3億円のゲートと、筑紫哲也の遺言
「ワンヘルス」という考え方があるそうだ。
人間と動物、そして環境の健康を切り離さず、一体として考える理念だという。感染症対策や環境保全を考えれば、もっともな話である。人間だけが健康でも、動物や自然環境が傷んでいれば、いずれその影響は人間にも返ってくる。
では、その理念を広めるために何をするか。福岡県は、約2億8千万円をかけてゲートを建てた。
なるほど。人と動物と環境の健康には、まずゲートが必要らしい。「ワンヘルス・カーボンゲート」と名付けられたそのモニュメントは、高さ7メートル、幅9・5メートル。炭素繊維のチューブを二重らせん状に編み込んだものだそうだ。設計には、あの隈研吾氏が協力している。
設置されたのは福岡県筑後市の県営公園。筑後市は、福岡県議会の「ドン」と呼ばれる蔵内勇夫議長の選挙区でもある。石碑には蔵内氏の名前が刻まれているという。
人と動物と環境に、政治家と、私が勝手に「政商」と呼んでいる著名建築家まで加わる。なるほど、これが官民一体のワンヘルスなのか。
このモニュメントについて、服部誠太郎知事は「疑念を持たれている」として、行政改革審議会で検証する考えを示した。ほんまかいな。どうせ、みんなが忘れた頃に「適切な手続きを経ており、疑念は解消された」と発表して終わり、という話ではないだろうか。
一方、蔵内議長の説明は「将来評価される」とのことだ。
これも、なかなか便利な言葉である。
なぜ必要だったのか、なぜ約3億円もかかったのか、ほかの使い道はなかったのか、こうした質問に、いま具体的な答えを出さなくてもいい。評価は未来に委ねられているのだから。もっとも、未来の人々に委ねられるのは評価だけではない。維持管理の費用も、更新の費用も、未来の人々の担当である。
建てるかどうかは現在の人が決める。建てた意味があったかどうかは未来の人に考えてもらう。そして、未来の請求書も未来へ回す。
ずいぶんと手際のいい分担だ。
さて、約3億円で、ゲートの他に何ができただろうか。感染症の研究、獣医療、公衆衛生、動物保護、環境教育。ワンヘルスの理念と直接結びつきそうな使い道なら、いくらでも思い浮かぶ。
しかし、それらはたいてい地味だ。映えない。研究者を増やしても巨大な二重らせんは立たない。保健所の体制を整えても石碑は残らない。教育に予算を回しても、政治家の名前を刻む場所が無い。
その点、ゲートは分かりやすい。
大きいし目立つ。有名建築家が関わる上、完成すれば写真にも写る。何より、「何かをやった」という形が残る。今の世の中、「やってる感」を出したもの勝ちなのは皆さんよくご存じだろう。
そして、意地の悪い話だが、功成り名を遂げ、富を得た人物は、得てして歴史に名を残したくなるものなのだ。洋の東西を問わず、そういう話は珍しくない。ただ、自費で美術館を建てたり、奨学金を創設したりするなら、いくらでも称賛すればよい。税金で建てたモニュメントに政治家の名前を刻むとなれば、話は別だ。名声は本人のもの、請求書は県民のもの。ずいぶん都合のいい役割分担ではないか。
こういうニュースを見ると、筑紫哲也の最後の「多事争論」を思い出す。
筑紫は、政治とは世代間の資源配分だと語っていた。若い世代、これからの世代のために、どれだけお金を使うのか。すでに社会を支えてきた高齢者のために、どれだけお金を使うのか。本来なら、その配分をどうするかが政治の選択肢になるはずだ、と。
けれど、日本の問題は、どちらを優先するかという話ですらないのではないかと、筑紫は言った。
実はどっちにも行っていないんです。
そして続けた。
つまり未来にも投資してない、過去にも投資していない。
この言葉は、いま思い返しても重い。
若者と高齢者が、限られた予算を奪い合っている。そういう構図は分かりやすいし、テレビの討論にも向いている。
だが、その前に問うべきことがある。
そもそも、その予算は本当に若者と高齢者のあいだで争われているのか。
教育に十分回っているのか。医療や介護に届いているのか。地方で暮らす人の交通や生活基盤は守られているのか。どこにも十分に届いていないとしたら、いったい何に使われているのか。
筑紫は、自分自身が闘っていたがんになぞらえて、この国の状態を語った。人間の身体ががんに冒されると、本来なら生きるために必要な場所へ向かうはずの栄養やエネルギーが、別のところへ奪われてしまう。だから、この国はがんにかかっているのだ、と。
もちろん、3億円のゲート一つで、日本の財政も地方自治も語り尽くせるわけではない。道路も公共施設も必要だし、文化や景観への投資まで、すべて無駄だと言いたいわけでもない。
ただ、何にお金を使うかには、その社会が何を優先しているかが表れる。
保育や教育、医療や介護、研究や環境保全に回すのか、それとも、理念を象徴するゲートを建てるのか。
すべてを選べるほどの余裕があるなら、話は別かもしれない。少なくとも、経済も人口も拡大していた時代には、将来の成長によって負担を吸収できるという期待があった。けれども、今は人口減少の社会である。地方の交通や医療はすでに先細っており、東京や大阪、福岡のような大都市でも介護を支える人手が足りない状況だ。介護施設利用に伴う家計負担も重い。そんな時代に、「将来評価される」という言葉だけで現在の支出を正当化してよいのだろうか。そして、その支出が「適切な手続きを経ており、疑念は解消された」とされても良いのだろうか。更に言うなら、政治家個人の名前を石碑に刻むことが、ワンヘルスという公共的な理念の推進に本当に必要だったのだろうか。
筑紫哲也の言葉で、私が忘れられないものがもう一つある。
坂本弁護士一家事件をめぐる問題で、彼は自分が出演していた放送局に向かって、「TBSは今日、死んだに等しい」と語った。
当時、私はその放送を息を詰めて見ていた。
その姿を見て、私はこの人の言葉を生涯追いかけようと思った。
最後の「多事争論」でも、筑紫はこう語っている。
問題はここにあるんだということは、まずはっきりしないと、何事も始まらない。
別に、立派な結論が必要なわけではない。
まず、「本当にそれが必要だったのか」「そのお金で、ほかに何ができたのか」と聞く。「将来評価される」というなら、「将来の負担は誰が引き受けるのか」と聞く。
その程度の質問から始めるしかないのだと思う。
人と動物と環境の健康を考えることは大切だ。ただ、その前に、私たちの社会の健康状態も、一度きちんと診てもらったほうがいいのではないか。
