まれなさ”にはならない。 John Fogertyの “Long As I Can See the Light” は、John Fogertyでなければ、あの泥臭くも切実な祈りにはならない。 James Taylorの “Fire and Rain” は、James Taylorでなければ、あの静かな深淵にはならない。

それは、歌の解釈の巧拙を超えている。

その人が歌った瞬間に、曲の中の人物が実在し始める。

私は、そこに音楽の魂を見る。


“きれいに歌えること”は、歌の価値の一部にすぎない

現代は、歌唱技術を語る言葉が非常に増えた。

声量、音域、ピッチ、ビブラート、フェイク、ロングトーン、ミックスボイス、ブレスの位置。そうした技術論は、確かに歌を理解するうえで有益である。

しかし、それらが前に出すぎると、歌の価値を見誤る。

たとえば、Otis Reddingの声を、純粋な発声技術だけで測ることに、どれほどの意味があるだろう。

彼の凄さは、声が整っていることではない。

感情の圧が、声の形を変えてしまっていること。

そこにある。

Tom Waitsも同じだ。

あの声は、美声からは遠い。しかし、歌の世界が、あの声を通して初めて立ち上がる。

John Fogertyも同じだ。

彼の声は、洗練されたブルーアイド・ソウルのような滑らかさではない。むしろ、ざらつき、押し出し、どこか苛立った熱がある。その声があるからこそ、CCRの楽曲は単なる“古き良きアメリカーナ”ではなく、苦さや切実さを伴った音楽になる。

James Taylorに至っては、感情を過剰に表現しないこと自体が、歌の倫理になっているように思う。

彼は泣き崩れない。叫びもしない。だが、だからこそ、取り返しのつかなさが残る。

歌において、“動かないこと”が、最も深く動かす場合がある。

その可能性を見失った歌唱観は、あまりに貧しい。


“歌ウマ”が、曲を壊してしまうこともある

この問題は、カバー曲を聴くと、よりはっきり見えることがある。

少し前に、女性ボーカリストによるDawnの “Tie a Yellow Ribbon Round the Ole Oak Tree” のカバーを視た。

邦題では「幸せの黄色いリボン」として知られる曲である。

率直に言うと、私はかなり残念に感じた。

この曲は、本来、跳ねるようなリズム感、軽やかな語り口、少し芝居がかった明るさ、そして“帰ってくる人を待つ”という物語の温かさが大切な曲だと思う。

同じように、B.J. Thomasの “Raindrops Keep Fallin’ on My Head” も、過剰に歌い上げる曲ではない。雨に濡れながらも、どこか飄々としている。リズム良く、少し肩の力を抜いて、人生を笑い飛ばすような軽さが必要な曲である。

ところが、そのカバーでは、曲が持つ軽やかな跳ね、語りのリズム、朗らかさよりも、いわゆる“歌ウマ”の技法が前に出てしまっていた。

R&B風のフェイク、現代ポップス的な歌い上げ、あるいは歌謡曲的な情感の付け方。

それ自体が悪いわけではない。

しかし、曲によっては、それがまったく合わない。

歌が上手いことと、曲を理解していることは同じではない。

むしろ、上手く歌おうとする意識が強すぎることで、曲の持っている本来の温度、リズム、時代感、ユーモア、物語性が消えてしまうことがある。

その時、歌は“上手い”かもしれない。

だが、曲は壊れている。

この種のカバーで最も違和感を覚えるのは、歌い手が自分の歌唱力を曲に乗せているだけで、その曲がなぜそのように歌われるべきなのかを掘っていないように聴こえる時である。

カバーとは、原曲をそのままなぞることではない。

しかし、原曲を無視してよいという意味でもない。

曲には、リズムがある。時代がある。背景がある。言葉の置き方がある。主人公の態度がある。歌い手がどこまで感情を見せ、どこで軽く流すべきかという、曲固有の身体性がある。

そこを理解しないまま、何でも現代的なR&B風、ポップス風、歌謡曲風の“歌い上げ”に変換してしまうと、曲は単なる歌唱力の展示台になる。

そして、それを聴いたコメント欄が「上手い」「感動した」「素晴らしい」と絶賛で埋まる時、私は少し暗い気持ちになる。

聴き手が悪いと言いたいのではない。

ただ、歌を聴く基準が、あまりにも

  • 高音が出る

  • 声が伸びる

  • フェイクが入る

  • 情感が分かりやすい

  • 歌い上げている

といった方向へ寄りすぎていないだろうか、と思うのである。

曲の解釈、リズムの理解、原曲への敬意、歌の主人公の距離感。

そうしたものが置き去りにされても、表面上“上手く”聴こえれば評価されてしまう。

これは、かなり危うい。

もちろん、原曲と違う解釈でカバーすること自体は素晴らしい。

たとえば、Leon Russellの “Superstar” を、Karen Carpenterが歌ったバージョンは、原曲とは違う光を当てた名例だと思う(因みに、Leonのオリジナルバージョンを聴いたことがない方は是非、聴いてみて欲しい。恐らく、衝撃を受けるだろう)。

Leon Russellの持つ独特の濃さ、痛み、くぐもった情念を、Karen Carpenterは自分の声の透明感と深い孤独へ置き換えた。

それは単なる歌い上げではない。

曲を理解したうえで、自分にしかできない表現へ変換している。

だから成立している。

一方で、原曲の持つリズムや温度を掴まないまま、ただ現代的な“上手さ”へ寄せるカバーは、曲への敬意ではなく、曲の消費に近い。

これは、今回のテーマと深く関わっている。

音楽から魂が抜けていくというのは、必ずしも下手な音楽が増えるという意味ではない。

むしろ逆で、上手く歌える人が増え、音も整い、表現も分かりやすくなった結果、曲そのものの魂が見えなくなることがある。

歌い手が曲を理解しないまま、歌唱技術だけで曲を上書きしてしまう。

聴き手もまた、曲そのものではなく、“上手く歌っている感じ”に反応してしまう。

そこに、私は今の音楽文化の大きな問題を感じる。


歌い手は、曲のために個性を差し出す

私は、歌い手の“個性”を、曲から浮き上がる自己主張だとは考えていない。

本当に優れた歌い手は、曲のために自分固有の声を差し出し、その結果として、曲そのものをより印象的にしてしまう。

Richard Manuelは、“I Shall Be Released” を自分の歌にしたのではない。

あの曲が本来内包していた解放への希求を、彼の声でしか届かない深度まで掘り下げた。

Rick Dankoも同じだ。

“It Makes No Difference” を過剰にドラマティックに仕上げるのではなく、壊れた人間が、それでも声を出すという曲の核心を立ち上がらせた。

Otis Reddingは、歌を力でねじ伏せたのではない。

愛が止まらないという楽曲の衝動を、声の側から限界まで押し広げた。

James Taylorは、歌を盛り上げなかった。

そのことで、喪失をまだ言葉にし切れない人間の感情を、むしろ正確に残した。

ここにあるのは、

“曲のために個性を消す”ことではなく、 “曲のために、その人にしかない個性を差し出す”こと

である。

私は、そのような歌に強く惹かれる。


音楽の質と、音楽の豊かさは同じではない

では、音楽の質とは何か。

私は、こう考える。

音楽の質とは、 その表現が自ら目指す地点を、 どれだけ必然性をもって実現しているかである。

美しく歌い上げることを目指した音楽には、その質がある。 荒々しく感情を噴き出す歌には、その質がある。 抑制の中に喪失を沈める歌には、その質がある。 演劇的に世界を立ち上げる歌には、その質がある。

では、音楽の豊かさとは何か。

それは、

異なる種類の卓越性が、 一つの“正しい歌い方”へ矯正されずに、 それぞれの必然性をもって共存できること

だと思う。

  • 美声があっていい。

  • ざらついた声があっていい。

  • 叫ぶ歌があっていい。

  • 叫ばないことで痛みを残す歌があっていい。

  • 技巧で聴かせる歌があっていい。

  • その人の存在そのものが歌になってしまう歌があっていい。

音楽が豊かであるとは、こうした価値の幅が保たれていることだ。

ところが今、音楽を語る言葉は、しばしば

  • 上手い

  • ピッチが安定している

  • 表現が繊細

  • 抑揚が巧み

  • 音がきれい

  • 洗練されている

といった、精錬された表現を称揚する語彙へ偏りすぎているように思える。

それらはもちろん大切だ。

しかし、それだけが“良い歌”の基準になってしまったら、歌は高度になるのではなく、単色になる。


多様な音楽があるのに、なぜ魂は薄く感じられるのか

現代は、ジャンルの数だけ見れば、過去よりはるかに多様である。どんな音楽にもアクセスできる。技術のある歌い手も、過去の音楽を膨大に吸収したクリエイターもいる。

それなのに、なぜ多くの音楽が似たように“魂の希薄なもの”に聴こえるのか。

それは、

音楽的な多様性が残っている一方で、 価値判断の中心が、 “高度に整えられた表現”へ静かに寄っているからではないか。

商業主義的なポップスは、即効性と消費性を強める。

それに対抗しようとする真面目なミュージシャンは、音楽性を高めるために、歌唱、和声、リズム、音響、アレンジを磨き上げる。

だが、その結果として、

薄い音楽への対抗が、 高度に理解され、整えられた音楽へ集中し、 人間の声が剥き出しになる方向が、 相対的に見えにくくなっている。

そんな気がしてならない。

これは、懐古趣味として昔を持ち上げたいという話ではない。

過去にも凡庸な音楽は無数にあった。現代にも、心を揺さぶる表現は確かに存在する。

それでもなお、音楽を語るときに、

“上手く作られていること”と、 “魂が残っていること”を、 いつの間にか同一視してはいないか。


結びとして。歌は、上手く歌われるためだけにあるのではない

私は、粗い歌を無条件に称賛したいのではない。 技術や洗練を否定したいのでもない。 美しく歌い上げる歌にも、精密に設計された表現にも、確かな価値があることは分かっている。

そのうえで、なお言いたい。

歌の豊かさは、整っていることだけでは測れない。

Richard Manuelの声が、聴く者の感情を壊してしまうこと。 Rick Dankoの歌が、曲の中の人物を実在させてしまうこと。 Tom Waitsの声が、歌の世界そのものを形づくること。 John Fogertyの叫びが、楽曲に泥と熱を刻み込むこと。 Otis Reddingの歌が、身体ごとこちらへ押し寄せてくること。 Todd Rundgrenの声が、整いきらない感情の揺れをそのまま残すこと。 James Taylorの抑制が、深い喪失をむしろ強く響かせること。

それらは、決して“未整理な表現”ではない。

人間が歌の中に残っている、ということだ。

歌は、ただ上手く歌われるためにあるのではない。

歌い手が、曲のために自分固有の魂を差し出し、 その結果として、曲が忘れがたく、 聴き手の人生にまで入り込んでしまう。

私は、そういう歌を聴きたい。

そして、そんな歌が、 “洗練”や“完成度”の名のもとに、 語られにくく、作られにくくなっているのだとしたら、 それは音楽の進歩ではなく、

音楽が持っていた最も大切な豊かさの一部が、静かに失われつつあるということではないだろうか。

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